やしお

ふつうの会社員の日記です。

国政選挙で勝つということ

 自民党総裁選と衆院選を控えて、最大野党の立憲民主党も政策アピールに入っていて、その政策が刺さらない、粒度が変、センスがない、安保も経済もない、と左右両サイドからネットで叩かれる光景をよく見かけて、ちょっと思ったことのメモ。


選挙戦

 「選挙で勝つ」には「票をたくさん集める」が必要で、その票には大きく分けて、投票時点での世の中の空気感や、党や候補者のイメージに左右されて入る浮動票と、特定の党や個人に固定的に投票される組織票とがある。投票率が高ければ浮動票の比率も高まり「風が吹く」と言われるような大勝/大敗が起こり得るし、低ければ組織票の比重が大きくなる。
 浮動票と組織票には、それぞれ党自体の方針で確保されるものと、候補者・国会議員や地方組織・地方議員の働きによるものとがある。



 この4つのエリアそれぞれで対応が必要になる。(ただ各エリアで確保できても調和が取れていない/方針がちぐはぐだと政権交代後に内側からその矛盾によって瓦解するので難しい。)


【①一般向けイメージ形成】細々した政策が出される状況

 9月に入って立憲民主党が細々した政策を小出しにしている。①エリア(政策一般向け)でのイメージ形成に対して有効でない見せ方なのでがっかりされたり馬鹿にされたりする。
 ただこれは、

  • 衆院選が11月初旬の見込みで時期がやや遠い
  • しかし自民党が総裁選で盛り上がる中で、一定程度はニュースに出続けないと完全に埋没してしまう
  • 一方で大きな政策を今発表して衆院選前に話題がなくなると困る

といった状況でそうしているので、やいのやいの言うのは10月に入ってからでいいんじゃないかと思っている。(それでフタを開けたら何も出てこなくてズコーみたいなこともあり得るかもしれないし。)


【①一般向けイメージ形成】フリをして安心して選んでもらう

 「政権交代で選んでもらう」には「任せても大丈夫そう」のイメージが必要なんだとすると、それには「まるでもう政権を取っているかのように振舞う」がある程度必要になってくる。


 その昔、紡織会社だったカネボウが化粧品業界に新規参入した時、業界トップの資生堂が口紅のキャンペーンをやればカネボウも口紅のキャンペーンをやって、資生堂がアイシャドウをやればカネボウもやる、そうすると現実の売上が10対1くらいでも、消費者からは10対10に見える、それで選んでもらえるようになって、現実の売上も10対3とか4にまでなってくる、という話を思い出した。(佐藤雅彦が著書で紹介していたと記憶している。)
 最近KFCが「月見といえばケンタッキー」と月見サンドのCMをしていて、見るたびに(そんなわけないだろ)とちょっと笑ってしまう。月見バーガーマクドナルドは30年前、KFCは5年前から始めている。どう考えても「月見といえばマック」でしかない。ずいぶん厚かましいけど、言ったもん勝ちだからしょうがないね。


 例えば会社でも、課長になる人は、なる前からある程度課長みたいな振る舞いをしていたりする。平社員なら係長、係長なら課長、課長なら部長と、一つ上位のフリをそこそこしていると、「じゃあ次は誰を選ぼうか」となった時に、そこに「もう準備ができてる人」がいれば自然と選びやすい。判断を下したり意見を出したり(越権にならない程度に)して「自分が上位役職の立場にいたらこうする」が示せていて、それが周囲が納得できるものなら、機会があった時に選びやすい。


【①一般向けイメージ形成】フリをすることの下手さ

 そういう点だと、立憲民主党やその所属議員による対外的な発信は、かなり「センスがない」ように見えてしまう。
 つい最近も「ワクチン2回接種が50%超えた」ニュースに対して蓮舫代表代行が

『2回目接種が全国民の5割』との見出しに違和感。
64歳以下で見ると東京は33%、北海道20%、京都22%、大坂24%と2割から3割。
菅総理もワクチン接種は進んでるとよく言われますが、未だ予約も取れない方々への接種をより進めるべきです。

とツイートしていた。
  https://twitter.com/renho_sha/status/1437582963105955845


 「与党の政策に批判を加えるのが野党の仕事」というのはその通りだし、その仕事に忠実とも言えるけれど、「為政者として選んでもらう」という意味だと、任せて安心のイメージからは遠い。実質的な内容は同じでも、「5割達成できた。しかし若年層で予約が取りづらい状況がまだある、何とかする(こうする)」という言い方をしていかないとダメなんだろうと思う。
 その意味では国民民主党の玉木代表は、昨年のコロナ禍来「こうする」という発信を大量にしていて、それに近いことをしている。


 「野党の立場でやれる権限ないだろ」とツッコむ人達が出てきても、結局イメージ形成は最低限必要なこととしてやっていかないとどうしようもない。「カネボウなんか資生堂の10分の1だろ」とか「お前は課長じゃねえだろ」とか言われたり思われたりしても、イメージを与えないと選んでももらえない。
 「野党は批判が仕事だから」「我々は後発だから」「自分は平社員だから」と思って、「誠実に」その役割の中に留まっていると、選ぶ側も不安で選べない。(一概にそれが悪いということはなくて、その立場に留まるためにそうする選択肢もある。)


【①一般向けイメージ形成】社会党のジレンマ

 一方でそれをやろうとすると、社会党のジレンマみたいなものがあるのかもしれない。
 55年体制下でずっと与党だった自民党に対して、社会党は「政権批判枠」で一定の支持を集めてずっと最大野党として存在していた。社会党の政治家にとっても安定的な地位だったという。55年体制が崩壊し、自民党と連立を組んで与党入りすると、政策を現実的なものへ転換せざるを得なくなり、連立から抜けて野党に戻った後(名称は社民党に)は支持を失って、今では国会議員がわずか2名(衆参各1名)になってしまった。(その主要因は①一般向け政策だけでなく③利益団体向け政策に関わる。)


 「大衆迎合的・権威主義的でないこと」「体制批判的であること」によって支持を集めている政党は、耳目を集めたり現実的にやろうとする中で、そのアイデンティティを一部失う。その「変節」を自他ともに許せないと、そこに縛られてしまう。


 どうしたって「国民が一人一票持って選挙で選ぶ」システムになっていて、そのほとんどの人がイメージに従って判断する以上は、そのイメージ形成、一種のポピュリズムに近いことをベースで(与野党関係なくどの政党も)やらないと、そもそもスタートラインに立てない。
 でもそのポピュリズムへの嫌悪感や反発心がどうしても拭えなかったり、そうすることで既存支持層を失うことへの恐怖があると、「あたかも政権を取っているかのように振舞う」ができず、党もそのメンバーも「フリをするのが下手」になるのかもしれない。


【①一般向けイメージ形成】民主主義の対立

 水島治郎『ポピュリズムとは何か』に、民主主義の中では「間接民主主義」と「直接民主主義」の対立が内在している、という指摘があってなるほどと思った。エリートと民衆の対立、と言い換えることもできるかもしれない。


 主権者(国民)が代表者(議員)を選んで政治を委託する間接民主主義と、代表者を介さず直接意思を反映させる直接民主主義がある。政治システムとしては前者が採用されていても、それに対して「我々の意思が反映されていない」という不満はどうしても発生する。そこでそれをダイレクトに掬い上げるような人物(政治家)が出てきて熱狂的に支持されたりする。それをやるとポピュリズムと呼ばれて非難される。立憲主義の制約を受け入れるスタンスと、それを否定して直接大衆の意思を反映させるスタンスの対立がある。


 「大衆ウケすること」と「本当にやるべきこと」が乖離するというのはよくある。それは「現実は複雑だけど、その複雑さを理解して耐えられる人は少ない」のが根本にあるからかもしれない。
 例えば安全保障にしても、たいがい隣国はお互いを嫌い合っているので、ナショナリズムを煽った方が大衆ウケはいい。しかし現実には、相手を刺激せず、相手に口実を与えず、相手の挑発には細かく必要なリアクションを返し続ける、という地味で忍耐強いアクションが政治的には必要で、それは大概「弱腰」「無意味」と非難される。


 こうした乖離がある中で、「本当に必要なこと」をないがしろにして、「大衆ウケすること」を選んで、そのことで高い支持を集めると、ポピュリズムとして知識人層からは非難される。
 この非難は、それを支持した人々(大衆)への非難に転化して、一種の啓蒙主義・エリート主義に陥りがちになる。「〇〇党を支持する愚かな連中のせいで」という言い方はネットでもよく見かける。


 例えばタイでも、農村部を大票田にしたポピュリズム政権(タクシン派)が生まれ、都市部の知識層がそれを否定する、という構図があった。それでタクシン派を排除する形で軍部のクーデターが起きた時も、知識層は積極的に否定しなかった。しかしその結果、軍部と王室が結びついた体制が定着して民主制が失われる結果になって、かえって知識層の望まぬ状況に陥ってしまった。
  タイの王政と軍政 - やしお


 民主主義を擁護しようとして民主主義の否定になってしまう、というようなアンビバレントな構造が割と一般的に生じてしまう。ただそれは、一見矛盾しているようでも、間接民主主義を擁護しようとして直接民主主義の否定になってしまう、という形で弁別すれば割と理解しやすいし、どうするのが良いのか分かりやすいのだと思う。


【①一般向けイメージ形成】「民度が低い」という切り捨て方

 以前、宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』を読んだ時に、「IQは100程度ないと今の社会では生き辛い」という言及がとても印象に残っている。IQの定義上、100が正規分布の平均値なので、「半数の人が実はちょっと生き辛い」という意味になる。100が言い過ぎでも、全人口の2割弱にあたるIQ70~85は「境界知能」とされ、安定的に職業につくことが難しかったり、困難を抱えていても障害と認められず十分な支援も受けられず、生き辛くなっているという。


 複雑な現実やシステムに対して、正確に理解せずに受入れている人はものすごくたくさんいる。IQの高低に限らず、興味や関心の差もある。自分もmRNAワクチンの機序も正確に知らないまま接種したし、税制も詳しく知らないけど税金を払っている。あまりに現実が複雑で細分化されているので知るにも限度がある。(だから専門家や報道機関が平易かつ正確に広く啓蒙していく、という活動が必要になってくる。)
 現実としてそうした全員で生きていて、その上で「一人一票」のコンセプトでやっているのに、そこをバッサリ切り捨てるのはどうなの? と思っている。


 先日「吉村大阪府知事のコロナ対策を『評価する』が大阪市で8割」というニュースに、「大阪市民がダメなんだということを感じさせてくれる」「大阪市民はちょろい」「頭がおかしい」「集団催眠」といったはてなブックマークのコメントが散見された。
 吉村府知事にしても小池都知事にしても、「やってる雰囲気を見せる」「メディアに露出する」といった手法で、現実の施策のまずさを糊塗する、ポピュリスト的な政治家だとは思う。為政者に対して「実際にちゃんとやれ」と批判する、あるいはメディアに対して「まずい面も報じろ」と批判するのはわかるけれど、そうした政治家が選ばれた現実に対して「○○市民の民度が低い」と切り捨てるのは、随分ナイーブだと思う。むしろ「ポピュリストに負けないように他の政治家・政党もイメージ戦略をちゃんとやれ」と言う方が建設的な気がする。
 「馬鹿な人達のせい」で片付けるのは、自分はそうではない側にいると自分を慰める以上の効果はないと思う。


【①一般向けイメージ形成】ポピュリズムとPR

 高木徹『国際メディア情報戦』ではアメリカ大統領選を始めとして、海外の政治家や政治的プレーヤーがいかに国内・国際世論の形成に腐心しているかや、そのためのプロとしてPR会社がどのように働いているのかを具体的に見せてくれてとても面白かった。
 そこでは政治家がイメージ形成をするのは当然だという前提がある。中身を伴わずにイメージ形成が自己目的化すれば批判されるとしても、イメージ形成そのものは最低限やるのが当然で、その面を怠って負けて「でも言い分は正しいから」と慰めていては意味がない。
 イメージ形成は、ポピュリズムに近い面もあり不誠実に思われたとしても、現実には中身ではなくイメージで判断する有権者が多くいて、その存在を非難しないという態度を取るのなら、お互いが徹底してやっていくしかないのだろう。


 ちなみに『国際メディア情報戦』では、日本で(広告代理店ではなく)PR会社が機能しないのは、マスメディアが成熟していないからだという指摘がされていた。PRは、世の中を動かすために、メディアや政策決定者などとパイプを形成して納得させ働きかけていく営みになる。それは大前提として「報道の自由」や「経営と編集の分離」といった原則がある程度働いていなければ成り立たないゲームになっている。
 日本では、取材してもらう引き換えに広告(お金)を出す、政治家の会見では質問内容を事前に出させて不意打ちした記者やメディアを罰として排除する、といった手法でメディアが容易にコントロールできてしまうので、そもそもPRという面倒な手法を取る必要がないという。
 日本の政治家がイメージ形成の面で未熟なのは、報道機関の未成熟によるところも大きい。


【②地元向けイメージ形成】川上戦略

 辻立ち、選挙カーで名前連呼、有権者と握手、地元イベントへの顔出し、そうした選挙の常套手段は「馬鹿馬鹿しい」と言われがちでも、「名前に聞き覚えがあるから」「頑張ってるから」「気にかけてくれたから」で投票する人達がそれなりにいるという現実がある。
 マスメディアを上手く使って世論形成するタイプのポピュリズムとは、規模やターゲットとする対象が違っても、実際の内容ではなくイメージを生み出すという意味では地続きになっている。
 政策の内容で選ばれるのが正しいんだ、という理想論一辺倒でイメージ形成を怠った結果、負けたのでは意味がない。ベースとしてどの政党でもどの政治家でもそこを疎かにすることはできない。(そうは言っても、もう21世紀も5分の1が過ぎたし、もっとスマートなやり方が開発されてほしいと思うけど、人口の3割が高齢者の国では難しいのかもしれない。)


 旧民主党は、この種の地元でのイメージ形成も苦手で、都市部の浮動層だのみ、「風」だのみだった。2003年に小沢一郎自由党と合併し、2006年から小沢が代表になってから、地方重視の「川上戦略」が持ち込まれた。『民主党政権 失敗の検証』の中で、トヨタ労連出身で経産相を務めた元参院議員の直嶋正行が、以下のように振り返っていた。

「いなかでの会話の伝達速度はすごい。特に市街地から遠い農村地帯は、娯楽もなく高齢者が多い地縁血縁の社会なので、そこまで行って演説すると、感動して離れて住む息子・娘夫婦や知り合いに即座に電話して、あっという聞に伝播する」


 実は参院選一票の格差衆院選よりも大きい、という特性がある。参院は、全国ひとまとめの比例代表都道府県ごとの選挙区、という仕組みで、当時の選挙区選出は146人、半分ずつの改選なので1回の選挙で73人、47都道府県に1名ずつ振り分けた残りの26人を人口の多い都道府県に割り振っても、人口の大きさと議員の人数が比例するほどの割り振りにはどうやってもできない。
 人口最小の鳥取県で1人、最大の東京都で5人選出でも、人口の差が25倍程度あり、一票の格差が5倍あった(衆院は最大2倍程度)。(その後、鳥取と島根、徳島と高知がひとつの区にまとめられたり、東京などの定数が増やされたりして多少是正されたが3倍ほどある。)
 国会の中は多数決なので「人口の少ない1人区の県」を取りに行くのが効率がいい。それが小沢一郎の選挙戦略のひとつだった。
 参院選コスパのいい1人区をしっかり取ってねじれ国会にして、予算案や法案がスムーズに通らないようにして、首相退陣に追い込んだり「混乱を収束できず政権運営できない与党」のイメージを創り出して、衆院選で勝って政権交代、という流れになっていく。


 2007年参院選は大勝したが、次の2010年の参院選では、小沢が政治資金疑惑で幹事長を辞任していたこともあり、地方重視の「川上戦略」が失われた。小沢は全選挙区の過去の投票率政党支持率世論調査の結果など細かくまとめたデータを秘書のカバンに常備させていた(この辺は小選挙区制の導入を推進した張本人で、最年少で自民党幹事長を務めた人という感じ)が、そのノウハウやデータは党内に開示されなかったという。


 現在79歳で立憲民主党の所属議員である小沢一郎は、今年6月頃から総選挙に向けて特に地盤の弱い新人候補などへの指導を進めていたと報道された。

小沢氏は6月に『新人ドブ板選挙指導』に動き出していた。全国行脚は福岡、長崎、鹿児島、大阪、山梨…。行く先々で唱えるのは『小沢選挙7カ条』だ。
政権奪取のラストチャンス
「7つとは、①川上(山間)から川下(街)へ ②1日50カ所辻立ち ③ポスターを3000~5000枚貼る ④10人ほどのミニ集会開催 ⑤路地に入りやすいよう選挙カーは小型車にする――等々です。コロナで1対1、ミニ集会はなかなかできにくいが、とにかく『できることをスグやる』と指導する。例えば、マスクなど対策を万全にしての辻立ちなど、『小沢選挙7カ条』もコロナ版に多少改訂しています」(立憲民主党議員)

  小沢一郎「最後のドブ板選挙」2021夏…与野党逆転へ全国行脚


 そうした動きがどの程度奏功するのかはよく分からない。


【③利益団体向け政策】組織票

 イメージ形成は、ターゲットが都市部か地方かという違いはあっても、基本的には浮動票を取り込むための営みになる。選挙では当然、組織票も取り込んでいかないと(特に投票率が低い場合)勝てない。
 こうした組織票固めという点でも、旧民主党内で小沢一郎が大きな役割を果たした様子が『民主党政権 失敗の検証』では紹介されている。
 小泉政権が改革路線で都市部浮動層を取り込んだ一方、自民党の従来の支持基盤だった建設業界・郵便局長会・農協など地方に根付いた利益団体を動揺させた。小沢はそこを取りに行ったことで2007年参院選を大勝に導いたが、もともとの民主党の支持層だった都市浮動層向けの政策とは逆方向なので、党の中で矛盾を抱える要因にもなったという。(①と③で矛盾する状態)


 立憲民主党の最大の支持母体は連合だが、共産党との連携や「原発ゼロ」政策への反発から連合傘下の産別が国民民主党支持に回って分裂していたり、そもそも連合の組織票としての実力(実数)が共産党より実は劣っているといった指摘もあったりする。その辺、もう連合は切っていく方向に行くのか、本格的に自民党公明党との関係・役割分担に近い形で立憲民主党共産党との関係を構築していくのか、といったグランドデザインや大きな方針はよく分からない。どのくらい党本部が組織票をグリップできている状況なのかも外側からはよく分からないが、報道される内容からはまだ流動的な状況のよう。


【④地方組織】

 地方議員が、自身の握っている後援会や団体に、国政選挙で自党の候補者へ入れてもらうようお願いすることが、個別の選挙区での組織票になってくる。国政選挙で候補者を下支えするのは地方議員だとして、立憲民主党はようやく今月に入って全ての都道府県連が整ったという状況。


 ↓の記事は、地方議員から見た組織票について解説するもので、とても面白かった。国政選挙で必死に汗をかいて国会議員・候補者を支えるだけのインセンティブが、野党の地方議員にとって自民・公明・共産などに比べると働いていない、そういう組織設計になっていない、という指摘がされている。
  自民党の圧倒的組織票とは
 

選挙制度と政府の規律

 衆院選小選挙区制(比例代表もあるけど)なので、政府・与党・官僚に規律を持たせるには結局「政権交代があるかも」という恐れを抱かせる以外にはない。


 中選挙区制では1つの選挙区から2人以上の議員を選ぶ。1つの党(自民党)で過半数を取ろうとすると当然、1つの選挙区に自党の候補者を複数立てないといけない。同じ党の候補者同士が戦うので「私は○○党の候補者」というアピールは意味をなさなくなってくる。今は選挙のたびに各党がマニフェストを作って出すけど、当時は党の公約がほとんど形骸化していたのはここに起因する。候補者は独自色が必要でアピールポイントを磨かないといけないので、政策や政治力を高めるようなインセンティブが働き、「昔の政治家の方が尖ってた」印象があるとしたら、これもそこに起因する。
 各候補者個人を支援する組織が党内に必要となり、それが派閥になる。たとえば旧群馬3区は福田赳夫中曽根康弘小渕恵三と首相経験者が揃った激戦区で(上州戦争)、それぞれ福田→清和会、中曽根→政科研、小渕→経世会(平成研)と派閥が異なっていた。党の中で派閥が存在し、自民党総裁=首相に隙があれば公然と「○○おろし」が始まる。そうした党内党による緊張感が発生する。


 一方で小選挙区制では、1つの選挙区で1人を選ぶので、1つの党からは1人の候補者しか出さない(県連と党本部が対立して調整できなかったなどの事情がなければ)。また全ての政党それぞれで候補者を出すと票の食い合いが起こるので、与党と野党それぞれで候補者の1本化が図られる。候補者個人の戦いというより、「与党と野党の戦い」になる。小選挙区制が、二大政党制になる、政権選択になる、という理屈がここにある。(比例代表もあるため完全な二大政党への集約にはならない。)
 候補者にとって「党の公認を得る」ことが何より重要になり、派閥より党執行部(党首)に権力が集中していく。
※そのあたりの基本的なシステムの解説は、飯尾潤『日本の統治構造』が分かりやすい。


 しかし現実には、旧民主党が下野した後、「野党には政権担当能力はなく政治が混乱する」という忌避感を生んで、世論調査でも選挙結果でも政権交代の可能性が感じられず、政府与党の政治家も官僚も弛緩してしまった。
 国家公務員が「全体の奉仕者」ではなく権力者(与党とその友好関係にある個人や団体)の奉仕者に成り下がってしまうというのは、国家にとっても国民にとっても不幸でしかないので、政権交代が起きて「たまに仕える政治家が変わる」状態を高級官僚も当たり前のこととして体験してもらわないとどうしようもない。




 というわけで、与党政治家と官僚に規律がないのは国民の不幸なので、自分自身の投票行動としては、政権交代が起こる方向に向かっている。立民枝野代表もその種の野党第一党としての役割は自覚的で発言も誠実だけど、この動機が一般化されるとは思われない。


 立憲民主党の本当の内情までは分からないし、11月までにどこまでできるのかは見てみないと分からない。ただ現時点で外側からは4象限とも準備が十分なようにはあまり見えない。(細かい調整はあっても)準備のできた状態を維持している与党に比較すると心許ない。「口では政権交代を唱えつつ、今回は体制構築までが目標」なんじゃないかと思えてくる。
 せめて①の一般向けイメージ形成くらいは、PRの専門家のトレーニングを受けるなりして(特に党幹部の個々人は)最初からできていてほしかった。根本的にお金がないのがいけないのかもしれない。お金がなければ人手も賄えず時間もなくなり準備もままならない。それでも、ちゃんとやってほしい気持ちある。