やしお

ふつうの会社員の日記です。

ライブの中でバンドが限度を超えて美しい瞬間

 ライブハウスでロックのおバンドのライブを見た。2ヶ月ぶり人生2回目だった。前回は下のメモに書いた通りおリュリュとおグンザリだったけれど、
  ライブハウスの中で感情が変化する - やしお
今回はシネマスタッフを見た。


 すごかった。盛り上がるとか楽しいとか、そうした諸々をあっさり乗り越えて、なにか途方もなく美しいものを見たと思った。神々しさというものが、こういう形で現実に生じ得るのだということを、確かに知ったと思った。圧倒的な事態を目の前にして人は、もはや涙を滂沱として流すばかりでひたすら、轟音の中でその事態をかろうじて見つめることしかできないのだ。
 神々しいという言葉を使った。この語は本義からいえば尊く厳粛な様をあらわして、音の塊が圧倒する中で一見似つかわしくない語かもしれない。しかしそれでも、ここではこの語が全的につきづきしいと私に思われる。
 私はできるだけ言葉を正確に運用したい。不正確な運用で安売りしたくはなく、されるのを見たくない。例えば「痛恨の極み」という言葉は、このつらさ、このレベルにおいてのみ使用が可能だと父が死んだときに理解した。あるいは柄谷行人は「中上健次にだけは天才という言葉を使うことを自分に許したいと思う」といったことを葬式の弔辞で語り、そしてどういうあり方で彼が「天才」であり得たかを語った。
 それらと同様に私は、このライブで彼らが見せたいくつかの一瞬を、神々しいと呼ぶのをはじめて自分に許さざるを得ないと思った。


 それを支えるのは構成員一人ひとりの演奏であり、声であり、それらが組織されたり、あるいは組織化を拒んだりする音楽であり、そうした音共をあられもなく増加させて観客の身体を振動させる装置であり、または彼らを取り巻く物語であったり観客の声であったりして、あらゆる要素が紛れもなく支えていくのだとして、そのことを総体的に語る能力が私にはない。とりわけ音楽についてその力が十分でない。それだからさしあたりここでは、ステージ中央で演奏するギタリスト辻友貴の姿にフォーカスして記憶を残しておこうと思った。


 びっくりしちゃったよね最初。だってすーごい動き回るんだもん。でも違うんだよ。「ロックってこんな感じでしょ?」「激しく動き回ったり客をあおったりするんでしょ」っていう手垢まみれのイメージの追認で動きまわってるんじゃない。もっとごくシンプルに、この人が演奏すれば確かにそうなるのだろう、と問答無用で納得させる振る舞いだった。ほとんど誠実さに近いものだ。
 例えば小説で特徴的な文体というものがあったりする。異様に饒舌だったり、修飾が過剰だったり、体現止めや倒置が多用されていたりするような文体は、多くの場合、選択として安易であり、方法として容易なためにかえって退屈さを招きよせてしまう。けれどまれに、その小説にとっての必要性をぴったり満たす形でそうした文体が選択されている場合がある。必要とは、主体的に、もしくは不可避的にされた選択群に対して整合的であるという意味である。そんなとき読み手は小説としての誠実さにうれしくなってしまう。
 辻友貴の動きというのは、ちょうどそれと同じような意味で、この作品、この時空間にとって全く妥当でかつ無謬であるような振る舞いとしか思われない。そういう誠実さが「ロックバンドのメンバーが演奏中に動き回っている」という事態においてあり得るのかってことにびっくりしたんだよ。


 それからまたびっくりしちゃった。なんて顔するんだろう、って、なんちゅう顔して弾いてんの、一体これは……そう唖然としてしまう。ああいう笑顔をどう呼んでいいのかちょっと見当もつかない。私の知る限りでは、解脱という言葉が最も近いかもしれない。エレキギターという楽器そのものの悦び、あるいは他の楽器の音の悦び、この場の悦びを、距離ゼロで媒介しているというような表情を目の当たりにして、私たちは途方にくれてしまう。それでいてもう視線を外すことができない。そんな楽しいってことそのものの顔なんてあり得るのかしら。
 こういう表情を私は、いくつかの優れた映画の中でしか見たことがなかった。例えばジャ・ジャンクー監督作『世界』で言葉の通じない同僚のロシア人女性と食事を終えた中国人女性が、オープンのバスで風に当たる無言の長いショットの中で見せたあの笑顔であり、たむらまさき監督作『ドライブイン蒲生』で姉弟がいろいろな瞬間に見せたあの笑顔である。徹底して俳優側のコンテクストに沿っていく演出家と、それに応じて役と自身のコンテクストをバランスさせながらある人間を現実に生む俳優とが揃って、はじめて可能になるこうした表情を、この目の前で、ライブハウスの中で見ることになるなんて思ってなかったからびっくりしたわけ。


 それでまたびっくりしたこと。そんな風に激しく動き続け、口でカポタストを引き剥がし、観客に向かってダイブさえした彼が、ふいにその場に止まって美しい旋律をどこまでも優しく、ぜんぶ許しているんだみたいな顔して弾くんだよ。そうゆうの急に見せられたらむり。うち泣いてるじゃん? 人間はコントラストしか識別できないからね。しょうがないね。


 やっぱ見ててこれはファンに、本義としてのファン=ファナティックという意味でのファンになっても当然って感じした。好きと呼ぶのは少しずれがあって、心酔させられるという言い方の方がたぶん近い。たとえば新興宗教もこうしたようなあり方で教祖が目の前に現れるのなら、もう抗いがたいのかもねと思った。
 ここではギタリスト辻友貴についてしか話していない。だけど彼一人が同じことをしたってこの感覚が再現され得るわけでは当然ない。じゃあ盆踊り会場でたった一人で弾いてるのを遠くで眺めてて同じふうに思うかってそんなわけない。ボーカリスト飯田瑞規の声のみずみずしさなり、どれだけノイズ成分が大量に含まれていてもかえって常にクリアーという矛盾するような印象を与える演奏だって、こうした受容側の感覚を明らかに支えてるのはわかる。
 それから今回ステージのかなり近くで見たというのも受容側の要素として大きかった。だってもう、いるんだもん。すぐそこに。職場の居室に座ってて同僚の顔が見える、ぐらいの距離だもん。もともと遠くの方で見るつもりだったけど、今回誘ってくれた人がわりと前の方に連れていってくれたからこんな思いをすることができた。(ただ、どっちかというともう微動だにせずにただ見つめているって感じでいたいけれど、近くにいるということは演奏者の気持ちを楽にするために「本当に素晴らしいですね」というのをこちら側も表現しないといけないのでそれが少し大変だった。)
 それからこれは前回も書いたことだけれど、MCが観客の緊張を解くことの効果は少なくない。このたびは本人たち以外にも、企画のカワシマ先生によるクイズだったりゲストの中山将による「自分が鳩胸だったことを感謝する」旨の即興歌だったりによって笑って、大きにリラックスさせられた。そうやって観客は緊張に邪魔されることなく最大限ライブを楽しめるようになるんだ。


 ところで、物語的な意味、言語的な意味という面ではこの感動の支えにはなっていないというのは、私にとって確からしい。
 出身高校の90周年記念のとき高校3年生彼らが演奏して、「誰も名を知らぬもののいない存在になって100周年で帰ってくる」と宣言した。そしてその10年後、高校の100周年記念事業として今回彼らは演奏した。日本の老若男女が知っている、という状態では到底ないものの、十分に力を備えて凱旋したのだから素晴らしいことだ。(ちなみに「誰も名を知らぬもののいない存在」というのは、人々の興味がテレビによって大規模に組織されない現在時においてはほとんど実現が難しく、例外的にそれが実現されるときには極めて短期間で消費され尽くすような社会になっているのだから、それが実現されていないことはかえって喜ばしいこととさえ思われる。)ただそうした物語的な側面が直接的に感動へと結びつくことが私にはほとんどない。物語的な感動から身を引き剥がすようなトレーニングを私の10年は積み上げてきたのだから仕方がない。とはいえ、それを喜ばしいと思うことが私をリラックスさせて受容しやすい状態にさせるという、MCと同様な効果はあったと思われる。
 あるいは歌詞の意味内容による感動というものもない。ほとんど歌詞を知らない(歌詞を読みこむという習慣がない)。もっと言うと曲名もほとんど覚えていない。
 これは物語的な意味、言語的な意味によって人が感動することを否定するものでは全くない。私の今回の感動を支える要素としてそれらは機能する立場になかった、というだけのことしか意味していない。別のところから今回の感動が私に訪れたらしい、というだけのことだ。


 ほんとうになにか信じがたい体験だった。これだけのために川崎から岐阜へ戻って、地元の友人にも家族にも会わずに帰ったけれど、全く満足だった。筆舌に尽くし難いとして、それは何も書かずに済ませるという態度を私に許しはしなかった。
 あと始めてライブのおティーを買いました。おティーのシャツじたい買ったの10年ぶりくらいと思う。これはとってもいいおティーと思う。