やしお

ふつうの会社員の日記です。

悲しいだけ

 2ヶ月半前に母が亡くなった。自殺だった。
 4年前に亡くなった父と同じ64歳で、4年前と同じように仕事中に「亡くなっていたよ」とふいに知らされた。違うのは、病死ではなく自裁だったことと、4年前に携帯電話越しに父の死を伝えたのは母だったのが、今度はその母が死んで姉が伝えてきたことだ。母の「ゆう君、お父さん、亡くなってたよ」といつもと違う妙に間延びした4年前の声も忘れられないし、姉の「ゆう君、お母さん亡くなってたって」と涙ぐんだ声も忘れがたい。


 火曜日に外注先で仕事をしていて、正午になったから休憩に入ろうかと思ったときに姉から電話が入った。地元に住む姉の名前が表示された画面を見た瞬間に、母親のことだな、亡くなったという話かもしれないと思った。平日の朝は母親とメールを交わす習慣になっていて前日月曜と当日は返事がなかったから変だなと思っていたからだった。いつも朝7時頃にこちらからメールを出すと、30分以内くらいに返事が来るのだった。月曜に返事がなかったときに珍しいと思ったけれど時々「忘れてた」と返事が遅くなるときもあったから特に何もしなかった。火曜の朝も返事がなくて、これはちょっと、地元にいる姉に電話して様子を見てもらった方がいいかもしれないと思っていたところに、その姉の名前が携帯電話の画面に表示された。姉とは普段母親を通してばかりで直接連絡することが全くなかったこともあって、すぐに母親のことだろうと思ったのだった。
 それで姉から母が死んだと聞いて、驚くとかショックを受けるというより、やっぱりという気がしたのだった。つい1か月前のお盆休みに地元に帰って特に変わりない姿を見ていたから、病死ではないだろうともすぐに思っていたから、自殺らしいと知っても狼狽するということもなかった。別に取り乱すということもないけれど、ただ、ざわざわとするような落ち着かなさがずっと張り付いているという感じだった。


 4年前の父の死の記憶や記録が、まずは事務的なあれこれに関して役立った。とにかく仕事を切り上げて必要なものをまとめて地元に帰ること、葬儀社を手配すること。
 4年前に父がとても寒い日に自宅のアパートで孤独死していた(母とは離婚していたので一人暮らしだった)ときは、「だってもう死んでしまって何をどうしたって生き返るわけでもないのに、大急ぎで帰ったってしょうがないじゃないか」と、何か理不尽な出来事への憤りのように最初は思った。しかし葬儀社をとにかく決めるよう警察に電話越しで言われて、母親からも「いつ着くの」としきりに聞かれて、ようやくこういう場合には、とりもなおさず帰るのだと理解したのだった。
 それだから、姉にもとにかく戻るからと言って電話を切ったのに、しばらくぼんやりしてしまった。母は川で亡くなっていたという。それは市内で最も大きく、平野部にあって川幅もずいぶん広い川だった。どうして川だったんだろう。前々(数十年前)から「首吊りだけは絶対にいや」とたびたび言っていたけれど、なんで川だったんだろう。山の中の村出身だから川に思い入れがあったんだろうか。
 その日は母親の65歳の誕生日の前日だった。ちょうど2ヶ月前に「お母さんも、あと2カ月で、65才になってしまう。ほんとうは64才の、うちにしにたかったけたけど、生きてしまったら。」「介護で、迷惑は、かけないつもりです。その予定なので。」というメールが来たことを思い出していた。その時は不安に思って母親に電話をしたら「別に自殺しようとかそういうつもりじゃない」と言っていたし、その後も特に変わりなかったから安心していたのだった。父が亡くなった2012年の12月当時のカレンダーをずっと壁に貼ったままにしていたり、父が64歳で亡くなったことをとても気にしているようだった。
 そんなことをしばらく考えながら、昼休みで誰もいない作業場を無意味にうろうろしていた。


 気を取り直して、上司に電話をして当分休むこととその間必要なことはメールで返す旨を伝えて、やりかけの作業をまとめて会社の関係する人にメールで送って、荷物をまとめて、外注先の人に急用で引き上げることと別途ほかの担当者から連絡がいくことを伝えて出てきた。取り乱すということもないし、かえって事務的なあれこれをしている間は気が紛れて普段とあまり変わらない態度でいられる。
 でも、電車に乗って座ると急に、どうしようもなく涙や鼻水が流れてしまう。一人で座っていると緊張感が緩んでリラックスしてしまうのかもしれない。そうした生理的な反応があるということは4年前に経験して「そういうものだ」とわかっているので驚いたり戸惑ったりはしなかった。4年前は、これほどの水準で「つらい」ということが存在するということを知らなかったけれど、もうそうした大きさのつらさがあり得るということは知っていたし、「このつらさはどうしたら、いつ解消されるのだろうか」という不安もなかったのはずいぶん楽だった。余震みたいにときどきぶり返しながら少しずつ時間の経過と共に減衰していく、「いる」という数十年の積み重ねに対する「もういない」という今の現実とのズレが、少しずつ埋まっていく、ということを知っていた。
 ただ、知っているということとそれで解決できるということは全く別なので、勝手に泣けて仕方がないのは変わりない。新幹線に乗って一人で座っていると間歇的に涙と鼻水が出てきてしまう。気が紛れるかと思って本を開いたりしても集中できずに読み進められないのでずっと窓の方を向いていた。


 地元の駅について改札を出るとき、今まではよく母親がここに出迎えに立っていたと思ったけど当然誰もいない。レンタカーを借りて姉の家についたのが19時だった。警察側の処理があるせいでまだ遺体の引き取りはできず、面会もできていないということだった。葬儀社は父のときにお世話になったところを姉に伝えていたからすでに連絡は入れてもらったけれど、遺体の引き取りができないのでどうしようもなかった。
 日曜の夜に川に入ったらしいこと、月曜の朝に発見されて警察に届けられたものの身元がわからずに連絡ができなかったこと、火曜の朝に鞄が届けられて、それが母のもので連絡先が書いてあったから姉に連絡がいったこと、母の部屋のローテーブルの上に家計簿にしていたノートの最後のページに「みんな、ありがとう ゆう君後の事はお願いします」とだけ書かれて開いてあって、それは警察が今は保管しているといったことを姉から教えてもらった。
 地元を離れて就職してから、ずっと母親の家に泊まっていて姉の家に泊まるのは初めてだった。シングルマザーで姉と甥っ子の兄弟だけの家なのでそんなに気兼ねしなくて済むのがありがたかった。ただ布団がないので母の部屋から取りに行くことになった。アパートに入って、母がもう二度とここにいる姿を見ることもないんだなと思うとやっぱり変な感じだった。


 母が自殺したのは、父が64歳で亡くなったということと、子供も経済的に独立したし、孫も小学生になって四六時中世話が必要なわけでもなくなったからということと、僕たちに介護その他で面倒をかけたくないということが理由になっているのだと、正午に姉からの電話を切った直後に思ってひとまず納得したのだった。
 そうしたある意味で合理的な判断を下して、自分の選択として、はっきりこの日と決めて自分の人生を終わらせることにしたのだとしたら、それを他者は尊重すべきだろうと思った。「いい決断をしましたね」「そんな決断ができるなんてすごいですね」と言うべき筋のことだと思った。
 でも、母の家の冷蔵庫を開けてその納得が揺らいだのだった。まだ買って日の浅い食べ物がたくさんあった。ゴミ箱の一番上に土曜日のレシートがあって、翌日に死ぬつもりとはあまり思えない買い物の量だった。壁掛けのカレンダーをめくると翌月に一日だけ△マークがつけられていた。何か用事があったのだろうか。そうだとすると発作的に死ぬことにしたんだろうか、本当は死にたくないけど一時の何か寂しさや厭世感に襲われて死ぬことに決めてしまったんだろうかと思ってつらくなった。その時の本人は「今だ」と思ったり、「これが最善の選択だ」と信じても、感情的なバイアスのせいで実際には思い込みだったりすることがある。そうした感情のバイアスがかかった思い込みは、買い物だったり何かだったり、日常の色々な場面でよく起こることだ。でもこればかりは不可逆の選択だから、そうした意思決定だったのかもしれないと思うのはつらいことだ。「死ななくてもよかったのに」なんて言いたくない。ある種ポジティブな選択だったと肯定したいのに、そうできないかもしれないといいうのはつらいことだと思った。
 母の部屋は別に変わりなく、いつも通りほどほどに片付いてはいたけれど、身辺整理をしたという風でもなかった。
 いつも帰省していたときに使っていた布団と部屋着を出して、姉はシャンプーとコンディショナーを風呂場から調達してきて「ちょうど切れそうだったの」と言っていて、涙ぐみながらちゃっかりすることも可能なのだなと思った。


 姉の家では甥っ子の兄弟(小3と小2)がずっと僕が来たことに興奮して「遊ぼ遊ぼ」とやって来て、「ゆうくん今夜泊まってくの?」と聞いてうんと言うとうわーっと盛り上がったりしていた。子供たちと遊んでいると気が紛れた。
 子供たちは祖母が亡くなったということを何一つ話題にしなかったから、わかっているのかどうかもよくわからなかった。姉が伝えているから知っているのだけど、「知っている」と「わかっている」というのは全く別物だ。姉にしても僕にしても、母が死んだということを認識も理解もしているけれど、受け入れているという状態では全くないから泣けて仕方がない。大人がそうなのだから、「死んだ」と言われても、「もう二度と会えない」と言われても、それが自分にとってどういう意味かを把握するのは子供たちにとって難しいことかもしれない。よくわからないから、さしあたり措いて普段と変わらない態度なのかもしれない。
 母はときどき子供たちの面倒をみたりご飯を作るために姉の家に来ていたから、子供たちにとっても身近な人だったことは間違いない。そうした人が「死んだ」と聞かされて、これくらいの子供はどういう反応をするんだろうかというのは、自分自身が子供の頃にそうした経験がなかったから、とても興味があったのだけれど、「あたかも何もなかったように振る舞う」というのがここでの現実だった。特に親戚が集まっているわけでもお通夜とかの特別な雰囲気でもなかったということもあったのかもしれない。
 わいわいが終わって子供たちが眠って、そのとなりの部屋で一人で布団に入っているとまた勝手に泣けて仕方がないのだった。


 水曜日は子供たちは学校に行って、姉と僕は警察からの連絡を待っていた。昨日姉は警察から「今日には引き渡しができる。連絡する」と言われていたとのことだった。とはいえずっと待っていても仕方がないので、二人で近所の人気だというお店でランチをして(姉と二人で食事なんて20年弱ぶりかもしれなかった)、花を買って母が亡くなったという川にきた。姉は昨日のうちに警察の案内ですでに訪れていたようだった。
 日曜の深夜11時か12時ごろ、堤防の階段に一人で腰かけている女性がいたのをジョギングをしていた誰かが見つけて「大丈夫ですか」と声をかけてくれたらしい。火曜の朝刊に身元不明の遺体が発見されたという記事が出たようで、その記事を見てその人は警察にそのことを伝えてくれたそうだ。女性は「大丈夫です」と答えたからその人もそれ以上言うことはなかったけれど、たぶん母だったんだろうということだ。
 川岸はかなりしっかり整備されてジョギングコースになっている。川原ではなくコンクリートで固められてる。そこを降りていって、「たぶんこの辺で川に入って、そこのテトラポッドに引っ掛かってたんだって」と涙ぐみながら姉が教えてくれた。せいぜい20メートルくらいの距離しかなかった。流されたというより溺れたという感じかもしれない。外傷は全くなく肺に水がたくさん溜まっていたので溺死だということだった。テトラポッドまで降りて花を置いた。母は小柄な方だったし太ってもいなかった。最近は家の中でもスーパーで買い物をするときでもちょっとふらついたりしていた。母親が一人で真っ暗な夜の川の中に入って、溺れて苦しむところを想像するとあまりにかわいそうでたまらなくなった。
 自分で人生を終わらせるということに対する尊重が社会として欠けているんじゃないかと思った。「自分はここまでで良い」と決めたら、それを最大限尊重してくれる仕組みがほしいと思った。きちんと苦痛も一切なくいつもと同じように眠ったらそのまま死ねるくらいにしてほしい。そういう安楽死を用意してほしい。そうしてある誰かが「自分はここで死ぬ」と決めたら、周りが「良い決断だ」と肯定してくれて、「今までありがとう」「こちらこそありがとう」と言い合えるようにしてほしい。そういう意味で生前葬もいいかもしれない。もちろん「ある種のプレッシャーにならないようにしないといけない」とか「やっぱやーめたを気軽にできるようにしないといけない」とか課題はいっぱいあっても、そういう選択肢だって許されて当然なはずだと、そんなことを考えていた。
 でもあまり流されていなくてよかった、大雨のあとで増水しているとかではなくてよかった、すぐに見つけてもらえてよかった、母に声をかけてくれた人も、母を見つけてくれた人も、母の鞄を届けてくれた人も、本当にありがたいことだといったことを車の中で姉と話をした。


 姉はとてもつらそうだった。姉はメールに何となく返信しないということがよくあった。母親だけでなく僕に対してもそうで、用事があって質問をしているメールや、好意から何か提案しているもの(子供の誕生日プレゼントどうする? といった質問とか)にも返信がなかったりする。曖昧に時間が過ぎて、だんだん時機を逸してしまったりすることはよくあるし、気持ちはわかる。一方でそれをされた側は「何か不愉快にさせたんだろうか」と不安になる。
 それで相手がこういう形で死んでしまうと、自分のせいじゃないかと思うことになってしまう。全面的にこの結果を招いた原因になったとまでは思わなくても、その一端でも負っているんじゃないかという風にはどうしても考えてしまう。これはもはや、それを否定してくれる人というのが存在しない以上、本人で耐えるほかない。
 小学校の運動会があって母を誘おうかと思っていてそのままやめてしまったけれど誘えば良かったと姉は言った。
 4年前に父が死んだとき、もっときちんと感謝を伝えればよかったと後悔した。「あなたはこういう点で素晴らしかった」、「自分はこういう点であなたに感謝している」ときちんと伝えておけばよかったと激しく後悔して、そうした後悔は解消されるということがない。その時にはっきり、誰がいつ死んでも、自分がいつ死んでも、大丈夫なようにしたいと思った。それで母親にあるとき、この親のもとに生まれてきたことは幸福だったと思うという話をしたのだった。そういう話を普段しないのでなかなかしにくかったけれど、父親の後悔があったからできたのだった。


 母も父も外形的には学があるという人ではなかった。母は中卒で山の田舎から都会で住み込みの美容院で働き始めたし、父は高卒で印刷会社に集団就職をしたという。母はその後、結婚して姉を生んで離婚して流れてきてパチンコ屋で働いていた父と知り合って僕を生んだのだった。姉とは父親が違い、姉はその父方に引き取られていたので一緒に暮らしたことはなかった。それからパチンコ屋(チェーン店じゃない小さな店だった)で共働きをしてバブルということもあってそこそこ稼ぎもよかったものの、社長・専務親子と対立して(?)僕が高専の1年生(15か16歳)のときに辞めさせられてからは、父も母もバイトやパートで稼いで22歳になるまで僕を養ってくれた。(僕のバイト代も多少は家計に入れていたときもあったけれど大した額ではなかった。)途中で両親は離婚して僕は母親としばらく二人暮らしになって、そのあと父親との二人暮らしになった。僕はずっと同じアパートに住んでいて、親の方が入れ替わるという何か変則的な感じだった。離婚してからの方が喧嘩(というか母が一方的に父を詰っていた)もだいぶ減って関係は良好だった。僕が27歳の誕生日の前日に父が64歳で亡くなり、僕が30歳のとき母は自身の誕生日の直前に64歳で亡くなったのだった。
 自分がきちんと学校を出られて、奨学金とった借金を背負うこともなしに大きなメーカーに就職できて、金銭的に困らない生活ができているということについてまず両親に非常に感謝している。今それなりにものをきちんと考えられるだけの能力が身に付いているということの、基礎の大部分は母のおかげだと思われること、そして母親の経歴的な面だけを取り出して眺めたときにそうした子育てができたことはたぶん少し珍しいのではないか、すごいというか立派なことではないかと思う、本当に自分は親に恵まれていたと思える、というような話をしたのだった。母は微妙な顔をして嬉しそうにも見えなかった。そういう話をしたこともなかったから反応に困ったのかもしれない。そのまま亡くなった父の話に流れていったので母がその時どう思ったのかはわからない。それでもとにかく、伝えるだけは伝えておいたという事実だけで、この段になってこちらは救われているのだった。


 それから平日は毎朝メールしていたし(お互いの生存確認が主な目的でほとんど世間話程度だったけれど)、年に2、3回帰省していたし、ネットの買い物を代行したりもしていたし、母の一方的な話(近所の悪口や芸能人のゴシップ)もうなずいて聞いていた。母は人の話を聞こうとしないし、僕がなにか話し始めても全く別の話を勝手に始めていくから会話を楽しむ相手という感じではなかった。「仕事はどう?」とか聞かれたこともあまりなかった。ただ子供の頃はうれしそうに僕の話をたくさん聞いてくれたという恩があることを思えば、その恩返しのようなものかと思っていた。
 ほとんどCS、カスタマーサティスファクションみたいな、顧客満足みたいな気分で接していた。
 相手を大切に扱うということはコストがかかる。しかし、その相手を突然失った場合、雑に扱ったという後悔はあまりに大きく、そのリスクはかかるコストをはるかに上回ってしまう。結局、相手を大切に扱った方が得なのだということになる。


 母は人を試すようなところがあったり、それですねたりするようなところがあった。何かをしてあげようと人に好意を見せられると「いやいい、いい」とあえて遠慮するようなことを、本当に嫌そうな顔で言っておきながら、それで本当に嫌がっているのかなと思って引っ込められるとすねるという。要するに面倒くさいのだ。どうしたって人は「自分が他者から大切に扱われている」と実感しなくては耐えられないから、あえて他人を挑発しながら「それでもこの自分を大切にしてくれるか」と試してしまう。それで相手が諦めると「やっぱり自分は大切にされていない」と傷つく。これでは本人は損するばかりなのだけれど、本人にはこうした構造が見えていないからわけもわからずに傷ついている。あまつさえ相手を責めたりする。
 姉から家の手伝いや子供の世話を頼まれても母は、「私も忙しいし」という態度を取ることもあったという。「私を軽んじて扱われるのは嫌だ」ということだ。それで姉も「そんなことまで言うんなら頼まない」となって頼まなくなると、「自分なんか必要とされていない」とすねるという。これは姉としても仕方がないことだと思う。運動会に誘わなかったというのもそういうことだった。
 この「あえて相手を試して裏切らせて自分が傷つくパターン」に相手が嵌まっているというのが見えていれば、(一瞬腹が立っても)ここで好意を引っ込めると傷つくんだなとわかるから、上手に付き合うことができる。それはやっぱり顧客満足みたいな付き合い方になる。そういう意味では姉はむしろフラットに対等の相手として母のことを見ていた一方で、僕は意識的に距離を取りながら接する相手として母を見ていた、本気で話し合ったりこちらを理解してもらえる相手としては見ていなかったということになる。


 母はもう仕事をしていたわけでもなく、時々知人と喫茶店に行ったり、姉の家のことをしたり、近所に住む弟(叔父)に食事を作ったりするくらいで、あとはテレビを見たりiPadでインターネットの芸能人のゴシップとかを見て暮らしていた。外で仕事をしている僕や姉にとっては「ちょっとしたこと」でも相対的に母にとっては「一大イベント」になってしまう。同じことでも僕や姉からは小さなできごとでも、母から見ると大きなできごとになる。この見かけの大きさの差を無視して、「こんなちょっとしたことを何大袈裟に」という態度をとると、相手を傷つけることになる。傷ついた相手が反発すると、こちらも余計に腹が立ってお互いの損が積み重なっていく。相手に合わせて大切なできごとだという態度を取る必要がある。
 でも姉は、仕事のことだけではなく、子供たちの学校のこと、保護者同士の付き合いのこと、その他あれこれ膨大な作業が重なった生活を送っているなかでそこまでケアするというのは大変なことだ。そう思うと姉を責めるという気にはならない。


 川を離れて姉の車で母の部屋に向かった。遺品から必要なものをより分ける作業をした。母のiPadのブラウザの閲覧履歴を見たら、亡くなる日曜日に「頸動脈の切り方」をいろいろ検索してYouTubeとかも見たりしていたらしかった。警察からは川原に包丁が落ちていたと姉から又聞きで聞いていた。最初は頸動脈を切って死のうと、家を汚さないように、事故物件にしないように川まで向かって、でも死にきれなくて結局、真っ暗な川に入ったようだった。堤防をおりる階段に一人で座っていたときの感情のことを思うと、それはどのみち正解の想像というものがないとしても、ひたすらつらいものだった。


 もう15時を回っていたのに警察からの連絡はなかった。姉が刑事課の担当者に連絡するとまだ別の部署の処理が終わっていないから引き渡せない、週をまたぐ可能性もあるかもしれないという。昨日の時点では翌日の今日には引き渡しができると聞いていたから、姉は困ると言ったけれど仕方なく電話を切ったのだった。もう一度僕から連絡をして、せめて面会だけでもしたいということ、早く引き取るためにこちらが取り得る手段があれば手を尽くしたいし、もしその部署へ直接連絡を入れられるのならそうしたいということ、ただ、手続きや規則上で決まっていて担当者レベルでどうしようもないことなら仕方ないと思っているということを伝えた。別に怒っているわけでも、仕事をしている警察の人を責めたりしたいわけでもなくて、ただ困っているので助けてもらえればとてもありがたいのだというような話をした。
 いつになったら母の遺体と会えるのだろうか。姉も警察も母が「死んだ」と言っていて、母の家に行っても母はいないから、「死んだ」のだと思っている。直接確かめたわけでもないのに「死んだ」と思っているのは不思議なことのような気がした。
 5分後に折り返しの連絡が警察から入ってその事務処理が終わったという。次は病院で死体検案書を受け取って、それを持って警察署に行って、葬儀社に連絡を入れて、ようやく遺体の引き取りができるという。病院には警察から連絡を入れたから検案書の用意ができたら病院から連絡が入るということだった。
 一旦、姉の家に戻って病院からの電話を待つことにした。待っている間にふと思い至って、保険会社(というか共済組合)に電話をして母の死亡共済金の申請書類を受けとりたい旨を相談して県民共済の事務所に一人で向かった。その時点で16時半だった。川や母の家にいたときは晴れていたのに、その時はどしゃ降りだった。
 申請書類の一式を受け取って車に戻ると17時だった。まだ病院からの連絡はなかった。病院に電話を入れると受付の女性はドクターが不在なのでいつ渡せるかわからないということだった。この書類がないと遺体を引き取ることができないし、面会すらできていない状況なので、早めにお願いできると大変助かりますというようなことを伝えたら、今日中には必ず用意すると言ってくれた。
 そうしたら15分後に病院から連絡があって検案書の準備ができたという。
 「泣かない赤ん坊はミルクをもらえない」という外国の諺をなんとなく思い出していた。「こうしてほしいと思っている」ということをきちんと伝えないと得られないという。もし電話しなければ警察の処理は明日や下手したら来週になっていたのだろうか、もし電話しなければ検案書の受け取りは夜9時10時になっていたのだろうかと思った。自分自身もある程度大きな組織で働いているとよくわかることだけど、みんないくつものタスクを抱えている。そしてある優先順位でこなしている。しかしその優先順位の付け方は、理想的には緊急度と重要度の掛け算で合理的に決められればいいけれど、実際には「他人から責められないこと」とかで決まっていたりする。それできちんと「こういう状況でこちらは困っていて、あなたに動いてほしいのだ」と伝えられるとその処理順は簡単に変わったりする。誰もさぼっていないし仕事をしているのだけれど、ただ順序やそれに伴う効率は変えられる。


 20分ほど病院の待合室で待って検案書を受け取った。内容に間違いがないか確認してくださいと言われて、封筒を開けて見たとき、「死亡したところ」欄に、住所に続いて川の名前のあとに「テトラポット上」と書かれているのを見ていきなり苦しくなった。突き上げるようにただひたすら悲しく、そんなところで死ぬなんてあんまりだと思った。そんなところで死ぬなんてかわいそうだ。60年以上生きて子供も孫もいて、最後の最後にこんなところで一人で死ぬなんてあんまりだ。死体検案書には「溺死」以上の情報はなかった。月曜日の「午前0時頃」が死亡日時になっていた。まだどしゃ降りで、駐車場を走って車の中に入ってしばらく泣いていた。


 それはそうと、検案書の料金がすごく安かった。父のときの病院は文書料10,000円+出張料・検案料20,000円だった(解剖はしていない)のが、今回の病院は文書料5,040円で出張料等はなく、6分の1の値段だった。受取に行く前に電話で確認したとき思わず「以前父が亡くなったときは出張料も請求されましたが……」と言ったら「よその病院のことはわかりませんがうちは文書料のみですね」とのことだった。自分で病院を選べるわけでもないし、値切り交渉もできるわけではないので、いくら払うかは運(?)次第ということのようだった。


 一旦姉の家に戻ることにした。警察署と葬儀社への連絡は姉にお願いした。甥っ子のうち弟は家にいて、兄はサッカークラブの練習に行っていた。19時近くになっていた。子供たちの夕食のあまりものを少し食べてから、まだ雨が降るなかを姉の車に乗って警察署に行った。まだ遺体の準備が必要だからというので、警察署の刑事課のフロアに上がって遺留品の引き渡しと捜査の報告をしてくれるとのことだった。通された部屋は明らかに取調室で、入ったことがなかったし実物を見るのも初めてだったからちょっと興奮した。こんな居室のフロアの中にあるものだとは思わなかった。狭い部屋の真ん中にスチールの事務机があり、その上には卓上ランプ、入り口脇にはまた事務机が壁に向いてあって、本当に取調室のイメージそのままのレイアウトだった。
 一応事件性がないことを判断するために捜査が必要でそのために時間が少しかかったということだった。毎朝川で漁をしているおじいさんがいて、ちょうど小舟をいつもとめているところの近くだったから母の遺体を見つけてくれたとのことだった。朝の9時半だったらしい。身元がわからなかったから翌朝の地元紙に情報を載せてもらったところ日曜の夜中に声をかけてくれた人からの連絡があったという。
 そのころ同じおじいさんが、川に浮かんでいた母のバッグを見つけてくれたとのことだった。所持金はなく、財布も携帯電話も家に遺してあった。バッグの中に姉や僕の連絡先を書いたメモ帳があったから警察から姉に連絡がいった。バッグを持って川に入ったらしかった。自宅からゆっくり歩くと1時間くらいの距離を歩いていったんだろうかと思った。
 20年ほど前から母のかかりつけだった精神科のクリニックからも刑事は話を聞いてきたとのことで、医者によると母は2年前にも一度薬を飲んで自殺しようとしたことがあったらしい。これは姉も僕も初耳だった。そのときは普通に朝目が覚めたので、そのまま内緒にして、先生にだけ話したという。時々気持ちが鬱っぽくなることはだいぶ前からあったようだという。
 担当の刑事から母が持って入ったらしいバッグやその中身、母が身に付けていたピアスや指輪、母の家から持っていっていた遺書の書かれたノートを受け取った。川に浮かんでいたというバッグは拾得物ということになっているので、手続き上は引き取る処理が必要との事で担当部署に移動して書類を書いて出して引き取って、もうしばらく二人で警察署の1階の廊下で待っていると、遺体の引き取りの準備ができましたと呼ばれた。
 建物を出て別の棟に入ると、すでに棺桶に入った母の遺体があった。葬儀社の人たちがもう到着していて済ませてくれたようだった。となりには金属の台があった。父が亡くなったとき、母が「あんな冷たそうな台でかわいそうだから早く葬儀社の手配をしてほしい」としきりに言っていたのを思い出した。遺体になった母は先月会ったときと何も変わらないようで、でも一切息をしていないし動かないというのは圧倒的な違和感を与えてくる。蝋人形を見ているのに近い感じだ。何かを思うというよりただ勝手に涙が出て苦しいのだった。それは姉も同じようだった。


 霊柩車には僕が同乗して、姉は自分の車を運転して、葬儀屋に向かった。もう雨があがっていた。料金や必要な手続きの話をして、父のとき花が少ないのが悲しかったから花だけ増量して、あとは父の時と同じ葬儀なしで家族だけで見送る直葬のプランにしていた。火葬場が空いていたから翌日の昼前に火葬することになった。
 そうした諸々が終わったのが22時近くだった。姉は母のいる遺族控え室に泊まりたいというのでそうした。一度家に帰って風呂に入って子供たちを連れて控え室に戻った。姉は「顔を見てあげて」と言ったけれど子供たちは最初近づきたがらなかった。
 葬儀屋の担当の人が控え室に戻ってきて「お母様が今日お誕生日だったと気づきまして」と、コンビニで買ったもので申し訳ないのですがとちょっとしたケーキをくれた。姉が感激している様子だったし、ありがたいことだし大変な仕事だと思った。
 いろいろあった一日だと思った。姉と十数年ぶりに二人だけで食事をして、母の入った川を見て、母の部屋を見て、共済組合と病院と警察をまわって母の遺体を引き取って、火葬の打ち合わせも決めて今は葬儀屋の控え室で姉と子供たちと一緒に、母の遺体と同じ部屋で寝ているのは、不思議な気がした。


 翌朝一旦姉の自宅へみんなで戻った。
 ATMで現金を下ろしたかったので歩いて10分ほどのコンビニに行こうと思って、子供たちに「一緒にいく?」と聞くと、兄の方はうれしそうについてきて、弟の方は一切興味なさそうに家に残った。
 これくらいの子供と二人きりで散歩するなんて経験がなかったからうれしかった。コンビニの道案内を誇らしげにしてくれて、通学路になってるとか、ほんとは近道しちゃいけないんだけどどうする? と甥っ子は聞いてきて楽しかった。コンビニからの帰り道に、「何度くらいで燃やすの?」「太陽よりも熱い?」「燃やしたら皮はどうなるの?」「骨は残るの?」「天国ってどうやっていくの?」といろいろ質問してきたから、ああ、みんなでいるときはなんか聞いちゃいけないんだと思って遠慮してたんだなと思った。ずっと気にしてたしいろいろ考えてたけど、聞く相手と聞く機会がなかったんだなと思った。
 一方で弟の方は、遠慮や空気を読むといったことは無縁で、「ねえねえ、えっちゃん死んだんやろ!?」と大声で言ってみたり(ちなみに色々事情があって母はおばあちゃんとは呼ばせずに本名とは全く無関係の「えっちゃん」という呼称を使っていた)、棺に入れる花を葬儀社の人が切っているときも床に寝転がりながらしつこくちょっかいを出していたり、自由だった。あととても太っていてズボンも上着もボタンが止まらなかった。兄は痩せている。兄弟でこうも違うのかと思う。


 火葬されるのを待っているあいだ、火葬場の喫茶店で飲み物と軽食をとった。4年前は母と二人でここで待っていて、途中どうにも泣けて仕様がなかったのを見かねて「泣くんやったらあっちで泣きゃあ」と言われて中庭に面したガラス張りの前の椅子に行かせられたんだった。子供たちがさわがしいのは気が紛れる。
 前々日からずっと、父の時よりもつらくないというのが意外だった。父の死の際に、これほどつらいのは何だとあまりに驚いて、いつ消えるのか、どうしたら和らぐのかと真剣に考えたのだった。そうしてその経緯と感情の遷移をまとめていた。


  つらいということ - やしお


 そのおかげでまず、「こういう衝撃があり得る」、「それは時間経過と共に、ぶり返しながらも減衰していく」ということはもう知っていた。その意味で不安というのがずいぶん軽減されている。
 それから子供たちがいて相手をしている間はほとんど母のことを考えないから気が紛れるということもある。姉がいて、自分がどう考えているかをそれなりに話すことができて聞いてくれる相手がいるということもある。もし姉も甥もなく一人で話す相手も気を紛らしてくれる相手もいないと思うとつらいだろうなと思う。
 それから母とは生きている間に色々話ができたし、それなりに会ったりメールしたりといったことができていたというのもある。父はもともと多弁なタイプではなかったし、もっとこういうことを話せば良かったという後悔が多かった一方で、母に関して後悔はあまり感じなかった。
 父親のときと違って、子供の時ああだった、こうだったと強制的に思い出される感じはなくて、割と最近のことを思い出す。それは最近の記憶が十分にあるからかもしれない。
 そうした諸々の条件が、「つらい」という感覚からかなり救ってくれているのかもしれないと思った。ただ、真っ暗な川に母が一人で入っていく姿と気持ちを想像するとどうしようもなく悲しいという点だけが残った。


 火葬を終えて、お骨と遺影を家に持って帰って、甥っ子の兄はサッカークラブの練習に行き、弟は友達の家に遊びに行き、姉は仏壇的なものを作り、昨日とはうってかわって少しのんびりした時間になった。
 姉と二人で叔父のアパートを訪ねた。叔父も同じ市内の、母のアパートから自転車で行ける距離に一人で暮らしていた。人付き合いもほとんどなく、僕も姉も会えば挨拶する程度の関係になっていた。叔父にも火葬の立ち会いに誘ったのだけれど、行かないとのことだったので姉と子供たちと僕の4人で済ませたのだった。叔父は、母が県民共済のことをとても気にしていたと言った。65歳になると死亡時の額が200万円から100万円に下がってしまうことをとても気にしていて、常々64歳のうちに死にたいと言っていたという。叔父は玄関口でぽつぽつと話してくれた。姉は、そんなことで、と言った。
 前々日に、母の友人の男性に電話して母の死と葬儀は家族だけで済ませることを伝えたときに、その人は母の死が精神科でもらっている薬のせいだと断定口調で言っていた。医者は患者を薬漬けにするから、というようなことを言っていた。その人の息子は一時期鬱で薬を処方されていた間に暴れたり様子がおかしかったりしていたらしいと以前に母から聞いていたから、そうした経験もあってそう言うのかもしれないと思った。
 叔父は共済金の年齢制限のためだと言い、母の友人は薬のためだと言い、姉は一人暮らしの寂しさのためだと言い、僕は積極的な選択だったと思っていた。それぞれが、自分が一番納得のいくストーリーに納めようとしているんだと思った。当然のことだ。そうして何かしらの納得に押し込めないと、宙吊りのままでは耐えられない。
 実際にはそうした全部が理由になって重なって起こった事象なんだろうと思う。共済金のことも、父が64歳で亡くなったことも、日々の暮らしの中で「自分はもう必要ない」と感じたりすることも、介護で迷惑をかけたくないと思うことも、薬で気分が変わることも、その他いろいろが重なりながらそうした選択が、ある面では当人のコントロール外で、ある面ではコントロール内で、選択されたんだろう。そのうちの何が支配的だったのかは言いようがない。当人による説明をもう期待することはできないし、そもそも当人がよくわかっているとも限らない。


 何をどう行動しても「どうしてそうしたのか」と相手に思わせてしまうことがある。しかしその幅を狭めることはできる。例えばメールを返さなければ「何か怒らせるようなことをしたかな?」と相手をやきもきさせたり、ツイッターで「あいつマジむかつく」とぽつりと書けば「えっひょっとして自分のこと?」と思わせたりする。そうした、相手に正解を確定させる材料がないままあれこれ考えさせて疲弊させてしまうという事態は、発信者側が気をつければある程度避けられる。会社で誰かに質問する時でも、どうして自分がそんなことを知りたいのかという情報をさりげなく盛り込むだけで、相手に「なんでそんなこと聞くの」という不安感や不信感を減らせる。もし遺書にはっきり「こう思っているからこうする」と書かれていれば、それが本心だろうとなかろうと、そうした幅が狭まって意味が確定されただろうなと思う。ただ一方で、その内容がネガティブな選択や、ある種の復讐とか恨みとかに近いものだったとしたら、一層こちらはつらく感じただろうとも思う。そう考えると、幅を持たせてこちら側に勝手に納得させる余地を残したのは、かえって良かったと言えるのかもしれない。


 火葬の翌日は金曜で、最後の平日だったから事務手続きのあれこれをせっせと進めた。アパートの管理会社への連絡、住宅保険会社への連絡、遺品処分の業者への見積もり依頼、プロバイダの解約、郵便物の転送、銀行口座の確認、共済組合へ提出する用の検案書の受け取り、市役所での諸々の手続き。それから火曜の朝刊に身元不明の遺体の記事が出ていたと刑事さんが言っていて、姉が見ておきたいというので図書館へいって新聞のコピーを取ってきたりもした。姉は姉で別の事務手続きをしてくれていた。
 それから会社の手続き上、死亡診断書か会葬礼状のコピーを出さないと忌引きでの休暇申請ができなくて、この日までに出せということだった。ただ葬儀をしていないから会葬礼状はなく、病院で亡くなったわけではないから死亡診断書ではなく死体検案書を出すことになって、それ自体は父の時と同じなんだけど、ただ今回は内容を見れば明らかに自殺だとわかる内容になっていた。それを見てあれこれ思われると思うのが何となく鬱陶しくて、できるだけ最小限の人にしか見せたくなかった。PDFで添付してメールで送ろうと思ったけれど、パソコンがなくて、漫画喫茶とかネットカフェで送ればいいと思っていたけれど田舎だからほとんどなくて、図書館でパソコンを借りればいいと思っても市民しか使えないことがわかって、結局あきらめて会社の事務の人にファックス前に張り付いてもらった上でコンビニのファックス機能で送ったのだった。
 あとから考えれば、戸籍の除籍証明書を共済組合に出すために持っていたから、そこを見れば死因は何の記載もなくただ死亡が証明できているから、こっちを送れば良かったと思った。単に「何月何日に死亡した」という証明書だけがあればいいのだからあえて死亡診断書/死体検案書である必要はなかった。親族の死因だってプライバシーの範疇だから、最初から「死亡診断書、会葬礼状、除籍証明、その他死亡が確認できるもの」と言ってくれればいいんだけど、昔ながらの少し配慮に欠けたやり方のままだったりする。


 火葬の当日の朝に、会社の同期から「大丈夫かい?」とメールがきて、ずいぶん無神経だなあと思って、ただ彼はもともとちょっとズレたところがあって、気遣ってくれているということはわかるのもあって、なんか笑ってしまった。姉は人数の少ない会社で働いていて、しきりに「大丈夫?」といったことがLINEに入ってくるから嫌だと言っていた。こういうときはあたかも何もなかったかのように接してほしい、ひたすら事務的に接してくれた方が楽だ、といったことを姉と話していた。
 父の時もそうだったけど、会社では誰も何もなかったように接してくれた。突然長期間の休暇を取っているけれど、それも当然のこととして処理してくれる。恩着せがましくフォローしてやったんだ、という態度を取る人が誰もいないというのはとてもありがたいことだとつくづく思う。人数が十分に多いから吸収できるとか、こちら側も迷惑がかからないように普段から仕事をパッケージングして引き継ぎやすい形にしてるとか仕事を囲い込まないようにしてるとか、色々あるだろうけど、とにかくこういうときに大きい会社なのはありがたいことだと思った。そもそも仕事を共有する相手がいないほど小さな組織だったり、周囲が無理解で共有を許さないような価値観の組織だったりすれば、こうしたときに仕事を一切忘れて自分のことに専念できない。親が死んだといった場面でも、会社からあれこれ仕事を振られたりする人だってたくさんいるんだろうなと思うと、余計にありがたみが増す。


 一旦姉の家に戻ると、甥っ子弟の友達が遊びにきていた。リビングのソファの上で二人で変な格好で3DSしてた。兄の方はサッカークラブの練習に行っている。金曜日で学校には行っていたから、放課後に遊んでいるというわけで、急に自分が小学生だった頃を思い出して懐かしくなった。その子は急に僕が入ってきたのでちょっとびっくりしたようだったけれど、すぐふつうに挨拶してくれてその後は特に人見知りした様子もなく話してくれたので良かった。僕の方も甥っ子を相手するのに慣れていたおかげでふつうに喋れたので良かった。甥っ子弟が「○○君は親友なんやて!!」と相変わらずの大声でその子を紹介してきて、てらいもなく「親友」という言葉が使えるのがなんか眩しかった。
 その子は母の遺影を指差して「この人が死んだの?」と聞いた。「そうだよ」と答えたら「僕この人と会ったことあるよ」「喋ったことあるよ」と言った。孫の世話や家事をしに来ていたから、何度か会ったことがあるみたいだった。この子たちにとっては、自分の身近な人が死ぬ、会ったことのある人が死ぬという体験がそうあるものでもないだろうし、興味があるのかもしれないと思った。
 妖怪ウォッチ3をやってて、僕もアニメは一応見ているからなんとなくわかるし、画面を覗き込んで「あ、これあれやろ」みたいなこと言って、(あっ、これあれだ、うっとうしい大人だ)(友達同士で遊んだ方が楽しいに決まってる)と思って心を入れ換えて夕方のニュースを一人でおとなしく見てた。


 土曜の朝方に両親が夢に出てきた。二人でベッドに寝ていて、自分はとなりの部屋で畳の上の布団に寝ていて、開いたふすまの向こうで二人が少し上体を起こしてこっちを見ていた。会話を交わしたわけでもないけれど、小学生の時に3人で住んでいたアパートを思い出して懐かしかった。


 土曜日はもう一人の姉に13年ぶりに会った。下の姉だ。母は最初に結婚した男性との間に二人の娘をもうけて、離婚した際には二人とも父方に引き取られ、さらにその後で下の子だけが父方の伯母の家に引き取られたのだった。それで上の姉は僕が生まれた後もたびたび母親の家に遊びに来ることができたけれど、下の姉は引き取られた家のこともあって、ごくまれにこっそりとしか会えなかった。さらに伯母の家では母が捨てたのだと言われていたし、実際本人も一緒に暮らしたかったのに叶わなかったこともあって実母に対しては恨みに近い気持ちも混じって距離があった。
 上の姉もいろいろあってしばらく下の姉とここ半年ほど連絡をとっていなかったという。LINEとメールで母の死を知らせたものの返事がなかったと言っていた。ただ、母の死亡共済金を申請する際に、上の姉、下の姉、僕の3人が受け取りの順位が同じだから、全額を受け取るには全員分の同意が必要だということで、もう一度上の姉が電話をしてみることにした。それで電話で久しぶりに話して、判子もいることだったし姉の車に乗って会いに行くことになった。甥っ子の兄は相変わらずサッカークラブでその日は遠征試合で不在だったから姉と僕と甥っ子弟で向かった。
 本当に甥っ子弟を相手にするのはしんどい。空気を読むとか顔色をうかがうということは無縁だし、運転中でも暇になればちょっかいを出すし、じっとしていることがないし、何かが欲しいと思ったらいつまでもずっと言い続けるから、何か気を引き続ける必要があってしんどかった。なんかマインクラフトの話を聞き続けたり、指遊び手遊びをし続けたりしていた。
 下の姉の家についても、まず上の姉が先に行くからというのでコインパーキングに停めた車の中で二人で待ち続けて、途中で「トイレ」と言うから大急ぎでコンビニを探して(いつも漏れる寸前まで我慢する悪い癖がある)さらに待って、今度は姉たちと一緒に食事に行くことになった後も姉たちが話したいだろうからずっと甥っ子弟の気を引き続けて、帰りの車中も気を引き続けて、ちょうつかれた。
 それでも下の姉の顔を見られて少し話もできたし良かった。ひょっとしたらこれが最後になるのかもしれないと思うとやっぱり会って良かった。家に帰ると甥っ子兄がサッカーでMVPをとったとかでメダルを持ってた。


 日曜に帰った。その朝に、甥っ子兄とまた二人でコンビニに行った。二人きりになってから甥っ子兄に「えっちゃんどうやって死んだの?」と聞かれて、「川で亡くなったんだよ」と行ったら「えっ川で!?」と言うから(あっ、姉は伏せてたのかしまった)と思ったけれどしょうがなかった。「でも川なんて一人で行かあへんやんねえ?」「自分で死んだってこと?」と聞かれて「わかんないねえ」としか言えなかった。でもたぶん本人はわかっていたんだろう。その程度の類推は当然働く程度にはもうわかってる。きちんと答えてあげた方がよかったのかもしれない。あえて曖昧にぼかして「どういうことなんだろう?」とあれこれ考えさせてしまうのは酷なことかもしれないとあとになって思ったけれど、その時はなんとなく話を逸らしてしまった。
 帰りみちで急に「太陽って何色か知ってる?」と聞かれた。(赤とか黄色だよって言うのかな?)(緑のスペクトルが強いけど可視光全域が入ってるし)と思いながら「白だよ」と答えたら、「ううん、緑色だよ」と返ってきたのですごくびっくりして興奮してつい黒体放射の話までしてしまった。本人は理科の授業で減光フィルタ越しに太陽を見たら緑色だったからだという。火葬の日に「太陽よりも熱い?」と聞かれて「ううん、太陽は6000℃以上あるけど、火葬は2000℃くらいじゃないかな」と答えたのと、光の色の話とリンクして勝手に感動してたけど甥っ子兄はふーんという感じだった。


 帰りの新幹線では別に泣きもせず普通だった。ただ、「これはポジティブな選択なんだ」と思おうとしたのはやはり違うのかもしれないと考えていた。身体機能の低下やそれに伴う苦痛(病気の苦しみや痛み、認知症等)に対する処置として選んだ死や、純粋な喜びとして選んだ死(宗教的な理由だったり性的な嗜好だったり)でない、それ以外の理由で自殺するというのは結局、社会が殺しているのと同じことでしかない。「介護で迷惑をかけるのが嫌だ」とか「お金で迷惑をかけたくない」といった理由は社会的な課題が解消されれば霧散する種類のものでしかない。きちんと安楽死が整備された社会であれば、肉体的・生理的に耐えがたい状態が到来してから死ねばよいから、元気なうちに自殺するという必要もなくなる。結局、実際に迷惑をかける前に先回りして死んでおくというのは、現状では仕方がないという種類の選択でしかなく、完全に肯定的なものにはなり得ない。母は64歳で死ぬ必要はなかったということになる。せいぜい部分最適の範囲で自分の人生を自分でコントロールしたという肯定でしかあり得ず、どうしたって全的な肯定ではあり得ない。
 それは昔からあって、姥捨て山とか口減らしとかの延長上のことだけれど、重力波を検出しさえするような未来に生きてるのに、まだそのまま免れないのかと思うと腹立たしささえ感じるのだった。
 それでも咄嗟に「これは本人としてポジティブな決断なのだ」と思おうとしたのは、そうでなければ、これは仕方のないことだと納得するのが難しかったからかもしれない。日曜にもしメールでもしていれば、電話でもしていれば、あるいは「誕生日プレゼントどうする?」とでも聞いていれば、何か違う結果があり得たかもしれないと思うことは、つらいことだった。そのつらさを回避するために、自分を救うために、肯定的な選択だったと思い込みたかったということかもしれない。
 みんな自分にとって都合のいいストーリーに押し込めたいと思っている。そしてそれはそういうものだし仕方のないことだと思っている。父の時はそれでも宙吊りのまま耐えたいと思っていたことを思うと、僕は少し後退しているのかもしれない。


 帰って割とすぐに友人と会って、母の顛末を話した。結局、自殺だったということまで話したのはその友人だけだった。ここ数年で一番付き合っている時間の長い人で、お互いの状況をよく共有していたからその分、背景の説明が不要だから話しやすい。食べ物の好き嫌い、家族構成、仕事の内容、人間関係等々をすでに知っていればその分の説明を省いても伝わるというのはとても楽だ。
 「親が自殺をした」ということを明かす以上は、相手に「どうして自殺したのか」とか「親が自殺した気持ち」とかを憶測させないよう正確に限定していくために説明を重ねる必要があって大変な作業になる。ほとんどここに書き連ねたことそのものを話して、話す方も聞く方も大変なのでその人だけで済ませたのだった。そうした話を聞いてくれる、話に付き合ってくれる相手がいるのはとても幸せなことだ。こうした時だからというだけでなく、普段でも自分の状況を話せるという相手が一人いるだけで精神衛生がずっと良く保たれて救われている。
 例えばこうした話を読んだ赤の他人が「やっぱり遺された人が悲しむみから自殺はだめだ」とか「死ぬことなんてないのに」とか言うのは耐えがたい。ある一人の人間が、完全に不可逆的な決断を下して実行に移したということが、全くの無駄で誤りでしかないと一方的に言われるのは不愉快なことだ。赤の他人が一般化するのは耐えられない。人がそう考えることは自然だし正当だと思うものの、少なくとも個別具体的な自分の母親のことを、そこに勝手に回収しないでほしい、それは、僕の見えないところでやってくれ、という気にはなるのだった。「やっぱり自殺はいけないね」と面と向かって言うような無神経さは耐えられない。
 その友人はうんうんそうだねとただこちらが一方的に話すことを肯定して聞いてくれたから、そういう意味でもとても救われたのだった。


 母がつけていた家計簿兼日記や、スマホに残っていたメールをぱらぱらと見ていた。母が送信したメールはほとんど朝に出し合っていた僕とのやり取りばかりで、時々姉に送ったものがあるばかりだった。その中に一件、電話帳に登録がなくて送信先がメールアドレスそのままのメールが目についた。「あなたは、今どこてせいかつしてますか。」という書き出しのメールだった。そのメールの最後に「わたしは64才のうちに、じさつします。」と書かれていた。母が実際にそうする3週間ほど前に送信されたメールで、返信はなかった。もう付き合いがなくなっていた友人に宛てたものだったのかもしれない。何か突発的な寂しさや無情感といったものに襲われた結果の行動だったのかもしれないと少し疑ってもいたけれど、それもゼロではないとしても、やっぱり決めていたことだったらしい。
 家計簿兼日記はいつも2、3行でその日にしたことが書いてあるだけで別に悩みや考えというほどのことは書かれていなかった。2014年6月21日に、赤字で「たまごをコタツの中に入れひよこにしてみるつもりはじめた」と書いてあって笑ってしまった。ひよこの話はその後一切言及がないから失敗したらしい。


 父のときほどつらくないと最初は思っていたけれど、1ヶ月ほど経ったあたりで母のことをふいに思い出して漠然とした、ただただ「悲しい」としか言い様のない感情のくることがたびたびあった。秋が深まったからかもしれないし、日が早くなって気温も下がってそんな気になったのかもしれない。一日のうちほとんど思い出さないけれど、思い出すとただひたすら悲しく、理由もなく悲しいのだった。当たり前のことだけど、二度と会話することもないし、二度と顔を会わせることもない。
 テレビを見ているときに一瞬、ああこの番組たぶん母親が見ているなと思った直後に、ほぼ同時にいやもう亡くなっていると考える齟齬がある。日常的にふっと、これは母に話そうかと思う話題がある。平日に毎朝交わしていた世間話程度のメールにちょうどいい話題だとふと思ったりする。テレビドラマの「相棒」の新シーズンが始まるというのを知って、ああ見てるかな? と一瞬思う。東京で大規模な停電があった時に、あ、これはたぶん心配するメールが来るな、と一瞬思う。いろんなところで一瞬思いながら、その一瞬あとで「ああ、ちがう」と思う。
 夜中のスーパーで半額の惣菜を買って、ちょっと肌寒いなかを一人で歩いて帰りながら、母親もこうだっただろうかと思ったりする。もうほとんど料理をしなくなっていたし、食事も雑になってたみたいだった。自分が帰省している間や、孫や弟には作ったりするだけになっていた。
 会えば母はほとんど一方的に自分の話をするばかりで、仕事の調子はどうかとか、どんな仕事をしてるのかとか、職場の人はどうかとかあまり僕の話は聞いてこないのだった。結婚はどうかと子供をつくるなら早い方がよいとかたまに言うことはあったりした。昔からそうだったかなと思い返すとそんなことはなく、子供の頃はもっと自分の話を聞いてくれていた。それは聞くのが嬉しかったのもあるだろうし、僕が大人になって自分の話をできる相手になったというのもあるかもしれない。もう仕事もしていなかったし一人で一日を過ごすことも多かったみたいだから話し相手がほしかったのかもしれない。うんうんと母親の話をただ聞くのも子供の頃に話を聞いてくれたことへの返礼ともいえる。
 母親の料理のレシピを記録しておこうと思ってしそびれていたのを思い出して残念だった。聞けばいつも「別に適当だけど」と言うけれどその適当を再現するのが難しい。子供の頃にしょっちゅう出てきた十六ささぎとかインゲンの卵とじとかの甘辛い味付けや、それどころか思い出そうとしても存在すら思い出せないメニューを、もうたぶん再現できない。仕方がないけれど残念だ。
 映画館で「PK」というインドの作品を見ていたら、途中沐浴の場面で背景で川の流れが激しくてなかば流されている人が映るのを目にして、映画のストーリーに入り込んでいたのが一気に引き戻されたのだった。東日本大震災のあとに津波の映画が公開延期になったり、だいぶたっても「津波のシーンがあります」といった注意文が出ていたりしたのを思い出して、それが実感としてよくわかると思った。
 夜中の真っ暗な川に入っていく姿と気分を思うとどうしようもなくつらい。どうしたってそこは、幸福感に満たされているとは想像できずに、嫌だなあと思いながら母親が入っていくのを思うとつらいのだった。ニュースなんかで自殺のことがまったく別の文脈や場面で出てきても、考えがそちらに接続されてしまうのでつらくて見られない。そうした感覚は時間が経てば薄らいでいくのを既に知っているけれど、忘れるということはない。


 11月27日の日曜の明け方に夢を見た。僕はベッドで寝ていてその脇で裸の母親が床にぺたんと座っている。母親は向こうを向いているから背中しか見えない。僕はベッドの上で半身を起こして母親の背中を眺めている。なにか具体的なことをあれこれ話して自分も適当に返事をしながら、この母親は死んでいるのだから、幽霊のようなものだろうと思いながら相手をしている。確かめてみようと思って、手にパンのようなものを持っていてそれを小さくちぎって母親に投げてぶつけようとする。母親は床に座ったまま少し振り向いて、嫌そうな顔をして、上半身をよじって避けようとしているようなそぶりを見せるから、ああ、やっぱり幽霊だから、それが明らかになるのが嫌だから、避けようとしているのだと思う。
 僕はものすごく緊張していた。自分は母親が死んでいると思っている。これは幽霊とかそういうものだと思っている。それでもあえて確かめてみようとするのは、生きているのかもしれないと、そういう期待や可能性をすでに持ってしまっているということだ。そこをはっきりさせるのは、苦痛に近いくらいの緊張感だった。大きな発表会の前で逃げ出したくなるような感覚に似て、確かめたくないとさえなかば思いながら、手の中の小さな破片を投げたら、母親の背中にあたって落ちた。
 そんなことはあり得ない、嘘だと思って、信じられなくてもう一度投げたら、またちゃんと当たってかけらは落ちた。
 それでああ、生きてるんだと思ったらもう、あまりに強い緊張感から突然解放されたせいで、ベッドから落ちるように降りてぺたんと床に座った母親の太ももにすがりついて絶叫に近いような嗚咽にむせんでいた。母親はドン引きしてたみたいだけど僕の肩か背中をぽんぽん叩いて「あんた何泣いとるの」と言って、いきなり泣きながら目が覚めた。目が覚めた直後は少し混乱していたけれど、すぐに夢だったのだと理解して、やっぱり死んでいるんだと思った。がっかりしたというより、何なんだ、やめてくれという気がした。いつもの夢と同じように、目覚める直前の、その最後の場面しか覚えていない。
 夢をことさら意味付けたり理由を考える気はないけれど、夢でこんなに狼狽したのが初めてだったというのと、あとはただ、もう一度話をしたいなと思う。