やしお

ふつうの会社員の日記です。

「わざわざカミングアウト」と言えて他愛ない人達よ

 「AAAの與真司郎氏がゲイであることを告白した」ニュースにまつわるあれこれと、個人的なこととかのメモ。
  【全文】「AAA」與真司郎さん、ゲイだと公表「自分を愛することが一番」ファンに向けた言葉:東京新聞 TOKYO Web
 

「わざわざ」カミングアウト

 Twitter(X)の右派アカウントが「いつも思うんだが、個人的な話だから黙ってればいいのに何でわざわざカミングアウトするかね。」とこのニュースに対して投稿して、1万以上のいいねを集めていた。
 これって、「『自分は異性愛者だ』とは『わざわざ』言わないのに変だよね」という、いにしえからある言われ方だけど、どうして「わざわざ」言う必要が(異性愛者とは違って)生じる状況になるのか、という問いを無視しないと言えない話で、あまりに無邪気過ぎるか、ずるいかどっちかだなといつも思う。


 リプ欄で「落ち目だから話題作りのためにしているだけ」とか、「ビッグウェーブにのるしかない」のキャプチャ画像を貼ったり、「承認欲求のためにやってる」、「ゲイ差別のない日本でお涙頂戴をやってる」、「LGBTQ団体から影響を受けている」といったコメントが並んでいた。
 これは「我々異性愛者が言わないことを、同性愛者等は『わざわざ』言ってて特権的だ」という「マジョリティ/標準である我々こそが被害者だ」という被害者意識の一環になっている。
 その歪んだ被害者意識に訴えかけられると見込んで、元の投稿者はそういうことを言っているのだろうと思ってて「無邪気かずるいか」だと「ずるい」んだと思って、心底軽蔑している。


無邪気な方の「わざわざ」

 一方で無知・無邪気に「わざわざカミングアウトしなくても」と思ってしまう人たちについて。当事者だといくつもの具体的な場面がすぐ思い浮かぶし、当事者じゃなくても想像すればすぐ分かりそうなところだけど、いかんせん「異性愛者がデフォ」前提で話がされるのがつらいので、「わざわざ」言いたくなくても、しょうがなく言ってる。
 ゲイの男性が「彼女いるんだっけ?」と言われるたびに、一瞬(どう答えたもんか)となる。「結婚してないのってひょっとして『ソッチ』なの?」とか言われた日には、どう答えりゃええんじゃ、という気持ちにはなる。「そうっすよ」って言ったら、お前、この場をどうするつもりなんや、という気持ちにはなる。
 ウソをつくのもめちゃくちゃストレスだし。


 面倒なので、全部ウソつくことにして、単に「彼女いないだけの人」「彼氏いないだけの人」になりきるしかない。
 そういう意味で、「彼女/彼氏と性別を特定せずにパートナーと呼ぶ」「結婚してるかどうか(相手から言い出さない限り)そもそも聞かない」と広まってきたなら、ずいぶん当事者にとってのストレスが減ってる。


カムアウトすること

 そうは言ったって、「面倒だから全部ウソつくことにする」コミュニティ(職場とか)だけで生きてるわけでもない。さすがに仲のいい友人だと、お互いの突っ込んだ話だってしたい。自分のことを分かってほしい気持ちだってある。
 そんなわけで「わざわざ」カムアウトしたりもする。まあこの人なら大丈夫だろう、と信じて何気なく言う。別に事前に「言おう言おう」と準備してなくても、話の流れの中で「実はそうなんだよね~」くらいの軽い調子で言うこともある。軽い調子を装いながら、相手がどんな反応するか割と緊張していたりもする。


 個人的な経験だと、「ああ、そうなの」くらいで済む人もいれば(そう言ってくれそうな人だけにしか言ってないし)、「えっひょっとして俺のこと……」となる人もいた。
「そりゃあんた自意識過剰だよ」と即座に言って差し上げるが、もし本当にそうだったらどうすんじゃ、という気持ちにはなる。
 このファン向けイベントで與氏は、一通りの発表の後、メンバーがいる中で「メンバーみんなごめん。タイプではない。でも人間として大好きだよ」と言って、それにメンバーが「俺は大好きなのに」と答えて会場が和やかな雰囲気になった、と報じられてもいた。
  AAAのSHINJIROゲイ告白「タイプではない」にメンバー末吉秀太「俺は大好きなのに~」 - 芸能 : 日刊スポーツ
 これを言うのも結構難しいところだなと感じた。別に「ゲイであること」がただちに「周辺の人物に気があること」には当然(ヘテロセクシャルと同様)ないので、あえてこれを言ってしまうと、そのよくある誤解を助長するようにも見えてしまう。
 でもそれ以上に、ひょっとしてメンバー間で、と一々勘繰られたり勝手に書かれる可能性を先に潰してしまう方がマシ、という価値判断も理解できる。


 あと「自分はそういうの平気だから/気にしないから」と言う人もいた。それ言っちゃったら、それもう「当たり前なこと」ではなく「平気なこと」「気にしなくていいこと」って特殊な何かですって言ってることになっちゃうじゃんね、とは思うし、かなり違和感を覚えるものの、スルーしていた。「ありがとね」という立場にもないし。


芸能人という立場

 積極的にウソをつかなかったとしても、「自分はそうじゃないのに、そうであることにしておく」状態がそもそも結構ストレスになる。マイルドな嘘というか、薄い嘘の定常状態というか。芸能人だとそれだけではなくて、もっと大変だろうなと想像する。
 具体名はここで挙げないけど、セクシュアリティを週刊誌報道とかで本人の望まない形でバラされる事例がある。噂レベル、みたいな言い方で勝手に広められたりもする。
 特に若手俳優やアイドルなどの職業だと、(そもそもそれがいいかはともかく)その人に恋人がいない/結婚してない、みたいなポイントでファンを集めるみたいな形があると苦しい。「単に言わないだけ」のつもりでも、何か裏切っているような心理になってくるとつらい。
 そうした諸々を想像すれば、「わざわざ」自分のセクシュアリティについて自分から丁寧に説明してしまおう、という選択を取るのは十分に理解できる。


 「話題作りのため」「承認欲求のため」という解釈の可能性が確かに存在していたとしても、全体の文脈(まだ異性愛者が当たり前と認識される世の中である、当人は芸能人である)からすれば、その解釈を採用しない方が妥当だろうと思う。「可能性としては存在するが穿った解釈」を採用すると、自分で自分が惨めになるからやめた方がいいけど、被害者意識の中にいる人はわからない。
 これ、もしも、後になって「(ウソではなかったけど)プロモーション目的やポジション獲得のためでした」と明らかになったら、この人達は「それ見たことか」と鬼の首を取ったように言うだろう。個別の問題を全体にすり替える動きを取ろうとする。ただその時は、「この人の、この時の、その利用の仕方は問題だった」と個別具体的に指摘するだけのことだよ。
 これに限らない話だけど、一つ問題を見つけて、その人/組織/仕組み/言説の全てを否定しようとする、「だから信用できない、全部ウソ」に持ち込もうとするのは、たぶん本人も戦略的じゃなく何だか分からずにやってるんだろうけど、何にも前進しないし極めて害悪だと思う。


面白おかしく扱っていた時代

 與氏の公表の中で、「僕が子どものころ、テレビではLGBTQ+のことをおもしろおかしく扱っている時代でした」という一節があって、與氏とは同世代なので(そうだったね)という気持ちになった。石橋貴明保毛尾田保毛男のことを思い出していた。そりゃ全国区のテレビで「面白おかしくイジっていい対象」扱いで、周りの同級生もその価値観を内面化させてるまっただ中にいたら、結構な恐怖よね。


 與氏の発表全体が、與氏自身の思いとも絡めながら、LGBTQ+当事者の苦しみや権利擁護について触れて(当事者の自殺率にも言及している)、啓蒙的な内容になっていた。現時点では「自分個人がそうです、ただの情報共有です」では済まなくて、ファンイベントであっても、公表してある程度広まることを考えると、そこに丁寧に触れておかないと、また勝手な文脈が形成されちゃうし、「なんでわざわざ言うんだよ」の声もますます出てきちゃうし、と差別解消の段階論でまだまだな状況だしなと改めて思った。


セクシュアリティ流動性

 與氏の公表のニュースを見てて、もっと個人のセクシュアリティが不安定で非固定的なものだという認識が、一般化してくれりゃあなと感じていた。
 「私はゲイです」と言えば、「この人はヘテロ」枠から「この人はゲイ」枠に移る、みたいに思われる。これはゲイの当事者であっても、ゲイかヘテロかを二分したがる人は結構いたな、何ならバイなんか裏切者ぐらいな言い方する人もいたな、と個人的な体験としてもある。
 でもそうじゃなくて、その「枠」みたいなものがそもそも明確には存在しない、固定的なもんじゃない、というのが当たり前になるともっと楽になる。頭で理解してる以上に、感覚的にみんな「そういうもん」「別に恐ろしいことでもない」と思ってる状態になれれば、そもそも「わざわざカミングアウト」自体が不要になってくる。
 こういうこと言うと「社会がおかしくなる」と右派(というか被害者意識国粋主義派)の人々は言うかもしれない。でもそれが現実なので、それを否定されても存在しなくなるわけではない。現実を仕組みに合わせるなんて無理筋なのだから、現実にうまく適合するように仕組みを作ってこうぜ、としか言いようがない。仕組みには消費期限があるのだから、変えていくしかない。


 自分自身は、小5、6くらいまで「自分は男だから、性愛の対象は女子」という価値観を素直に内面化させて、そういうもんだと思っていた。小6~中2くらいでどっちともになって、それ以降、自分自身は「ゲイよりのバイ」(パンセクシュアルではなさそう)という認識のまま、性的な接触などはほぼ同性に限られていたが、30代半ばから現在の女性のパートナーと暮らしている。
 世の中には「ゲイじゃないけど同性との性経験があるし、別に嫌でもない」という人も、「ゲイだけど異性とも」の人もいるし、性的指向性自認もグラデーションだし、時間的な変化が現実にある。


規範との齟齬で生じる悩み

 與氏の発表では、自身も悩み苦しんだ経験があり、LGBTQ+の当事者の苦しみについても言及されていた。自分自身を振り返ってみると、あまり悩んだり苦しんだりしたことはなかったなと思い出していた。
 思春期に同性を好きになった時も、異性であれば付き合えただろうかと思って悔しいと感じたり、なんとかお互いの利害関係が合致しないだろうかと考えたり、まあ一般的な恋愛の悩みに近いものはあっても、ゲイないしバイであることそのもの(アイデンティティ)に苦しんだことはなかった。同級生や友人には割と明かしたりもしていた。親には(知ってそうとは思いつつ)もともと自分の交友関係の話をさほどしてなかったので話さなかったけれど、それで悩んだこともなかった。
 バイだったので従来からの規範にさらされてもさほど齟齬を感じなかったとか、親や周囲がさほど強い異性愛規範意識を振りまかなかったとか、ネットがあって簡単に相手が見つかって同性間の付き合いが珍しいものとも思っていなかったとか、色々な要因があるかもしれない。


 個人的なケースを持ち出して「だからみんな悩んでない」と主張するのは大間違いだけれど、一方で「当事者は悩み苦しむ存在だ」と固定的に見るのも間違ってしまう。悩んでいる場合でも、年中常時苦悩しているわけではなく、普段は普通に暮らしていても、ふとした瞬間に耐え難い苦痛に苛まれることもあるし、それが限度を超えてしまうこともある。


イージーな側にいること

 自分は女性のパートナーと暮らしてて、2人で食事したり旅行に行ったり、あるいは入院した時とか、「男女のカップルである」ことで「常識」に収まるのがめちゃくちゃ楽だなと正直感じている。それ以前に30代の男性2人であれこれしていた時との差でつくづくそう感じる。
 最初の右派アカウントのツイートのリプ欄の「ゲイ差別のない日本」と書いてる人いて、すごい認知だなと思うけど(マツコ・デラックス氏などがテレビに出ていることや、江戸時代以前の男色文化などを証拠として「ほら受け入れられてるじゃん」という認識らしい)、現実には「当たり前のようにスルーされる」からはほど遠い。例えば「眼鏡をかけてる人」をいちいち珍しがらないのと同じくらいには全くなってない。
 一種の後ろめたさも感じている。生きづらさからぽんっと自分だけ抜けられました、よかったね、みたいにはならない。


 それは「男女ペアで生きてる」だけでなくて、男性である/障害がない/首都圏に住んでる/ホワイト企業勤務で年収が平均以上にある/親が外国出身者じゃない/戸籍や住民票がある/親が毒親じゃなかった/ヤングケアラーではなかった/先進国に生まれた等々、いろんな面で自分がたまたまイージーな側にいる。具体的に何か社会活動をしているのかというと何もしてないけど(支援団体への寄付を毎年続けているとか、ここで思ったことのメモを書いてるとかくらい)、「楽な側」に自分がいる、この「楽さ」は当たり前にあるわけじゃない、とはせいぜい折に触れてせめて思い出す。
 一方で「マジョリティの側にいて声を上げないのは加害行為だ」といった言い方を目にすることがあって、自分への戒めとしてはともかく、他者に向けてそれを言うのが効果的かはちょっとどうだろうという気持ちがある。攻撃されていると感じたマジョリティ側が被害者意識を募らせて溝がどんどん深まっていく。とりわけ、ある側面ではマジョリティでも、(例えば経済的に苦しいなど)別の側面では社会的に弱者である人にとっては、「なんで苦しんでる自分を攻撃するんだ」となってくる。加害者にもグラデーションがあって、傍観者(事態を黙認した人)まで含めて広く言えば加害者と言えたとしても、やはりグラデーションに応じて責任の大きさ・非難の強さも変わるんじゃないか。また自分への戒めとしても「傍観もまた加害」を是とすると、あらゆる不当な状況に向かって何かをし続けないといけなくなって、苦しくなってしまう。
 といった諸々から「声を上げないマジョリティは加害者」と一足飛びに言うのは厳しいかも、という気持ちがある一方で、過去の差別が解消されていく歴史的なプロセスを見ても、強いトーンで怒りを発する人たちのおかげで事態が前進している側面が確かにあって、「マイルドにやってこうぜ」と言うのもタダ乗りでズルいなとも感じている。


 差別が解消されるプロセスには段階があって、その段階と照合すると、アファーマティブアクションやポリティカルコレクトネス、あるいはお笑いや揶揄といったものの位置付けが整理できるし、それらが逆差別や言葉狩りといって批判されがちでもやはり段階論からはそうならないといった話を、自分なりに本気で整理したいと思って数年前に↓を書いた。
  差別が解消されるプロセス - やしお
 ここで書いたことも、上でまとめていた内容以上のものはないので、書く意味があまりない気もしてるけど、「黙ってればいいのに何でわざわざカミングアウトするかね。」と放言してたくさんいいねとリツイートを稼いでる人を見かけて(またか)という気になったのなら、できる範囲で、都度、「また」、「なんで『わざわざ』言ってるか」を言い直した方がいいかもね、と思って。




投げ銭代わりの設定。お礼の一言だけ書いてある。

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