しばらく前にNHKで結婚相談所のマッチングにAIを導入する取り組みを紹介していた。相手に求める条件が高かったり多かったりして紹介までなかなか辿り着かなかった会員でも見合いが成立しているといった内容だった。登録している条件とは合致していない相手を、AIが理由は分からないが紹介してくる。騙されたと思ってとりあえず会ってみて、上手くそのまま交際や結婚に発展するという。
テレビではもちろん「AIの利活用」という文脈でこの話を紹介していたが、むしろかつての「近所の・親戚の世話焼きなおばさん・おじさん」が姿を変えて再登場しているという視点の方が理解しやすいかもしれない。AIもおばさん・おじさんも「この二人ならマッチングする」という判断を何かしら下している。しかしその判断の精度や妥当性が高いために上手くマッチングするというより、「自分で選んだ相手」と「勝手に選ばれた相手」との間にそもそも受容の仕方の大きな差があるために上手くいきやすいという側面があるのではないかと思っている。
「年収800万円以上の人」「なるべく若い人」といったパラメーターで他人を選んだ場合、「より条件の良い人がいるかもしれない」「自分は損な選択をしているかもしれない」という損得勘定にいつまでも苛まれる。一方で例えば学校の友人や職場の同僚、親や兄弟といった自分で選んだわけではない人については、その人を別の(よりパラメーターの良い)誰かと交代させようという発想自体が湧きにくい。その人が持つ「○○が苦手である」「こういう仕事をしている」といった属性や条件と、自分の条件とをすり合わせて現実的に解決していこうとする。
条件が先行しそれに付随して他者が存在していると見なすか、まず他者が存在しそれに付随して条件が存在していると見なすかという見方の違いになっている。それは「たくさんいる中の一人」として見ることと「この人がいる」という事実を前提する地点から見ることの違いであり、他者を手段として見るか目的として見るかの違いと言い換えられるかもしれない。
可能性の多寡の問題として、「最初から自分の求める条件と合致している人」の数と「条件と合致してはいないがお互いにすり合わせていける人」の数では後者の方が多い。AIなりおばさん・おじさんなりが前者を見つけるのではなく後者を紹介しているから上手くいくのだと考えれば分かる気がする。
しかし結婚相談所で条件を設定して相手を選ぼうとするとどうしても前者を見つけようとしてしまう。それは利用者が「がめつい人だから」というより、どんな人でもたくさんの商品があって条件が設定できて「さあご自分でお選び下さい」となればどうしても一番いいものを選ぼうとしてしまうし、もう少し待てば新商品が入荷するかもしれないと考えてしまう。
この時AI(おばさん・おじさん)を介すことで前者から後者へ視点がシフトする。AIの精度が高いからいい相手を見つけられているというより、この対象のシフトが自然と起こる構造になっているから上手くいくのではないかとちょっと想像している。
他人をパラメーターの良し悪しで見て「自分は妥協してしまったかもしれない」という不満を抱え続けるのはつらい。あるいは「条件に合う人がいない」といつまでも探し続けるのもつらい。そうしたつらさを「よく分からないけどAIが『こいつがおすすめ』と選んでくれた人だから」という理由で解消させてくれるのならいいかもしれない。
ところで「相手をパラメーターのみで見ようとする」という態度がつらくなることと裏腹に、「相手を『この人がいる』という事実を前提させて見ようとする」という態度もつらくなることがある。例えば「家族だから」「友人だから」とDVや金銭トラブルに絡め取られて逃げられなくなるといった状況がある。
そう考えると「他者を手段として見ること」と「目的として見ること」は一方が否定されて他方が肯定されるという命題ではなく、両方同時に見るようなものだ。「たくさんいる中の一人」と見ることと「この人がいる」と見ることは同時にそのように見るべきもので、それを「一貫性がない」「態度がぶれている」といって否定し、どちらかでしか見ないように強制するとつらさしか生まない。他人がそう強制する場合だけでなく、自分自身が自分に強制して苦しくなってしまう場合もあるから、解放しないといけない。