やしお

ふつうの会社員の日記です。

たった211ヶ月でTOEICスコア500アップ

 よく「3か月でTOEIC 〇〇点アップ」といった広告を見かける。羨ましいけど自分は残念ながら短期間での華々しいスコアアップは全然なくて、17年もだらだらかけて結果的に500点強上がって900を超えた。長すぎる。長すぎるけれど、めちゃくちゃ頑張れるわけじゃないほとんどの人にとっては、そんなもんかもしれないとも思っている。
 普遍的な学習体系にはなり得ないけど、個人的なメモを残しておこうと思って。


TOEIC スコアと実力

 初めての受験が2004年1月(18歳)で425、最近の受験が2021年8月(35歳)で960だった。それ以前の受験結果や模試の結果を考えると、「960」はマークシートの運で上振れした結果で、実力は900前半程度だと思っている。


 最初の400点台の頃は試験が本当に苦痛だった。ほぼ何言ってるか分からん話を2時間集中して聞く・読むのは苦しみでしかない。たまに分かる言葉の意味をつなぎ合わせて架空のストーリーを想像して解答する営み。今は9割分かるくらいで、疲れはしても苦しくはない。改めて振り返ると随分できるようになったとは思う。


 学生の頃は「900以上」に漠然としたあこがれがあった。いつか取れるようになれたらと思っていたのが実際に取れてみると、嬉しいというより不思議な気持ちになった。
 きっと不自由なく英語が使えるんだと曖昧に想像していたけれど、実際に来てみると程遠かった。完全に字幕に頼らずに映画を見るのは難しいし、自動翻訳を参照したりするし、喋れば語彙も文法もかなり制限される。「母国語との能力差」を痛感する。
 よく「900超えてスタート地点」と言われるが、本当にその通りだと思う。「何とか実用に堪えるレベル」「大きな苦痛を感じなくなるレベル」がこの辺だった。母国語との力量差がはっきり分かる、「自分は分かってないんだと分かるようになる」(無知の知)がこの水準なのかもしれない。


動機

 17年もやっているとモチベーションや動機にも変遷があった。
 ただ「漠然としたあこがれ」、英語できるのかっこいい、羨ましいみたいな気持ちは、バックグラウンドではあまり変わらない。それからもっとプリミティブな、母国語ではない言語を使う気持ち良さ、自分じゃない自分になる感覚の快楽、みたいなものもある。それはドイツ語や中国語を少しやった時もそうだった。


 学生の時はそもそも進級・進学に必要なのでやっていた。
 高専4年次に強制受験したのがTOEICの最初だった。スコア425はさして優秀ではないが、当時の「英語が得意とは言えない高専生学年全員」の中だと相対的にいい点数だった。同級生に「すごいね」と言われると「すごいんだ」と思うようになる。井の中の蛙大海を知らずそのものだとしても、学生は自尊心の基礎工事が脆弱なので、「できる自分」のイメージにしがみつこうとして頑張る。そのおかげで「進級に必要な程度」以上に勉強する動機になった。


 就職前の時点(最初の受験から3年後)で715だった。これも取り立てて優秀ではないけれど、10年以上前のメーカーの製造よりの職場では相対的に「英語ができる人」扱いになった。そういう設定ができると、それを崩さないように頑張ろうと動機になり得た。
 「英語ができる人」の設定でいると英語が必要そうな仕事が回ってきたりする。海外の外注先を担当したり出張したりした。そうすると現実問題としてもう少しできないと困るという動機が発生して、バーチャルだった動機が現実的になってきた。


ほどほどに頑張れるけど、すごくは頑張れない

 そもそも興味の第1位は、生きてきた期間を通してほとんど英語学習ではない。「17年」と言っても、英語学習を何もしていない期間も多い。切迫感のない薄い動機しかないのでしょうがない。
 語学学習は一定期間に高い圧力をかけてやるのが効果的かと思う。外務省の語学研修・在外研修や、海外の大学・大学院在学など、大きな必要性に迫られながら高い水準を要求される状態で数年間過ごすのが良いと思う。しかし興味も必要性もそこまでない人間は、ぼちぼちやるほかない。


 ふと意欲が湧いて新しい教材や学習に取り組んでも、毎日数時間費やしたり数年続けたりはできない。しかし三日坊主にもならず、3ヶ月くらいは継続できる。「自分がやれる程度はそのくらい」が経験的に分かったのは、英語学習を続けてよかったことの一つかもしれない。「そこそこ努力できる、でもめちゃくちゃは努力できない」という自分の程度がよく分かった。
 自分が頑張れる程度が分かると、勉強の見積りができる。


学習:TOEIC

 「TOEICのスコアを上げる」だけが目的なら、模試を数多く丁寧に解くのが結局は一番効果的だった。他のどんな試験でも同じだと思う。
 回答時間を気にせず、一問を何度も聞き直し/読み直して真剣に考えた上で回答を選んで、それから解説を読んで納得する、という作業を繰り返す。本来のスピード通りにやるのは、試験直前に数回分模試を解いて時間間隔を思い出すくらい。本番の慌ただしい作業スピードでやるより、普段は丁寧にやった方が結果的にはスピードを上げても対応できるようになる気がしている。
 今は模試を多く収録したスマホ用アプリもあり、「環境を用意する(机にノートや問題集を広げる)」ハードルもなくなってありがたい。
 ただしこれは「基礎的な文法と語彙が身についていること」が前提になっている。解説を読んで意味がわからないのは、模試による学習が可能な水準にない。


 TOEICは英語能力総体に対して、極めて限定的な範囲しか見ていない。シチュエーションひとつ取っても、「旅行中の家族」「恋人の愚痴を言い合う友人」「激しく非難し合うヤクザ」などは出てこない。文化依存的な慣用句もネットミームも出てこない。TOEICで高スコアが取れても、映画やドラマが字幕なしで見られるようにはならないのは、こうしたスコープの違いにもよる。
 ただ「国際的な意思伝達のための英語の試験」(Test of English for International Communication)の名前には忠実な気がしている。「必ずしも英語を母国語とするわけではない人(例えばアジア人)同士で、何とか意思を伝えるための言語能力」という目的に対しては、TOEIC用の勉強も割と有効ではないかと感じている。


学習:現在

 週2でフィリピンにいる先生とオンラインで30~60分英語でお喋りするのと、平日の会社往復の計40分徒歩の時間や入浴中にNHK Worldのポッドキャストのニュースを聞くくらいしか今はしていない。
 英会話の前後に予復習したり、ポッドキャストシャドーイングまでしっかりやれば学習効果が上がると知っていても、ハードルが上がったり面倒臭さが出てくると絶対に続かないとも知っているのでしょうがない。能力の維持には役立っているが、向上にはなっていないという実感がある。


 フィリピンの先生は、お互いの暮らしなどの雑談をしているだけで、むしろ相手の状況や生活そのものへの興味によって持続できている。
 PCもスマホも持ってるし、映画なんかも同じものを見ていて話ができたりする一方で、冷蔵庫も電子レンジも使ったことがなく、散髪も数十円だと聞くと、同時代に生きていても大きく異なる暮らしがあるんだとつくづく思う。
 それで英語学習というより、フィリピンの歴史や暮らしや文化への興味が高まって↓のエントリを書いたりもしたのだった。
  フィリピンの事情あれこれ - やしお


 NHK Worldは日本のニュースの割合も多く、背景がある程度分かっている話なので聞きやすい。あと例えば「緊急事態宣言」とか「内閣官房長官」とか英語でそういう言い方するのねと思ってちょっと面白い。福島第一原発の状況も、国内のニュースで見かけなくなった後もかなり長いこと伝えていて、国内外の関心のズレも少し見えたりすることがある。相撲も本場所中はたまに結果が紹介されて、実況で他の力士は四股名そのままなのになぜか翔猿関だけ「トビザル、フライングモンキー」と呼ばれていて謎だった。
 ニュース自体がコンテンツとして関心を持続させやすい上に、そうしたあたりが関心のプラスに働いて、続けやすいと感じている。


学習:以前

 長くやっている中で、その時自分に不足していると感じたものを行き当りばったりにやったりやめたりしていた。結局は「英語上達完全マップ」を参考にしてやればいいんだと思う。
  英語上達完全マップ


 言語の学習は「近道がない代わりに無駄足は存在する」というイメージ。時間の投入を避けて能力だけ上がるといった美味い話はなく、その手の美味い話(学習法)は「わかった気にさせるが、能力の向上はあまりない」というものになっている。
 ただ究極的には(それが無駄足かは分からないので)自分が「これをやるべき」と信じたものを一定期間、賭けてやるほかないんだろうと感じている。


学習:発音

 中学生の時に、手もとにあった中学生向け辞書に発音記号の解説が収録されていて、発音記号と口の形と息の使い方の対応関係を覚えた。当時はよく辞書を引いて単語の発音(とアクセントの位置)を丁寧に確認していた。当時そんなことをしたのは、「音源で聞いた英語と同じになる」のが面白かったとか、他の人が「すごいね」と言ってくれて嬉しかったとか、そんな単純な理由だと思う。


 ただ「日本人発音」でもより正確・豊かに英語を運用できる人の方が(発音だけ流暢な人より)ずっと良い。他の能力が低いのに発音の良さだけで「でもこの人より上手いし」と自分を慰めるような感情を抱いた過去の自分が恥ずかしい。
 「正しい発音」という言い方は、言語が持つ幅を無意識に排除している。例えばニュージーランド英語やインド英語は発音の点でアメリカ英語と大きな隔たりがあり、またイギリス英語やアメリカ英語と一口に言っても人種や社会階層による差異が存在するが、どれかを「間違っている」とは言えない。
 そうした認識から、あまり「発音を上手にやれ」という言い方をしたくない、という気持ちもあったりする。せいぜい「辞書が示す発音」としか言い得ないけれど、それを学習初期に丁寧に・正確に習得するのは、言語学習の楽しみや意欲に貢献してくれたり、発音に起因するコミュニケーション阻害(通じない)の可能性を低減できるといった点で、良かったかなと思っている。


学習:文法

 中学生の時は文法という概念がよく分かっていなかった。語順問題などは雰囲気で解答していた。(それで80点くらいは取れていたのが良くなかった。)
 高専に入ってから授業で「5文型」「品詞」の概念をようやく知って、目から鱗が落ちた感覚だった。雰囲気で解答するもの、言語はしっくりくるかどうかの問題と曖昧に思い込んでいたのが、そうではなく「ルールに基づいて決まる」のだと理解してから、ようやく英語と多少お友達になれた。日本語と異なり英語は、(文字/単語/発音といった見た目の違いだけでなく)語順が意味に与える要素が大きい言語で、英語を読むこと(構文解析)は「主語と述語動詞をまず確定させるゲーム」なんだと今さら分かったのがその時期だった。
 理解が遅すぎる気もするけれど、義務教育で英語をやっていても、実はそこがよく分からずそのままになっている人は案外いるのかもしれない。教育にしっかりお金がかけられる/親の教育水準が高い子供だと、小学生くらいで当たり前のこととして理解できていたりするんだろうか。


 体系的な文法書に加えて、『ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力』を読んだのは有益だった。文法書は「ルールがこうなっている」を教えてくれて、後者は「そのルールをプレーヤーはこういう感覚で運用している」を教えてくれる。
 ただこの種の「母国語とする人の内在的な論理・言語感覚」を解説する本は膨大にある。「読むとなんか近付いた気がする」効能が気持ちよくなってこの種の本ばかり読み始めても、英語能力の向上自体には寄与しない。1冊をしっかり読んで終わりにするくらいがちょうどいい気がする。


 後は『瞬間英作文』が、基礎的な文法をすぐに出力できるようにするのに便利な訓練だった。ただシリーズの上位版は「複雑だけど英語感覚では使わない英作文」の割合が増え、本来の目的から逸脱してフラストレーションが溜まるので、別の教材に移るのが良いと感じた。


学習:語彙

 「もう少し語彙を強化したい」と「文法を強化したい」という気持ちは割と交互にやってくる。文法と語彙は読む能力の両輪で、一方を上げると他方の低さが気になってくるからかもしれない。ひとつの言葉(単語)は複数の意味や品詞を伴い、幅を持って広がっている。そうした単語が文章の中に現れると、特定の意味や役割へとその幅が収斂する。それを「読む(同定する)」には、その単語の持つ意味と品詞を知っていることと、文章のルールを知っていることの両方が必要になってくる。
 読む能力の低さに対して、「語彙が足りないからだ」と感じる時期と、「文法が足りないからだ」と感じる時期がかわりばんこにやってきて、その気持ちに従って勉強していた。それもだんだん進んで基本ができてくると、次第に文法の例外処理・特定処理と、特定の単語が紐付いた細かい世界に入ってきて、結局は語彙の強化と文法の強化が等価になってくる。


 20~22歳くらいに割と熱心に単語集をやって、そのおかげで400点台の「何言ってるか全くわからん」から、700点台の「おぼろげながらわかる/わかるときがある」になって、TOEIC受験の苦痛がずいぶん軽減された。
 単語集は評判のいいものから自分の語彙レベルに合致したものを選べばよくて、今はアプリもあって便利。


 あと「語源で覚える」系の学習法は根強く人気で、実際読むと面白いけど、語彙形成にはあまり役立たない気がする。定期的に流行る印象があり、流行り物には一通り手を出しているのでいくつか読んだこともあるけれど、「既知の単語同士を有機的に結び付けて知識を体系化する」には有効でも、「語彙の量を増やす」目的にとってはむしろ「とにかく覚える」しかない。これ系ばかり読み漁っても「英語雑学に詳しい人」にはなれても「英語が使える人」にはならない気がしている。


学習:会話

 TOEICのスコアが上がっても、驚くほど喋れなかった。仕事で使うようになってくると困ったことになった。オンライン英会話に一度挑戦したものの、あまりに喋れなくてつらくて辞めてしまった。心理的ハードルの高いことは日常的に続けられない。
 先述の瞬間英作文の後、英語として意味のある文章をと思ってスタディサプリもそこそこ(1年以上は)やったりした。とてもよくできたアプリだった。あとインプット量を増やそう、プレ多読だ、と思ってラダーシリーズを30冊くらい読んだりもした。
  ラダーシリーズ特設サイト


 ただ結局、出力の量と密度を一定期間増やさないともう無理なのでは、と思うようになってきて、そこそこの金額を出して、パーソナルトレーナーがついて2ヶ月特訓するサービスに申し込んだ。申込み後に偶然仕事とプライベートが多忙になって、生きてきた中で一番忙しい状況になってつらかった。
 結果的にかなり発話に苦がなくなった。その後の海外出張で上手くやれるようになったし、オンライン英会話も続けられるようにもなった。人生の中でもかなり上位の喜びがあった。そのあたりは以前に↓で詳しく書いた。
  英語を勉強して嬉しかったって話 - やしお


 ただ発話能力が向上してもTOEIC(R&L)のスコアはほぼ変わりなかった。出力がなめらかになっただけで、スコアアップに寄与する知識の総量は増えていないのかもしれない。TOEICのスコアが上がっても喋れるようにはなれないし、喋れるようになってもスコアは上がらない、互いに独立している。
 発話能力の開発は、発話頻度を高めて、その中で自分なりの表現の「型」を身につける、ということかと感じた。型のバリエーションが増えれば、組合わせ爆発の一種であたかも自由に話しているようになれる。(が、自分自身はそこまで全然到達していない。)こればかりは文法や語彙の勉強を続けるだけではどうしても身につかなくて、対人の会話を一定程度こなさないと難しい。スポーツでも、ルールや基礎練だけでなく、練習試合をある程度重ねないと上達しないのと同じかと思う。
 そうして型が多少身について、ある程度伝えたいことが伝えられるようになれば、自信がついてより話せるようになってくる。


 英語でも日本語でも「喋ること」には一種の「根拠のない自信」が必要になる。
 自分が喋ることで相手がどう反応するかを事前に知ることはできない。相手に理解されず「は?」という反応が返ってきたり、空気がおかしくなる怖さがある。その恐怖が強いと(言語能力の問題だけでなく)何も喋れなくなる。「喋っても何とかできる」(言い換えたり追加で説明できる)という自信や安心感がなければ話し始めることはできない。
 仕事などでも「自分ならたぶん何とかできる」という安心感がないと、自発的な発言も行動もできない。経験を積んで「自分が何とかできた」体験が増えていくと自信が形成されていく。(上司が高圧的・否定的で心理的安全性を毀損するタイプの人だと、自発的な行動ができなくなるのと同様、相手や環境にも大きく左右される。)お笑い芸人でも、どこからでも笑いに持っていける、場をコントロールできると経験的に自信がある人は実にのびのびと融通無礙に、話し始めたり、話に介入したりしてる。


 それから、当たり前だけど出張前などに事前準備をするかどうかで「どれくらい喋れるか」が大きく左右される。専門用語・業界用語の語彙リストを整理して、関係書類も読み込んで、想定される会話をひとり言で喋るなどしておくと、当日だいぶ楽になる。時間が無くてサボると「やっぱダメだ」となる。日本語の出張や打合せでも同じことだけど、言語的なハードルが大きい分(日本語と違ってアドリブが効きにくい分)余計に重要になる。


できて良かったこと

 レベルがだいぶ低い・母国語の水準には到底及ばないとしても、「英語だからヤダ・ムリ」とならずにコンテンツや人や機会にアクセスできるようになったのはとても嬉しい。


今後

 現状やってる週2のオンライン英会話と、平日のポッドキャストは続けていきたい。
 後はもう少し語彙を増やしたいとか、もう少し複雑な構文解析の練習をしたいとか、思い付くところは多々あるけれど、読んでない本が300冊以上家にあるとか、書きたいと思って放置しているお話があるとか、映画も色々見たいし、英語以外にやりたいこともたくさんあるので、しょうがないからソリティアなどをしている。