やしお

ふつうの会社員の日記です。

宮崎学『談合文化』

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近現代の談合のあり方を社会形態とリンクさせて順に丁寧に見ていく中で、談合は封建遺制なんかじゃなくて一旦消されてその後で復活したっていう断絶があって、実はその前後で似て非なるものなんだって指摘もあって楽しい。主に土建業者に関する話で、日本は災害大国だから復旧・復興のマージンを維持しないといけないって特殊事情があって、地元の中小業者の体力を削り過ぎないためにって理由もあるけど、そこに留まらず全体社会だけじゃない、個別社会を強化しないと世界が上手くいかない、って根本認識ともリンクした上での談合復活論になってる。


 この著者の「談合復活させろ」っていう主張は、たとえば柄谷行人の『世界史の構造』とかを思い合せるとよくわかるような気がする。
 あんまり資本主義に適応させていく方向に思いっきりふるのは危ないよ、という認識があるというか。柄谷行人の場合は資本主義が(というか交換様式Cが)メインの座から退いたときに、そりゃ大変なことになるけど、でもせいぜい個別社会(経済)をしっかりさせて備えておくくらいしかないよね、というような感じ。そういう文脈の中で、本書も個別社会をしっかりさせるって一環で「談合復活させろ」と言ってる。そう考えると、個別社会をしっかりさせることに資しないタイプの談合はダメ、ということになるわけで、何でもかんでも談合しろっていう主張じゃない。


 本書自体とは関係ないけど、資本主義が終わるっていうのは、資本主義が原理的に進歩の加速を要求してくるものなので、それに人間がついていけなくなったときにシステムとして破綻するんじゃないかっていう認識でいる。資本主義は価値体系の差分で価値を生んでいく。価値体系の差って、遠隔地貿易のような物の価値の差や、労働力の価格差や、現在と未来の間の価値の差があって、前2つはもうだいぶ差がなくなってる。だいぶ世界が均一化してきて、他の地域に持って行っただけでものすごく高く売れるってこともないし、他の地域から人を持ってこればものすごく安い賃金で働かせられるってこともなくなってきてる。資本主義というシステムがそこをどんどん食いつぶしていくからだ。で、残ってる最後の3つ目が、ちょっと進歩した製品や革新的な製品を生み出して売るってこと。これが未来と現在の価値の差を使うということ。でもこれ、前2つでお金を生み出せなくなってくると、この3つ目に頼らないといけないんだけど、この3つ目もだんだん苦しくなっていく。製品やサービスを進化させていくと言っても、どんどんニッチを掘り起こしていくのも限度があるし、新製品を開発していくにもある程度の時間はかかるし、イノベーションを起こすっていっても簡単なことじゃない。でもそれが次から次へと要求されていく。その取り代がどんどんなくなっていくのに、どんどん要求されていく。これが資本主義が原理的に進歩の加速を要求してくる、ということ。でもどんどん加速していっても、人間の生物的な制約のせいでそのうちついていけなくなる。AIとかで多少判断能力や決定能力が補われて延命されたとしても、どっかで限界がくる。人間の適応能力に硬直性というか粘り気があるからしょうがない。それで追いつけなくなったときに資本主義システムが立ち行かなくなる。という理解。
 そのときに、資本主義システムではない経済システム、個別社会での経済システムが生きていれば生きているほど、軟着陸ができるということだし、その上での一つのヒントとして「談合」という形態がここで提示されているんじゃないかと思う。