やしお

ふつうの会社員の日記です。

子供の塗装皮膜

 むかし家庭教師のバイトで中学生に数学を教えていた時、「方程式で右辺と左辺を入れ替えてもOK」ということが「わからない」と言われたことがあった。えっ。そこ?と意外でかなり驚いた。その場では、釣り合っている天秤で右側と左側を交換しても釣り合ってるでしょ、といった喩えであれこれ説明した覚えがあるが、たぶんよく理解してはくれなくて結局、「そういうルールだから」として把握したようだった。
 自分自身がつまずいた経験があまりなくて、意外だったし不思議だった。でも今思えば意外でもなんでもないことだった。むしろそれを「わかる」方が不思議な気がする。だって「y=2ax+3b」の左辺と右辺が「同じだ」なんて実に奇妙だ。どう見たってイコールの左側と右側は違う。見た目がぜんぜん違う。文字の種類が違う。文字の数が違う。数字の有無が違う。声が違う。年が違う。ごめんね? 去年の人と、また比べている〜。凛として時雨iTunesで聞いていましたが、山口百恵のイミテイション・ゴールドに変えました。


 違うのだ。違うのに、「同じ」だと感じる。これは抽象力のなせるわざである。
 この抽象化が、まるで塗装のように、子供の頃から何層にも塗り重ねられている。十分に乾いた後で、上に塗り重ねて、何層にも積まれている。
 「yだのbだのといった記号で具体的な8だの10だのといった数値を表現する」という抽象化が当時の彼にとって最近の塗装だとしたら、それよりずっと下の方に「2+3は、5と同じことです」といった抽象化の塗装膜があるはずだ。それは、2頭の牛さんがいます。その後で3頭の牛さんがやってきました。牛さんは合計で5頭いますね! 2+3=5です! といった抽象化だ。しかしまだ素材は見えていない。剥がしてもまだそこに、牛さんの塗装がある。
 牛さんが2頭います。よく考えたら不思議なことだ。明らかに顔つきも毛並みも模様も色も体格も違う何かが、空間に、ふたつある。どう見ても別の何かなのに、「牛さんが、2頭、います」という。それもまた抽象化だ。ある特徴だけを抽出して、その他の特徴は無視するという恣意的な捨象の身振りを通して初めて、「○○が×個ある」と言えるのだ。ところがこの恣意的な抽象化はもはや私たちにとって、まるで不自然さのかけらなど感じない当たり前の現実としか思えない。あれは「牛さんが2頭いる」のだ。あるいは「あとから3頭くれば、牛さんは5頭いる」。
 それは塗装が十分に乾燥されて強固になっているからだ。


 下地となる塗装の乾燥が不十分なまま、その上に次の抽象化を塗り重ねれば混濁してしまう。中学生や高校生が「わからない」というのはそういうことだ。概念が当人にとって「当たり前のこと」「紛れも無い現実」と感じられるほど乾燥する前に授業が進んでしまって、次の抽象化の塗料をたっぷりつけた刷毛に撫でられてしまった。しかし納期を厳密に要求された教師たちを責めるのは酷だ。
 それだからせめて、家庭教師としては徹底的に遡ることが必要だったのだ。溶剤で塗装膜を拭いて、剥がして、いったいどこで混濁しているのかをよく見なければいけなかったのだ。ちょっと待って。プレイバックプレイバックだよ。(今はプレイバックPart2が流れています。)そしておかしかった塗装をもう一度丁寧に塗りなおして、乾燥するまで辛抱強く待って、また塗り重ねていく。言うのは簡単だが、実際のところ「どんな塗料が塗り重ねられているはずか」について検証者が十分に把握していて、どんな溶剤やナイフで剥がせばいいのかわかっていなければ辿りつけない。硬度を測るのに鉛筆ひっかき試験をするのか、膜厚を測ればいいのか、膜をどう試験するのかもわからないといけない。これができる塾講師なり家庭教師なり、あるいは学校の教師は貴重な職人と言えるだろう。21,2歳だった学生の私は、まるでその力がなかった。ちなみに今はLyu:Lyuの「先生」がヘッドフォンから流れている。先生。あなたはいつか言ったじゃないか「君はいい子」と言ったじゃないか。いつから何を間違って、こんな人間になったんですか。シリアスすぎる。私そんなこと言ってないです。


 そうやってきれいに塗り重ねたら、いつか、「いったい自分には何が塗り重なっているんだろうか」、「他の塗装の仕方はあり得ないのだろうか」と疑い直す作業ができればいいね。代数系にしたって全然自明じゃないもんね。群・環・体と特徴を抽出するレベルが違って、それぞれのレイヤーで現れてくる世界が違う……。そんなことを数学でも物理でも言語でも思考様式でも何でも、疑い直せれば楽しくて仕方がなくなる。当たり前が当たり前じゃなかったとゆっくりわかるって体験、どこかで経験しちゃうともうやめられなくなる。その強烈な喜びを知ってくれたら、いいなあと思って。