やしお

ふつうの会社員の日記です。

パワーレンジャーとLGBTとリベンジポルノ加害者

 パワーレンジャーは、高校生のメンバー5人がそれぞれ個人的な悩みを抱えている設定になってるけど、トリニー(黄レンジャー)とキンバリー(桃レンジャー)の女性二人の事情は即時に理解するのが難しくて、映画が終わってあれこれ考えてようやく「あ、そういうことだったのか」と思った。
 わかりづらいっていうのは、ものすごくさらっと流されるのと、ほとんど直接的に表現されないのと、字幕だと文字数の制約があることと、その上ストーリーそのものに直結しないため特に理解できなくても困らないから。


トリニー(黄):レズビアンであるということ

 トリニーがみんなに自分のことを話す場面で、「3年で3つの学校に行ってていつも自分はニューガールだ」「その方がいい、楽だし、誰とも知り合いにならないし」「家族は普通すぎる」「両親はレッテル貼りしてくる」って言うから、最初(ああ、家族や友人に馴染めずに悩んでる子、ってことかな)と思ってたけど、後からちゃんと考えるとちょっとそうじゃなかった。

トリニー(黄):My parents don't have to worry about my relationships.
ザック(黒):Boyfriend troubles?
トリニー(黄):Yeah. Boyfriend troubles.
ザック(黒):Girlfriend troubles?
トリニー(黄):My family is so normal. Too normal. They believe in labels.


 という会話が間にあって、「(1年で転校しちゃえば)両親も私の人間関係とか心配しなくていいし」「男問題?」とザックがちょっと茶化すように言うと、トリニーは「そう、男問題」と苛立ったような吐き捨てるような、皮肉るような調子で言うから一瞬その場が緊張して、それでザックが「女問題?」と言い直すと、それには直接答えずに「うちは普通なんだ、あまりに普通。みんなラベルを疑いもしない」みたいに言ってる。
 この会話も一瞬で終わるけど、ここをスルーすると全体の意味がわからない。
 その後で「私に実際起こってることを家族にどう伝えていいかわからない。こういう話を誰かにしたことなんてなかった。」と言う。


 この流れをあらためて見直すと、「家族や友人に馴染めなくて困ってる」んじゃなくて、「娘が性的少数者であることを受け入れてくれそうな家族ではなくてしんどい」という話になってる。
 そう考えるとザックの「Boyfriend troubles?」という冗談は相当しんどいし、たぶん今までもそういう言われ方をしながら、でも「そうそう」と内心とは裏腹な答えを強いられてきたんだろうなとつらい気持ちになる。


 監督はトリニーについて「自分が何なのか自問自答していてまだ完全にわかったってわけじゃない」とコメントしている。

For Trini, really she's questioning a lot about who she is. She hasn't fully figured it out yet. I think what's great about that scene and what that scene propels for the rest of the movie is, 'That's OK.' The movie is saying, 'That's OK,' and all of the kids have to own who they are and find their tribe.

'Power Rangers' Gay Character Storyline: Yellow Ranger Plot Explained | Hollywood Reporter


キンバリー(桃):リベンジポルノ加害者であるということ

 キンバリーの方は前半の時点で

  • 元々チアリーディング部にいたらしい
  • 元カレをぶん殴って歯を折ったらしい
  • チアリーディングの仲間からハブられているらしい

ことはわかる。
 後半に入ってキンバリーはジェイソン(赤レンジャー)に事情を打ち明けるけど、この場面も直接的な言い方を避けてるのと、人間関係が見えにくいのでちょっとわかりにくくなってる。

【桃】タイが私のこと出会った中で最悪に卑怯な人間だってみんなに言いふらしてたから、タイの顔面を殴った。で結局、タイが正しかったんだよ。
【赤】そんなわけないでしょ。
【桃】(スマホの画面をジェイソンに見せる。観客には見えない)
【赤】うっわ。えっ君が撮ったの。
【桃】違う。アマンダの自撮り。でも彼女が私にプライベートにシェアしてきたやつ。私のこと信じてたからこそ送ってきた。
【赤】で、君がタイにその写真を送った。
【桃】以下のメッセージつきで。「こんな子をお母さんに紹介したいわけ?」彼女の顔を見るまで、それがどれだけ卑怯なことかって自分でわからなかったんだよ。
【赤】でもそういう写真が学校内で出回るなんて珍しくないし、俺は別に気にしないけど。
【桃】私が気にしてるっていうの。私がやったんだし。校長のオフィスで、アマンダのお父さんが、自分の娘の写真を見てるところを、みんなで見てた。自分がどんな人間に成り下がったのか、アマンダのお父さんの目を見てようやくわかった。


 こうやってだいたいの台詞を書き直してみると

  • アマンダはキンバリー(桃)の親友(だった)
  • タイはキンバリーの元カレで、アマンダの今カレ
  • アマンダはセクシー自撮りをキンバリーに送った。キンバリーはそれをタイに送った
  • 怒ったタイがみんなに「キンバリーはクソ」と言ってまわったことに逆ギレしたキンバリーがタイをぶん殴ったことで問題が表面化、学校や保護者も知ることになった

らしいという事情がわかる。


 ただリアルタイムでその場面をいきなり見たときは(えっ今スマホで赤に何見せたの?)(えっアマンダって誰?)ってなって即座に飲み込めなかった。しかもこの場面はさらーっと流れていって、その後はもうストーリーとは特に絡まないし。
 あとになって、ああ、アマンダって最初に出てきて「あんたとは絶交だ」ってメンチ切ってた友達二人組のどっちかか、とわかる。元カレのタイに至っては会話中に登場するだけで本人は全く出てこない。


 これ、本人も認めてるようにキンバリーがクソってことにはなるけど、でも「元カレが親友と付き合いだした」「その親友が今でも親友ヅラしてくる」って状況でモヤモヤしてるところに、そいつの裸写真(?)が送られてきたから(はあ!?)ってなって、カッとなって「おめーの彼女はこんなんですけど!?」って送りつけちゃったら、元カレがそれを周囲にぶちまけて大事にしちゃった、って話なわけで、やった時点ではこんな大事になると思わなかったっていうのは、高校生くらいだとしょうがないし気の毒だししんどいだろうなという気になる。
 別に写真をキンバリーが流出させたわけじゃないし、その写真も元カレの写真ではないわけで、リベンジポルノとは厳密には違うかもしれないけど(そのレベルで悪質なわけじゃないけど)、ただ本人が公開されたくない写真を、嫉妬に基づいて本人の意図しない相手に見せてしまう、という意味では近いような気もする。(そう考えると、キンバリー(桃)がジェイソン(赤)に「ほれ」ってカジュアルに写真を見せてるの何なんだって気もする。)


 この話を聞いたジェイソン(赤)が、

Live with it. You did an awful thing. That doesn't make you an awful person.
(それと一緒に生きてくんだよ。君は最悪なことをしたかもしんないけど、そのことが君を最悪な人間にするわけじゃない。)

って言う。「罪を憎んで人を憎まず」を他人だけでなく自分自身にも適用しない限り、「罪」を正確に対象化できないし、前進もできないからね。


 あとこの場面でジェイソンが「There is literally thousands of photos going around school.」と言ってて、この「literally」って本来の「字義通り」という意味より「ガチで」「マジで」くらいの強調表現で、実際には何千という生徒の裸写真が学内を出回っているわけではないけど、「そんな珍しいわけじゃないし(だから気にするなよ)」と慰めている。
 SNSで送った裸の写真を学校中にシェアされてしまって自殺未遂をしてしまうというアメリカ映画の「ディスコネクト」のことをふと思い出して、それも途中から加害者側の苦悩に焦点を当てた映画だった。


5人ともはみ出しを強要されている

 ジェイソン(赤)は、地元で知らない人がいない高校フットボールのスターだったけど、不祥事(悪ふざけが過ぎて警察沙汰になった)でプロ選手を諦めてる白人の高校生。
 ビリー(青)は自閉症スペクトラムでいじめられている黒人の高校生。
 ザック(黒)は病身の母親を抱えて不登校気味な、自信過剰なアジア系の高校生。


 それぞれ事情を抱えた高校生たちが、落ちこぼれの来る土曜学級でたまたま集まってヒーローになるという、ありがちな設定なんだけど、さっきトリニー(黄)やキンバリー(桃)で見たみたいにその背景が割としんどいというかリアルなんだ。


 ジェイソン(赤)も「冷凍庫に入ってみた」的なバカなことをしてスター選手から転落するんだけど、でも高校生なのに世間に注目されてしまう、品行方正を世間に強要されてしまうっていう立場に高校生で図らずも追い込まれちゃってた苦痛がもともとある。
 ビリー(青)は、父親が子供の時に死んだらしいこと、その父親からいろんなことを教わったことがほのめかされていて、自閉症である自分に理解があった親を亡くしてしまうってのはつらい。
 ザック(黒)はトレーラーハウスに住んでて、母親は自宅に寝たきりで、(たぶん処方薬じゃない)市販薬を飲ませてる。父親はいないっぽい。社会保障を受けて生活はしてるんだろうけど、十分な医療を受けられていない。この先母親がどうなってしまうのか常時不安がつきまとっている。
 キンバリー(桃)はちょっとカッとなって取り返しのつかないことをしてしまったし、トリニー(黄)は自分で選んだわけじゃない性的指向のためにナチュラルに生きられない。


 5人とも、自分でそうしたくてそうなったわけじゃないけど、「普通」から疎外されて、はみ出さざるを得ない状況にいる。これは「普通」が彼らを包含しない程度に狭すぎるせいだ。


 でもそうしたことは、この「パワーレンジャー」では声高に語られたりはしない。よく見るとそうだなってわかるだけで、5人ともそのことで苦悩してる姿を観客に見せてくるわけじゃない。みんな楽しそうに生き生きしてるから、見てるこっちも楽しい。(あとボス敵の女も終始高笑いして楽しそうに町を破壊してて見てるこっちも笑ってしまった。)
 それはこの映画の全体を通して貫かれている姿勢で、だいたい不思議なバッジ?を手に入れて「お前らは選ばれた」とか言われて特訓して変身するなんてはちゃめちゃな事態を、みんな一瞬(えっ)てなりながらでもすぐ「まあしょうがないか」「じゃあやってみっか」って簡単に受け入れる。でもそれは、映画の中の人物としてはとことん正しい態度だし、こうした軽やかさは映画にとっての美点でしかない。


当たり前のこととして描く

 もともと5人がお互いの事情を語り合った経緯っていうのが、パワーレンジャーズの師匠というか司令官みたいなやつが「変身しろ」「できるはずだ」「スーツはお前の心の中にある」「心を解放しろ」みたいな極めて抽象的なことしか言ってこないせいで、高校生たちが「なんで俺ら変身できんのやろ?」「お互いのことをよく知らんからやない?」ってなって、焚き火を囲んで話し合うという、矯正キャンプか集団セラピーのパロディみたいなことをしたからだった。
 でもその後、それでも変身できずに大失敗した後、お互いが「マジこいつのためなら死ねる……」みたいな感じに自然となってきて、「いや、お互いのこと話し合うのとかが問題じゃなかった。こういう感じがそれだったんだ」と否定することになる。


 作品で5人の背景や個人的な事情がほのめかされたり語られたりする。でもそこをことさら重大時みたいに語らないし時間も割かないし、すっと背景に溶け込ませてしまう。っていう映画自体の作りとパラレルになってる。
 そうした「事情」を媒介にしてお互いに同情したり理解したりするというより(それは大事だけどそれだけじゃまだ足りなくて)、当たり前に受け入れてその上で信頼を築ければいいよねっていう。


 それで満を持して5人が変身するわけだけど、司令官的なやつが「It's morphin' time!」って言う。そんなパーティーターイム!みたいな言い方すんのかよってとことん軽い。(もともとのパワーレンジャーから踏襲された台詞らしいけど。)


 こういうの見せられちゃうと、じゃあ日本の映画で、アクション大作ですって作って、こういう設定をさらっと入れられるかな? と考えると難しい、そういうインセンティブはあんまり働かないかもしれない。
 ジェイソンもキンバリーも加害者かせいぜい自業自得みたいな側の人で、ザックは割とリアルな貧困家庭出身者で、トリニーはゲイで、そうした登場人物を出しながら、それをぐちゃぐちゃ説明せずにさらっと処理するような作品が、全国のシネコンにかかるような大きな邦画で今すぐ出てくるかなと思うとやっぱり難しそうな気もする。


 たとえば特に極端なのがディズニーがフローズンで「王子さまに選ばれてハッピーエンド」っていうのを明確に否定して、ズートピアで人種差別を描いて、モアナで「プリンセスであること」まで否定して、実写の美女と野獣ではゲイであることを自覚するあわいにいる男性(ルフゥ)を描いたりして、かつて自分たちが作った固定観念を自分たちで撤回しようとしているようにも見える。一方で通念を崩しながら、他方で同時に娯楽としてもきちんと成立させる作品を全世界に配給してきている。
 日本の作品で思い出すのは、君の名は。のように「男子高校生はこんな感じ」「女子はこう」「かっこいい大人の女のイメージはこれでしょ」「田舎から見た都会のイメージ」って性規範や通念を無邪気に肯定してしまう映画だったり、彼らが本気で編むときは、のように性同一性障害の女性を主役にしながら「女性以上に女らしいから良い」という価値観や「差別的な言辞を受けても黙って耐える」という態度が肯定される映画だったりする。(えっこんなんでよく製作OKしたね……)という気持ちになる作品がすんなり全国上映されたりする。


 全くそうした存在が存在しないかのように扱うか、ど真ん中に据えながらとことんズレてしまうかの極端になってしまうというのは、さらっと「当たり前のこと」として描く段階からは2段くらいの差がある。受け入れ可能な段階→いるのが当たり前の段階、という2段分のステップがある。
 たとえば聲の形のように障害者を中心に据えながら感動ポルノから正確に免れているような作品だってもちろんある。そうした「きちんとやろうぜ」という作品・製作者が(映画に限らずどんな媒体でも)たくさんいるのは間違いないとしても、そうじゃない無頓着な作品もまた途中でストップがかからずにふつうに全国上映まで辿り着ける状況も一方である。
 これは、世界に売り込むことを前提に最初から作っている映画と、国内市場でのみ売れることをまずは目指している映画の、緊張感の差と言える。ポリティカルコレクトネスのデバッグの差というか。しかしそれは、「日本人はどうせここが雑でも気にしないだろ」と製作側が観客を舐めていることに他ならないし、舐めても許される社会になっているということだ。黒人を登場させないとぶっ叩かれてヤバイ、みたいな緊張感や圧力がある社会と、そうでない社会とだと、どうしても「ちゃんとやろうぜ」からの発展形として「先取りしてやるぜ」というインセンティブのかかり方に差は出てくるのかもしれない。
 それで考えるとビリーの自閉症の描き方はものすごく雑で(学校で「物を丁寧に揃えて並べる」って「自閉症なんですよ」という説明みたいな場面があるのに、自宅の作業場は乱雑だったりするし、途中から自閉傾向が消滅したかのような振舞いになる)それでいいのか? という気にはなるから、別にアメリカ映画だからって全面的にデバッグが行き届いてるわけでもない。


 見終わってからそんなことに気づくけれど、上映中はただただ軽やかで、みんな立ち止まらないしお話が猛烈にテキパキ進んで楽しい映画、パワーレンジャー