やしお

ふつうの会社員の日記です。

俺はプロよりすげえのに!という不毛なあれ

 以前はアマチュアとプロの関係は下の図のようなものだと漠然と思っていた。



正規分布であることに意味は無い。)
 多少境界がグラデーションになっているかもしれないが、およそこんな感じだろうとイメージしていた。けれど今は、これが妥当するのはせいぜい、個人のレベルが一つの軸に収束して、その軸に従ってプロ/アマがおよそ線引されるような世界だけで、かなり特殊な状態だと思っている。将棋、相撲、ゴルフなど、実際には「棋風がいい」「取り口がいい」「芝目を読むのがうまい」といった別の評価軸があっても、まずは個人の勝ち数や勝率で評価が下されるような世界では比較的上に近い形で捉えられそうだと考えている。
 そしてそうではない世界では、上図の健全な(?)形状と、下図のような形状との間にいるのだろうと思う。



 野球やサッカーのようなチームスポーツではもう少し最初の図に近い形で、小説や漫画、演劇などは下の図のような形になってくる。上の図で「レベル」と乱暴に書いたその軸、評価軸が一定しなかったりコンセンサスがとれないような世界だとプロ側の分布がどんどん平べったくなってくる。実際、文学フリマなりコミティアなりを覗いてみれば、そのへんのプロより技術としても認識としてもはるかに優れていると信じられるような作品/作家がいくらでもいる。


 この適当に書いた図にどの程度妥当性があるかはさしあたって問題ではない。下図のような認識を持っていた方が、アマチュアプレーヤーとしては精神衛生によいと言いたいだけだ。
 上図のようなプロ/アマがすっぱり線引されるようなモデルを無意識に信じているプレーヤーにとっては、「レベル」を上げさえすればいつか、ボーダーをまたいで自動的にプロになれるだろうと思ってしまう。そして上図が「あるべき姿」、「健全な業界の姿」だと思い込んでいれば、自分より下手くそなプロの存在が許せなくなる。「俺はあのプロの連中よりもすごいのに、なんで!?」と苦しむことになる。こなくそ、と発奮する効果が多少はあるかもしれないが、そうした不毛な苦しみからは解放されたい。
 下図のような認識でいれば、もはやレベルを上げさえすればプロになれるといった幻想を抱くこともない。だから諦めろ、絶望してろというのではない。例えば、プロであるかどうかはおいておいて、自分が死ぬまでにどこまで到達できるかにだけ集中しよう、それでいいじゃないかと思えるようになるかもしれない。あるいは、プロになる=青い領域から橙の領域に移動するには「レベルを上げてプロであり得る確率を増やす」だけでなく「なにか別の方法で領域をまたぐ」ことも考えられるかもしれない。
 とまれかくまれ、「あのへんのプロより俺の方が!」とわけもわからず鬱屈せずに前向きな気でいられるように思える。


 ところで下図において、右側=レベルの高い領域に進むと途中まではアマチュアに対するプロの割合が増えていくが、途中からはむしろプロの割合が減っていく。そんな絵を描いてみたのには理由がある。評価軸のコンセンサスがとれていないような世界では、ある程度以上にレベルが上がっていくとそのすごさを読み取れる人が減っていってしまうせいで、プロへと領域をまたぐ機会が減っていくのではないかと想像しているからだ。
 例えば仮に、古井由吉が今小説の新人賞に応募して受賞する可能性を想像しづらい、といったことだ。あるいは75歳で芥川賞を受賞した黒田夏子を思い出す。早稲田文学新人賞という5大文芸誌の新人賞に比べればコンパクト(5大誌の応募総数が各2千作程度の一方、早稲田文学新人賞は4百程度でオーダーが違う)、選考委員が一人でその回は蓮實重彦だったといった条件が重なったために日の目を見ることができた。あり得ないことだが、もし文藝賞に応募していても一次選考を抜けることすらあやしいような気がする。黒田夏子の例で人々が改めて知らされたのは、「精進していればいつかはやっぱりプロになれる」ではなく、「そのへんのプロをしのぐレベルのプレーヤーもアマチュアに平気でいて、そのまま日の目をみないことはざらにある」ということだった。宮沢賢治のように死後発掘されるのは珍しくて埋まったままの死体が大量にある。(他の世界をよく知らないので例が小説だけになってしまった。)


 要するにこれは「プロになれると無邪気に信じていた若者が、どうも無理そうだなと人生の残り時間を思って諦念を抱いたときに、どうカタをつけてそれでもなお先に進めるか」に関する話なのだ。プロだからすごいってこともないよね、アマチュアでも行けるとこまで行ってみよう、それでいいじゃないか、という折り合いの付け方。だけどこんな風に折り合いをつけられるのは、下図の認識を持つだけではたぶん難しい。今は幸いインターネットがあってそこに置けば誰かが見てくれているという、いわゆる「承認欲求」が満たされることや、ある程度経済的に安定していて「プロになってそれで食っていくんだ」と信じ込まなくても生活に不安がないといったことが支えている。
 そんな風なこと思って環境を整えて生きてますっていう、引き続きやってこうと思ってますっていう、個人的な報告でした。