やしお

ふつうの会社員の日記です。

私がうんこ味のカレーをいつの間にか食べていたワケ

緊張感を担保する場所

ちなみに海外での働き方ってのは、日本で「仕事」と呼ばれてるモノとは似ても似つかない完全な別物。定時退社や有給完全消化が当たり前ってだけでなく、まず何よりオフィスの「空気」の軽さが違う。俺が今働いている海外外資では、皆好き好きに音楽やラジオ聞きながら仕事してるし、暇になって手が空いたらpantry(休憩室)でお菓子食べながら、無料自販機のコーヒー飲みながら雑談して、定時になったら誰に断る事もなく退社(って言うか、自分の仕事は自分で責任持ってmanageしてるんだからそんなの当たり前)だしね。間違っても「帰ってもいいですか?」なんて確認しないよw。自分の仕事なのに誰に確認するんだよ?


この「空気」の軽さの理由は、仕事が神聖化されずに、「家族、プライベート>仕事」って価値観が社会全体に根付いているから。


「仕事の神聖化をヤメる」and「奴隷型顧客満足第一主義をヤメる」。 ニートの海外就職日記
http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/blog-entry-300.html


と、いうお話を読みながら、この<海外での働き方>を可能にしているものの一つが、クビの切りやすさにあるのかもしれない、とふと思いました。
 <この「空気」の軽さ>を一方で実現しつつ、他方で<自分の仕事は自分で責任持ってmanage>mentも同時に実現させるのは、何も個々人の意識の高さに賭けているわけではなくて、解雇への緊張感による部分がいくらか担ってあるのじゃないかしら。
 そして日本では解雇への緊張感が正社員にはほとんどない代わりに、<仕事の神聖化>によって社員を働かせるという。
 放っておけばダラけていく人間が仕事をしているという不思議を実現させるには、どこかでテンションがかかっているのではないか。という前提に立って見てみると、日本では<仕事の神聖化>という価値観に、<海外>ではクビの切り易さという制度によってテンションをかけているのではないでしょうか。


 日本では、この首の切り難さという制度が、<仕事の神聖化>という価値観を要請しているように見えます。

あらぬところへ飛んでゆくシーソー

 この、解雇のし易さ/難さという制度によって仕事に対する価値観が決定される、制度によって感情が規定されるという面が存在するのだろうと思う一方で、それが全てではもちろんないとも思います。つまり、解雇に関する法制度を契機として、何もないところからこの<海外>/日本の価値観が生まれて育っていったわけではないだろうと思います。
 というのも、では何故、日本では「解雇し難い」という制度が生まれ、海外では「解雇し易い」という制度が生まれたのかという疑問が残るためです。そしてその制度の差を生み出したのが、価値観の差だろうと考えます。
 感情が制度を方向付け、制度が感情を方向付ける。この相互的な関係で、構造が強化されてゆく、エスカレートしてゆくのではないでしょうか。


 上の引用したエントリーでもその前書きで、

クソ労働環境が少しでも真っ当になるためには労基法や解雇規制の撤廃がどうだっていう制度論的な部分だけでは片手落ちだろう。やっぱ実際に働いてるのは感情を持った生身の人間である以上、メンタルが仕事に及ぼす影響は無視出来ない。

と書かれて制度と感情の両面で語らなければならないと言われています。さらに踏み込んで、制度と感情は、互いに独立な<片手>であるのみならず、互いに強化し合う両輪としてあると見るべきのようです。
(ちなみに、もっとラディカルに制度と感情の境目を見極めてみれば実は一続きだった、同じものだったという結果が導かれる可能性もありますが、ここではとりあえず別々にあるものとして浅く見ています。)

「世間」への恐れ

 では日本で「解雇し難い」という制度が生まれたのは、どういう感情(価値観)に要請されたものか、という点についての想像です。
 その前に、そもそも解雇に関する規制が生じたのは、次のような経緯によるようです。

(竹中)雇い主と雇われ人っていうのは力の関係があるわけですよね。どうしてもお金を貰って雇われる方が弱くなります。これは、社会のあり方として猛烈な反省点になりました。特に多くの国では二〇世紀の最初の二十年くらいの間に、これを強化するための様々な仕組みができました。労働組合団結権というのが典型です。特に、日本では単純に雇い主の事情で被雇用者の首を切れない、つまり不当解雇ができないことが厳密に決められています。
 つまり、法律でもって雇う方をすごく縛ってるんです。


佐藤雅彦竹中平蔵『経済ってそういうことだったのか会議』日経ビジネス人文庫(p.335)


 けれどこういった問題を抱えていたのは日本だけではなかったはずなのに、どうして日本ではここまで極端な制度に至ったのでしょうか。
 という問いに対する明確な答えを、実のところ私は特に持つには至っていません。けれど、他国と比べた場合の日本の特異性というものについて考えるとき、私は「世間」への恐れというものの強さを思い浮かべます。


 実際に自分がどうしたいと思っているか、あるいは実際に特定の相手がどうされたいと思っているか、という「実際」のところはもはや重要ではなくなり、不特定の相手(世間)が自分に対してどうあるべきと思っているか(基準)、を自分がどう思っているか(措定された基準)が自分の行動を締め付けにかかってくるのが「世間」への恐れです。見極めた基準からズレることへの恐怖、というわけです。
 さらに、自分だけが損をする訳にはいかないのでそれを互いに強いていくわけです。「世間」に従うという苦しみを俺が負っているのだから、お前も負え、ということです。これが重畳することで、さらに実際の「世間」が強化されるのです。実体の無いものが想像され、想像が積み重なって本当に生まれてしまう、そんな状態でしょうか。
 そして「世間」の示す基準からズレた場合、その当人は排除されるわけですから、ますます恐怖は強まって強化されます。


 「世間」への恐れは、ムラ社会、あるいは、空気を読むことの強制、と言い換えが可能かと思いますが、他国に比べて日本ではこの感情というか価値観が強く働いているようです。これについては別のエントリ(『「世間」への恐れ』id:Yashio:20110601:1306940344)で書くことにします。


 先に引いたエントリで、「仕事の神聖化をヤメる」と同時に「奴隷型顧客満足第一主義をヤメる」が並列して提示されているのは示唆的です。後者では、「お客様は神様」式の要求も応答もやめましょう、という話が展開されるわけですが、

お客様wとして過度なサービスを求めるから、働く側になった時に過度に働かなくてはならないという罠w。

という点がまさに強化のプロセスそのものだと思います。
 底の底で損得勘定が――自分が得をしようと強く思わない代わりに、自分が損をするのは許せないし、他人が自分より得をしているのも絶対に許せない、という感情が、ひときわ底の底に強くこびりついている点が日本の特異なところではないでしょうか。
 出る杭は打たれる、にすら至らず、打たれると分かっているので杭が一本も出てこない。そんな環境です。何かの間違いで、どこかの杭が出た場合は……叩かれるどころか引っこ抜かれて無かったことにさせられる。そんな世界。


 少し話が逸れてしまいましたが、日本で「解雇し難い」という制度がどういう感情から生まれたのかという点について、想像と呼ぶことさえ躊躇われるほどあえかな、予感と言ったほどのものですが、案外ここにあるんじゃないかなと私は今のところ思っています。

結局、免れるには

 仮に制度と感情の相互作用で今の状況が作り上げられているとすれば、両方を同時に変えなければ方向は変わりません。もしも誰か一人の価値観が変わったとしても残念ながら状況を変えられる訳ではないので、もはや取り得る行動は、自分がその価値観に合う制度のある場に移ること、つまり<海外>に移るくらいしかありません。結論めいたことを言えば常に陳腐さが付きまとうわけですが、ここでもそれを免れ得ません。
 『「仕事の神聖化をヤメる」and「奴隷型顧客満足第一主義をヤメる」。』のエントリの書き手は、まさにその通りの方で<日本のクソ労働環境が嫌で海外脱出。>とのこと。選択として正しい上に、実は翻って最終的に日本の状況(制度)を変えるのは個々人でこうするしかないのだろうなと思います。


 日本に移民がどっさり入ってくるようになれば、制度もろとも価値観が瓦解するのかもしれませんが、移民を受け入れる前にあの価値観がその移民政策という制度を排除する力を発揮するわけですから、きっと、本当に末期的な症状を目の当たりにするまではそうはならないんじゃないかなと思っています。ただ、最後に書こうと思いますが、目の当たりにする日は早晩来るんだろうなとも思っています。

その他の制度

 ここまで<海外>と一絡げにした上で「解雇のし易さ」と<この「空気」の軽さ>を結びつけてきました。けれどたとえばドイツやフランスは解雇規制の厳しい国だそうですが、日本ほど<仕事の神聖化>は起こっていないようです。そう考えると(当たり前といえば当たり前ですが)一つの制度ではもちろんなく、多くの制度がよってたかって価値観を強化させてのっぴきならない状態を作り上げているように思えます。
 たとえば他にこんなのもあるみたいです。

会社が自分の会社であると思うその一つの大きな要因は、オーナーが見えなかったからだという説です。もし、これがたとえばオーナーがちゃんといる会社で、「この会社はあの人のものだ」というふうに思ったら、いくら会社で働いてるサラリーマンでも、やはり自分の会社とは思えないですよ。日本はさっき言ったように会社同士が株主でしょ。株主が見えないような仕組みで株式を持ち合ってますから、オーナーというコンセプトがないんですよね。そうすると会社っていうのは誰のものかわからない。誰のものかわからないから、自分のものみたいな気がして一生懸命働くと。
(pp.56-57)

オーナーがいたら自分は使用人みたいなものだからそんなに一生懸命にもなれない。
(p.57)


佐藤雅彦竹中平蔵『経済ってそういうことだったのか会議』日経ビジネス人文庫
上記はいずれも竹中発言


 じゃあその<オーナーが見えな>いという制度がどこから生まれたのかというと、

(竹中)企業は株主のもの……これは、一つの原則としては正しいと思います。
では、日本の企業の株主は誰かというと。
(佐藤)別の企業ですよね。
(竹中)そうなんです。企業同士が株式の持ち合いをしているんです。こうなるとコーポレート・ガバナンスなんて働かないですよね。
 たとえばA社とB社がお互いに株式を持ち合っていたとします。そうすると本来ならA社の社長は株主としてB社にいろいろなことが言えるんだけど、何も言わない。「おたくのことには口出ししないから、その代わりうちのことも言わないでくれよな」という談合が暗黙のうちに成立します。
(pp.54-55)

 やっぱり空気を読み合う社会、ムラ社会なんですね。

うんこである

 こういうこと偉そうに書き散らしといて、ほんなら自分はなんやって言われたら、立派な社畜なんやね。
 こう、牛丼食べたこと無い人が、誰かに、牛丼ってもんがあって、牛肉が煮込んだって、飯もタレが染み込んだって旨いんやよ、牛丼屋行ったら食べられるもんで行ってみやあ、と言われても、牛丼屋遠いし、金ないし、牛丼屋のネギダク? ギョク?とかの専門用語もわからんでまあ、ええわ。また気が向いたらにするわ、って言って家でカレー食べとるんやね。カレー食べながら、カレーというもの、牛丼というものについて考えとる。ひょっとすると、今食べとるのはうんこ味のカレーかもしれん。でもそれを否定する前に、なんで自分が食べとるんか考えとる。どうしてうんこ味のカレー食べるに至ったんやろ。そう考えられるのは、牛丼の存在知ったもんで、相対化されるで可能なんやね。
 そうやって、うんこ味のカレーを食いながら、牛丼のことカレーのこと考えて、ほんでひりだされたのが、このうんこやで。


 最初に引いたあのエントリーの書き手は、牛丼の伝道師や。あれ見たうちの誰か一人は、何人かに一人は、ほんなら家出て牛丼屋行ってみようかってなるかもしれん。あの人みたいにして牛丼屋行ってみよってなる。実際、遠い遠い思っとった牛丼屋も、思いのほか近くにあるし、牛丼屋用語(語学力とか)もあらかじめ家ん中で勉強できるようにもなって、ぺらぺらな人も増えてたりする。案外、敷居低いやん。ほんの少しずつ、そうやって出て行った人たちがまたささやかな伝道師になる。そうしてそのうち、家に残った人達が、あれ、ウチん中人少なくなっとるやん、っていつか気づく日が来るのかもしれない。