やしお

ふつうの会社員の日記です。

借金する人、させる人

 知人や消費者金融から借金してしまう人は、自信がないタイプが多いんじゃないかと思っていて、自信がない→自分では自分の人生をコントロールできないと考えている→幸福は外在的な要因(環境とか)で決まってしまうと考えている→楽しみを外部に依存してしまう→ギャンブルやゲーム、海外旅行やショッピングや遊びにつぎ込んでしまう、エスカレートしてしまう→お金が足りなくなるので借金してしまう、というような流れがあるんじゃないか。
 幸福は自分が何を幸福と感じるか決めるものだ、と考えている人の場合だと「自分にとってこれが幸福だ」と自分で考えればそれで満足できるかもしれないけれど、幸福が外在的に決定されると考えている人の場合だと「自分が幸福だと感じたからこれが幸福なんだろう」と循環的な・受動的な感じ方をしていて、それだとより大きな「幸福」を感じた場合に「自分はこのくらいじゃないともう幸福じゃない」と受動的に受け止めてしまうのでエスカレートしてしまう。ちょっとした国内旅行で満足してたのに海外旅行を体験してしまうともう海外じゃないと満足できないとか、ちょっとしたアクセサリーだったのがどんどん高価なブランド品でしか満足できなかったり、大金を賭けないとつまらなくなってしまったりする。「自分へのごほうび」がエスカレートしていく。
 自分で自分の人生をコントロールできないと信じている場合、将来に託す・賭けるといったインセンティブが働きにくい。自分の手で自分の未来をコントロールできると本気で信じられないのなら、未来を決めるのは外在的な要因でしかなくて、それだと「未来のために今ちょっと我慢する」という行動様式になりにくい。将来のために今ちょっと我慢するというのは、貯金だったり勉強だったり健康に気を遣うことだったりする。
 貯金ができないということも、お金を使ってしまうということも、両方が根本に「自信がない」という点に発していて、その両方が借金をしてしまうという行動に繋がっていく。
 貯金がないのでちょっとしたトラブル、家電が壊れた、怪我をした、仕事を減らされたといった事態ですぐに日々の資金繰りがショートしてしまう。知人に借金をする場合は、本人としても切実な「かわいそうな事情」があるから、知人も断りづらいし、本人も「これはしょうがないことなんだ」と罪悪感を持ちづらい。もちろん本人も「借金してしまった」と本気で悔やんだりはするとしても、ただ最後の最後で「でもあの時借金をしたのは自分ではどうしようもない事情があったから」となってしまう。もともと自分の人生を自分でコントロールできると心底信じていないと、「自分がこうなのは環境のせいだから」という理屈に流れてしまうため一層「しょうがない」になってしまう。
 貸した側からは、その生活苦の救済で貸したお金を返さないまま、その後自分の欲望をコントロールできていないような出費の仕方をしているのを見ると、「いやいやその前に借金返してよ」と思うけれど、借りた側からは「こんなに苦しい中で生きているのだからこれくらいは許されていいはずだ」という感覚になってしまう。
 返せない借金を繰り返してしまう人が、一方で自信過剰な言動、「自分はすごい」「自分は詳しい、専門家だ」といった態度を見せることもあって、一見「自信がない」と反するようだけどこれは、根本的に自分を信じられないから、その不安感を解消するために「いや、自分はすごい」と言い聞かせずにいられないところからきているんじゃないか。職業にできるような、あるいは他より抜きん出た水準ですごいわけでもないことに、自尊心を預けないと耐えられないような不安感を抱いているために、「自分はダメだ」と「自分はすごい」を大きな振幅で繰り返してしまう。
 たとえば子供の頃から周囲の大人に「お前はどうせダメ」と言われ続けていたりすれば、そのまま自信が失われてしまうのかもしれない。自信が持てずに、貯金や勉強や健康といった未来のために少し我慢する小さな行動が失われ続けると、それが1年、5年、10年、20年、と蓄積していくと取り戻せない大きな差になってしまう。その差の前で「ああ、もう取り返せない」と絶望してますます自信を失うという悪循環に陥ってしまう。本当は、他人との比較は関係なく、たんに自分が「前の自分より良くなっていると自分が思える」ことに満足できれば、その悪循環からは抜け出せるのだけど。
 実は「自分のせいじゃない」も「自分がコントロールできる」も両方とも事実で、両方とも事象のなかに含まれている。自分でどうにもできない要因と、どうにかできる要因が、なんにでも両方含まれている。その両方あるうちの、どちらを見つめるかという態度の違いでしかない。


 一方で、そうした人に借金をさせる人、お金を貸す人は、貸せる程度に貯金を持っているわけで、相対的に自信の基盤がしっかりしている人とも言える。でも、自信がしっかりしていない人と付き合っているという点から考えると、実は自信のない相手をそばに置くことで「自分の方がすごい」と感じて安心したがっているのかもしれない。本人もはっきり自覚しない細かなポイントで、日常的にマウンティングをしたりして、「自分の方がすごい」と感じて安心している。相手はそのたびに「自分はダメだ」と思わされて、相手の自信をますます奪う結果になる。自尊感情を相手から吸いとって自分のものにしている、そういう自尊心の搾取をしているのかもしれない。傷つくのが嫌だから、弱い相手を探して利用しているような面があるのかもしれない。
 本当に自尊心の基礎工事がしっかりしていれば他者から自尊心の搾取をせずにすむのだとすれば、お金を貸す側の人も、せいぜい相対的に自信がしっかりしているだけで、まだ弱さを含んでいると言える。その意味で五十歩百歩だ。


 借金をする人、させる人というのは実のところ、お金のやり取りだけじゃなくて、自尊心のやり取りみたいな関係になってる。お金を渡して自尊心をもらうという。しかもそのやり取りによって、借金をする側はさらに自信が悪化して借金体質が悪化していく、借金をさせる側は自尊心が実態を伴わない方法で満たされてしまう。お互いにとって良くない関係になってるんじゃないか。


 こういうことをとりとめもなく考えたりするのは、自分がお金を知人3人に貸していて(全部足してもたいした額じゃないけど……)、その3人とも「自分はダメな人間だ」と言ったり、環境のせいにするようなことを言ったり、一方で自信過剰なことを言ったりする態度が共通していた。そうした知人が3人いたというのは、もちろんそうじゃない友人もいるけれど、何かしら自分の側にそうした知人を好む要因があるんだろうなとも思ったからだった。
 貸すときは、大変だなと思って、返ってこなくても仕方ないくらいの額で貸して、よかれと思ってしたけど、実はお互いにとって良いことじゃなかったかもしれないと思い直してる。たまにはねと思って贅沢をしてそのお金をこっちが出したりしたのも、まあ楽しんでもらえればと思ってしたけど、実際には相手にとっての楽しみのハードルを上げる結果になって、より浪費体質を強化してしまっていたかもしれない。
 お金貸した友人から、家の事情や生い立ちや今の仕事の話をされて「だからしょうがない」「だから貯金も返済も無理」と言われた時、むかし自分の母親がかっぱ寿司でパートしながら1年ぐらいかけて60万円貯金をつくった(当時は離婚して母親は一人でアパートに住んでた)ことや、自分が学生のころにバイトしながら家にお金を入れながら就職する時点で30万円くらい貯金があったことを思い出したりして、(そんなの言い訳じゃん)と咄嗟に思ったけれど、一方で本人にとってはこれがリアルなんだろうなとも思った。日々将来や生活への不安からくるストレスをじわじわ与えられ続けていれば、それを相殺するような楽しみがないとやっていけない(ただそれが浪費である必然はあまりない)。実際、自分もお金の不安があった頃は家の中がぎすぎすしていたし。仮に僕の母親や僕のケースの話をしたところで、「でも自分の状況とはここが違う」という点を見つけて「だからしょうがない」と言われてしまうし、余計に「自分はどうせダメ」の方向に追いやってしまうから逆効果だろうと思ってその時は何も言わなかった。


 「他人を直接変えることはできない」という原則に立てば、自分の側の行動を変えるしかないわけなので、少なくとも知人に金を貸すようなことはやめる、マウンティングしているような点がないかチェックしてやめる、向こうに合わせてこっちももう贅沢しない、といったことを改めてやり直してみるしかないかと思ってる。20代前半くらいまでは、いきなりもう諦めて人間関係をばっさり切ってしまうみたいな選択をしがちだったけど、だんだんそれは楽な選択でしかない、環境に対して受動的すぎる選択なように思われて、もう少し建設的な、でもずるずる縛られるわけではないような形でやっていこうという感じになってきてる。