やしお

ふつうの会社員の日記です。

右翼と左翼をわけるもの

 右派(保守)と左派(リベラル)って分かれ方はどうして生まれるんだろう、とむかしから漠然とふしぎに思っていた。それは「自分が今こうなのはたまたまだ」と感じている度合いがパラメーターになっている結果なんじゃないか、その視点で見ると割とすっきり理解できるのかもしれないと思った。


内外で分ける保守、上下で分けるリベラル

 以前リツイートで見かけた、「保守は内外の内側、リベラルは上下の下側を重視する」という話が分かりやすかった。
※「@hellohellock」さんの当該ツイートのリンク→https://twitter.com/hellohellock/status/760460909630193665

 保守が、道徳・価値観の面で伝統を重視したり「強い日本を取り戻す」や「美しい日本」と言うのも、外交・軍事面で他国とちゃんと対峙できるようにしよう(領土とか軍備とか)というのも、内外で分けた内側、自分が住む国を重視する態度になっている。経済面で新自由主義的なのも、今の資本主義システムを前提にして国としてきちんと競争力を保とうという文脈から理解できる。
 一方でリベラルが、福祉を充実させよう、再分配をちゃんとやろう、貧困問題をなんとかしよう、外国人の不当労働をやめさせようというのも、上下に分けた下側を重視する態度になっている。赤の他人なのに沖縄の基地のことで反対しているのも「そんな風に誰かが虐げられて不当じゃないか!」と怒っている。
 それで保守はリベラルのことを「非現実的だ」と、リベラルは保守のことを「差別的だ」と思っている。


 この図で注意しないといけないのは、左下の領域(内の下)はお互い重なっているから意見が一致しそうにも見えるものの、実際にはそうではないというところ。じゃあネトウヨ(保守)は生活保護受給者に擁護的かというと真反対だしね。
 保守は上下という分け方の視点を、リベラルは内外という分け方の視点を持っていないので、あまり興味がないといった方が正しいのかもしれない。リベラルから見ると領土問題が重大な課題だとはあまり感じないし、保守から見ると外国人差別問題が重大な課題だとはあまり感じないのではないか。それで左下の領域がお互い重なっているように図では見えても、保守はそこを「下」だと意識して見ていないし、リベラルはそこを「内」だと意識して見ていないので、別に意識が重なっているわけではないという。


「自分が今の自分であること」を当然と思えるかどうか

 この内外/上下の図は、保守とリベラルがどういう見方をしているか(どこを重視しているのか)ということをすっきり見せてくれて便利だ。だけどこういう疑問が残る。内外と上下という2つの軸があるのなら組み合わせが4種類出てくるはずだ。「内外と上下の両方で分けるタイプ」と「内外と上下のどちらでも分けないタイプ」もいてもいいはずなのに、実際にはそこは抜けていて「内外で分けるタイプ」と「上下で分けるタイプ」に二分されているように見えるのは何故なのかという疑問だ。


 それで、この2軸はもともと「自分が今こうなのは当然だ/偶然だ」という1軸の両側から生じていると考えればその疑問が解消できるのではないかとさしあたって考えている。自分が、日本人であること、男性であること、大企業で正社員として働いていること、児童虐待を受けなかったこと、身体の障害が特にないこと、等々といった「自分が今こうであること」を、必然だと思うタイプか、偶然だと思うタイプかが、内外で分けて内重視の視点になるか、上下で分けて下重視の視点になるかの分かれ目になっている。他者との交換可能性をどれだけリアルに感じるかという度合いがパラメーターになっている。


 当然だと思っていれば、「この国の国民である自分」、「この家族の一員である自分」、「この組織(会社や学校)に所属している自分」と「そうでない他人」との区別に意識が向く。「自分が所属している内」と「他人が所属している外」という視点になる。こうして内外で分けて自分がいる内側を重視する、いわゆる保守の観点が展開されていく。
 一方で偶然だと思っていれば、「難民になっていたかもしれない自分」、「虐待されて自尊感情が上手く持てなかったかもしれない自分」、「コンビニのバイトで生活していたかもしれない自分」というものを考えることになる。「そうだったかもしれない自分」への不当な現実が耐えられなくなる。そうして上下の下を重視してリベラルの観点が展開されていく。


アンリアルと差別

 さっき<保守はリベラルのこと「非現実的だ」と、リベラルは保守のこと「差別的だ」と思っている。>と書いた。でもこうして「自分が今こうなのは当然だ/偶然だ」という軸から考えると、実は保守もリベラルもそれぞれのリアルと差別への抵抗を生きていることがわかる。


 保守とリベラルのいずれも「自分への不当な仕打ちへの異議申し立て」をしている点で共通だ。異なるのは、保守が「自分が所属している内」に対する仕打ちへの異議申し立て、リベラルは「自分がそうなっていたかもしれない下」に対する仕打ちへの異議申し立てをしているという点になる。
 リベラルが保守を「差別的だ」「思いやりがない」と思ったとしても、実の所リベラルの側もこの意味では保守の側と変わらず利己的だと考えることができる。何か無根拠に「愛」が発生しているのではなく、利己主義の発露としての反差別・思いやりになっている。自己防衛の一種なのだけれど、ただその利己が利他と接続しているために「思いやり」という形式になるだけだ。


 それから保守もリベラルも、それぞれにとってのリアリティからそれぞれの結論を展開している点で変わりがない。「自分はあの人であり得た」というのが切実に感じられるのなら、保守から「非現実的だ」と言われてもリベラルとしては「何言ってるの、これがリアルだよ!」となる。
 そう思えない人からしてみると、「自分は今の自分ではなかったかもしれない」という認識は現実離れしているように見える。しかし現実認識というもの自体が人間の主観でしかないという意味で、突き詰めるとファンタジーでしかない。そう考えると「自分が今の自分であるのは当然だ」という現実認識もまたリアルではない、という言い方もできる。


 それで「リベラルは非現実的だからダメだ」と保守が批判しても、「保守は差別的だからダメだ」とリベラルが批判しても、相手には響かない。リベラルはリベラルとしてのリアリティからものを見てるし、保守は保守としての差別への抵抗をしている。


結論で分類しない視点

 しかし「当然だ」と思っているのに左翼的な、「偶然だ」と思っているのに右翼的な政策や行動を支持する人も実際にはいる、という反論が考えられる。
 結論が結果的に似通ってくるということはよくある。価値観的には内重視の人が、国力の衰退に繋がるからという理由で福祉重視になることもあるし、価値観的には下重視の人だけど、でも現実的には国家や資本主義の枠組みがある以上はそこから始めないと有効じゃないと考えることもある。それで保守左派(価値観は右派だけど経済政策は左派)といった分類が出てくる。結論側から見ていくと膨大な分類が生ずる。経済面、社会保障面、道徳観、等々、軸が3つも4つも出てきて、そのマトリクスで分類を始めてそれぞれの領域に名付けていく作業には際限がない。


 例えばリバタリアニズムは、政治的自由も経済的自由も重視する立場ということで、価値観は左派だけど経済政策は右派と言われることがある。しかしそのロジックが「個人は完全に独立した存在である」という認識から出発していることを考えると、他者との交換可能性に全くリアリティを置いていない観点になっている。「価値観的には左派」といってもむしろ逆で、当然-偶然の軸で言うと、リベラルとは真逆だし、少なくとも国家単位・家族単位では「内」と見なしている保守よりもさらに当然側、もはや個人単位でしか「内」と見なさない立場になっている。


 こうして見ると、この当然-偶然の軸というのは、各主義の結論の類似性を分析したり分類したりするツールにはなり得ない。そういうツールではなくて、実は根本的な価値観が全く違うのに「同じことを言ってるから同じ価値観だ」という誤解をしないための視点になっている。この軸は、各主義の結論がどう導かれていくのかという内在的なロジックを見るための出発点・前提として機能していく。
 「どうして大雑把に右翼/左翼に分かれるんだろう?」という疑問に答えたり、「お花畑脳め!」「人非人め!」と憎しみ合わないための軸。


個人的なこと

 私自身にとっては「自分が今の自分なのはたまたまだ」というのはどうしてもそうとしか思えない、自分が日本人なのも男性なのも何なのも、たまたまそうなっているだけで、「そうであること」の根拠はどこにもないとしか思えない。でも改めて考えてみると「今そうなっている自分」が現に実際に存在している以上は「自分が今の自分なのは当然だ」と感じるのが自然で、「たまたまだ」と思う方が不自然だ、と言われたら「なるほどそうかもね」って感じもする。
 そう考えると、どちらも自然であり不自然でもある、完全にどちらかに確定する客観的な根拠が存在しない以上、どちらでも取り得る。それでどちらかに分かれて(どちらかの状態に収束して)左翼と右翼っていう二分につながっていくし、そうした根拠がなく「しかしそうとしか思えない」というレベルでの考え方の差なので、どうしても埋まらない価値観として対立してしまう。「どうして相手がそう思うのかまるで理解できない」という感じになってしまう。


 それにしても、では自分が「偶然だ」と思うようになったのは何だろうかと考えてもよくわからない。私が小さい頃に母親が「アフリカの子供たちのこと思えば食べられるだけでも有難いことだ」とか「北朝鮮に生まれていればもっと大変だ」とか事あるごとに言っていたことが影響しているのだろうか。


 もともと保守/リベラルみたいな分類のこと自体よくわかってなかったけど、(あ、自分の考え方や結論は分類上リベラルってことになるのか)とだんだん知るようになった。それまで自分では「こういう考えになるのは当然」と思ってて、保守の、特にネトウヨと呼ばれる人たち(?)の思考には、「想像力が欠けているからああなんだ」とか「自信がないから国家にプライドを依拠しているんだ」と漠然と思っていた。
 だけど「自分が今の自分なのはたまたまだ」と思っているかどうかという根元まで下りて相対化してみると、自分が当たり前と思っていた部分もそうじゃないなと自然に思えるようになってきた。別に政治的な立ち位置をはっきりさせたいとか、分類したいとかじゃなくて、「どうしてその人がそう思うのか」ということを「もし自分が相手だったら自分もそう思うだろうな」というレベルで理解したいだけだ。


付言

 繰り返しになるけれど、ここで考えてみたかったのは結論のグルーピングではなく、発生のポイントの方だ。ここで左翼とリベラルを曖昧に同一グループにしているのは雑な認識だと言われれば(結論のグルーピングという観点では)全くその通りだ。左派、右派、リベラリズム保守主義共産主義ナショナリズム全体主義保守左派リバタリアニズム等々、膨大な軸による分類もあれば、例えば日本とアメリカでその名前が指す中身も異なっている。「この当然-偶然の軸というのは、各主義の結論の類似性を分析したり分類したりするツールにはなり得ない。」と書いた通りだ。
 膨大な種類のグループへと分節するよりずっと手前の、発生するポイントにおいて「当然-偶然の採用する認識の違い」があるという仮定で見てみると、どうしてこんなに分かり合えないのかという疑問がある程度氷解するのではないかと思った、という話になっている。結論の似ている/似ていないで分けた膨大なグループを眺めていても、相手がどうしてそうなのか、どうして私は相手を理解できないのか、という解決にはならないから、できることなら根本の発生ポイントを掴みたいと思っただけだ。
 その発生ポイントへと遡行するために、結論の2傾向(リベラル・左派/保守・右派)←内外の軸+上下の軸←当然-偶然の軸、とさかのぼって見ていったのが上の話になっている。ただ、最初に導入した「結論の2傾向(リベラル・左派/保守・右派)」の粗さによって、その遡行が全く現実的な妥当性を欠いて、結局「当然-偶然の軸」という仮定は有効性を欠いている(「相手がどうしてそうなのか」を理解するのに役立たない)という反論が展開され得る可能性はある。そこをきちんと展開しないことには「分類が雑だから意味がない」とは言い得ない。分類の妥当性ではなく発生点の仮定の話をしているため、「分類が違う」とだけ言っても意味がなく、「分類が違うためにその発生点は仮定され得ない」とまで言えなければ意味がない。
 そして今のところの私は、今まで「あいつらの考えはおかしい!」と思っていたのが、この発生点を仮定することで「どうしてあなたがそう言うのかは理解できる」と思えるようになるのであれば、その「今まで」よりはずっとマシだ、と感じている。
(ところで既に多数の定義や観念を従わせている既存の用語を使用することで「その名前で呼ぶのは違う」という反応を誘発してしまうから、まるっきり新しい用語、たとえば当然派/偶然派とでも名付けて丁寧に展開し直した方が良かったのかもしれない。)