やしお

ふつうの会社員の日記です。

オリンピックや医大で見せられる部分最適のこと

 人が死ぬレベルで暑いけどオリンピックはどうするの、という話で「打ち水をする」「マラソンを早目の時間にやる」といった案はせいぜい部分最適でしかなく(それすら怪しく)、全体最適なら「10月に開催する」(あるいは開催しない……)でしかない。
 女性の医者は結婚や出産を機に退職してしまう、という話で「男性の医者を増やすために医大の入試で女性だけ点数を下げる」は医大側の狭い損得から導かれる解でしかなく、全体最適なら「医者や女性の(性差別に基づく)労働環境・構造を改善させる」でしかない。


 誰だって真っ先に思いつく全体最適の解が踏みにじられながら、対症療法が「必要悪」「妙案」として本当に実行される姿を見せられると、たとえそれが自身の利害に直結する話でなかったとしても精神が疲弊する。誰だって自分たちが生きている世界で「まとも」がきちんと機能するところを見たい。部分最適によってひずみやしわ寄せが発生して苦しむ人がいる、そんな不条理な話がまかり通るのを見るのはしんどい。
 もう週に一日、テレビもネットもネコチャンの映像を流し続けるだけの日とか作らないとみんな精神がもたない。


 昨日、高野連の事務局長がインタビューで「こんなに暑いけど甲子園どうするの?」という話に「ベンチの冷房を強くする」「観客席もなんとかしたい」「でもこの時期以外の開催は無理」「甲子園からドームにするとかは調整だってあるし難しい、球児も『聖地』でやりたいだろうし」といった回答をしていた。
 そこをイニシアティブ取って全体最適の解に向かって進めるのがあなた方の立場でしょうよ、という気持ちにはなる。けれど本人の感覚としては、スポンサーその他関係者・関係団体との兼ね合いまで含めると高野連の事務局長でどうにかできる話を超えているし、その立場にはない、ということかもしれない。
 時々そうした立場を超えて関係者や関係団体を巻き込んで全体最適へと進めてくれるパワフルな人が登場することもある。実際にそうした人達のおかげで状況が改善されたりする。しかしその登場はほとんど運に近い。


 日本の気候が変動したので従来の慣習がマッチしなくなってきたとか、経済成長がなくまた差別に対する認識が改善された結果、性別に基づく役割の押付けが不適合になっている、といった社会全体で方針を決めて進まざるを得ない話を調整するのは、政治的な解決だろうと思う。そうした「全員で一斉に改善させないと変えられないこと」を主導するために政治家は本来いるはずだろうという気もする。
 それは強権的に政府が命令するというより、多少時間的・手間的なコストがかかっても、例えば立法過程を通して世論を喚起しながら議論を重ねて、課題を洗い出しながら全体最適に向かって進めていくといったプロセスになるのかもしれない。運良く現場に近い人から誰か立場を超えて解決してくれる人が現れるまで待つという話ではない。


 恐らく小選挙区制度への移行に伴って政権党内部で中央集権化が進んだ状況で、そうしたイニシアティブを取って進めること自体は旧来よりやり易くなっているのだと思う。ただ「権力構造を維持する」「歴史に分かりやすく名を残したい」といった目的に対しては寄与しないため、そうした目的のみを抱くタイプの政権では無視されてしまう。
 政治家自身も「我々はそもそもそういう立場にない」「それは民間が自主的に改善していく話だ」「外交・安全保障・経済だけやればいい」と信じ込んでいる人も少なくなかったりするのかもしれない。


 これは「だからアベ政治を許すな」みたいな話ではなくて、なに政権であってもそもそも自然状態では構造的に政権にそうした課題を解決するインセンティブが働かないのなら、「あなた方がやらずに誰がやるのか」と騒ぎ立てるしかないという話だ。民主主義的なプロセスは別に多数決の原理に基づく選挙のみに一切が付託されるわけではなく、デモその他によっても担われる。


 こうした時事的な話はあまりダイアリーに書きたくない、と思っているけど、見てしまうと「あんまりにもあんまりだ」という気持ちが募るのは止められないし、一旦書いてしまった方が精神衛生にいいかと思って……