やしお

ふつうの会社員の日記です。

「世間」への恐れ

 先のエントリー『私がうんこ味のカレーをいつの間にか食べていたワケ』(id:Yashio:20110601:1306940343)で触れた<「世間」への恐れ>について補足というか、その他思うところを、やや散漫ながら書くことにします。


 この<「世間」への恐れ>がどこから来たのかという点について、私が参考にしているものの一つを引用しておきます。

 法的には無罪であっても、道徳的に責任があるということがあります。国家が法的に罪を追求するとしたら、道徳的に責任を追及するのはいわば共同体です。その意味で、道徳は、共同体が存続するための規範であるということができます。これはどんな未開社会にも、どんな国にもあります。しかし、他国と比較してみると、日本のケースがかなり特異なものだということがわかります。(pp.21-22)


われわれが日本で出会うのは、儒教とかキリスト教というような明確な道徳律ではなく、どこにもその主体も原理も明確にないような「世間」の道徳です。(p.31)


 このような「世間」がどこから来たのか。私は別の所でそれを考察していますが、それは徳川時代にいびつなかたちで形成され、明治以後も、さらに戦後の農地解放以後も解体されなかったムラ共同体に由来すると思います。戦前には地主による小作人の支配が「封建遺制」として論じられましたが、本当は、地主をも拘束しているのがムラ共同体です。ヨーロッパにおいても、中国・朝鮮においても、地主は領主または官吏であって、そこに封建遺制と鋭い階級対立がありましたが、日本では、徳川時代のムラ共同体がそのまま残ったのです。日本において「封建遺制」というべきものは、この共同体のことです。(pp.31-32)


ただ、「世間」をおそれ、基準からずれないようにしている。(p.33)


柄谷行人『倫理21』平凡社ライブラリー


 この<「世間」をおそれ、基準からずれないようにしている>というのは、空気を読むことへの強制力と言い換えが可能かと思いますが、日本で生活する私の実感としても強くあります。自分がどうしたいかというより相手に嫌われないよう過度に気を使う、その裏返しに相手にもそれを求めているようなところでしょうか。
 きちんと電車待ちの列に並んでいるのに後から来た奴が先に行こうとするので猛烈にイライラするというのもそれかもしれません。


 ちょうど今朝、テレビで「スーパークールビズ」(名前が相変わらずダサい)について特集をしていました。夏の節電に向けて更なる軽装をしようという話です。
 あまり実施しない人/会社が多いようだ、という結論になっていました。それは、自分が軽装にしてもいいかなと思っているし、相手が軽装であっても何とも思わないけれど、相手が自分のことを失礼だと思われると嫌なので結局やらない、という選択が多いからのようです。「相手」というのは上司だったり同僚だったり顧客だったりのことです。これを見るにつけ<「世間」をおそれ、基準からずれないようにしている>というのがきちんと仕事してるなあと思いました。
 ただ、テレビなので<「世間」をおそれ>る様を嗤う快楽を貪るために演出していたりするのかもしれません。
 余談ですが、私は2年ほど前に餃子の王将で定食を食べていたら、「とくダネ!」のテレビクルーがインタビューを取ろうとしてきて、私を「やたら餃子が好きな人」に仕立てあげようとして腹が立ったので「餃子が好きって言ってほしいんですか」と聞いたら「ええ、まあ」と答えられて、え、こいつ素直じゃんかわいい……ってなって以来、テレビのことは嘘つきだと思っています。(id:Yashio:20090710:1250961556)


 それで「スーパークールビズ」を紹介していたのが「とくダネ!」だったわけですが、平日のそんな時間にテレビを見ていたのは、今朝寝過ごして午前休をとったからです。(今朝は信じがたいほど気持ちのいい目覚めでした……。入社4年目でついにやってしまいました。でも、絶望的に気持ちのいい目覚めでした。)
 午前休を取っている以上、午後の始業(12:45)前までに会社に入ればいいわけですが、こう、なんとなく、早く行った方がいいんじゃないかという気にさせられて、でも、ゆっくりしていたいという気持ちとの間をとって、結局11時前に出社しました。これも「世間」への恐れですね。


 そういえば、3月11日の大地震発生の直後、日本人の規律正しさ(パニックを起こさない、きちんと列に並ぶ等々)について海外が、あるいは日本人自身が賞賛したというニュースをたびたび目にしましたが、それも、個々人の気品云々に因るというより、空気を読むことへの強制力、「世間」への恐れからきていたのだろうなあと思います。
 褒められるたびにむず痒さを覚えていたのは、いつもは同じ理由で主体性の無さを詰られ嘲られていたのに、急に同じ理由で褒められ始めたからです。
 そうは言っても、地震でメタメタにされた精神にとって、ほんの少しでも自分を肯定してくれるものが無ければ生きていかれないし、そもそも肯定/否定の身振りは、いささかの矛盾も生じさせずに、仮定・公理の選択如何によってどちらでも取り得るという種類のものなので、別にとやかく言うほどのことでもない気はします。褒めてくれるならありがたく頂戴しときましょ、それで元気になれればという感じです。