やしお

ふつうの会社員の日記です。

アンドリュー・ニコル『TIME/タイム』

 映画が終わった時びっくりしました。え、これだけ? って。



(「ベルサイユのばらカルタ」より)


 でも最初は楽しかったんですよ!


 人間がみんな25歳で老化ストップ、人生の残り時間(腕に表示されている)が通貨代わりになった世界。時間が切れれば死ぬ世界。
 主人公のお母さんが銀行で借金を返済し、帰宅のためバスに乗ろうとする。バスの運転手が運賃は20分だという。「え、昨日まで10分だったじゃない。」「値上がりしたんです。」お母さんは借金返済で残り時間が20分もない。「ねえお願い、家まで走っても20分以上かかってしまうの。」家に帰れば日雇い労働の息子が待ってる。息子から稼いだ時間を分けてもらえる。だが間に合わなければ、死ぬ。
 母親の懇願に運転手は目も合わせない。バスの乗客たちは冷ややかに見ている。母親はバスをあきらめて帰路を走る。一方、バス停の前で母の帰りを待っていた息子。目の前に到着したいつものバスに母親が乗っていない。異変を察知して息子も道を駆け出す。
 こっちから息子、あっちから母親が走ってくる。お互いの姿を認め、お互いの名を叫び合う。母親の残り時間はあと数秒。二人の手が触れ合えさえすれば時間を分けられる。どんどん二人の距離が縮まる。時間もどんどん減ってゆく。さあ間に合うか、だめか、生きるか、死ぬか!
 という序盤の場面にとてもはらはらして、丁寧な演出が続くのかなととても楽しみになりました。(ちなみにこの場面はその後律義に反復されます。だだっ広い荒野で疾走感を殺し、経緯の雑さも加えて台なしにして。)


 面白いものをいくつも取り出せそうなこの世界の制約に、しかし主人公は耐えられなくなってしまいます。この世界は間違ってる、一部の金持ちがコントロールしてる、不平等だ! 俺がぶっ壊してやる!
 私はとてもわくわくしました。システムの壊れる過程を存分に見せてくれるのかな、それとも次のシステムの成立する過程まで見せてくれるのかなと。
 結局主人公はどうしたか。銀行強盗をいっぱいした。それで奪った時間を貧乏人に配った。するとシステムが崩壊したのでハッピーエンド、と終了する。



(「ベルサイユのばらカルタ」より)


 何の障害もなくアクションもサスペンスもかなぐり捨てて、次々と成功し続ける銀行強盗に脱力を覚えました。


 つまらない正しさより間違った面白さの方がはるかにいい、という私の個人的な(?)価値判断がこの脱力を導いているのかもしれません。
 主人公が示したシステムの否定は確かに正しい。正しいけれど、ズレがない。あの世界に暮らしていた彼自身を含めた作中人物たちにとって、彼の「この世界は当たり前にあるのではない」という認識はもしかしたらかなりのズレ、目からウロコだったかもしれない。しかしその外側にいる私たちにとってはそうではないのだ。「不平等だ!」と叫ぶ彼の声は、外側にいる私たちにしてみれば、端から公理として無理に受け入れてあげていたのに、何を今更とがっかりさせられる。もし彼がその認識に至るまでに、十分な綿密さでこの世界は当然そうである、という説得的な積み重ねの手続きが存在していれば、私たちも世界内住人と同様に驚きと喜びでその認識を歓待できたかもしれないが、ないのだ。
 認識とのズレを生じさせる機会というのはまだ残されていました。先述の通り、システムが壊れる過程=否定の方法において、あるいは、壊れた先の別のシステムを示すことで。(この2つは実のところ通底していて、ただ説明の丁寧さの程度の差にあるのかもしれません。)この2つのどちらもしかし見せてはくれないのです。


 否定の手つきも野暮ったく、代案を示しもせずに、ただごく一面だけをあげつらって、したり顔で見下す素振り。実によく見かける、ある種の苛々させられる批判そのものでした。
 それでどうしてもシステムを壊した主人公より、管理する側だったリッチパパにまだしも感情移入してしまいます。ただ壊しただけで偉そうな顔を、しかもこんな妙に声の高いジャスティン・ティンバーレイクに言われた挙句、娘までこの妙に声の高いティンバーレイクに奪われるなんて不憫にすぎる。
 自分の手で設定した制約を、いささかの戦略も欠いたまま耐えられずに否定するというのは、もはやフィクションに対する敗北としか思われない。


 こういうことを書くとただちに、これ自身が「つまらない正しさ」か「間違った面白さ」か(場合によっては「つまらない上に間違っている」か)という問いにさらされるわけですが、実のところそれは相手との相対的な関係なのよね。ほんのちょっとだけ相手の認識をズラす効果があるときに面白さが生じるという。