やしお

ふつうの会社員の日記です。

村上龍 『ヒュウガ・ウイルス』

その時、数本のオレンジ色の小さな光が一斉に走り前方の鉄条網に吸い込まれていくのが見えた。
「始まったぞ」
 海兵隊員がそう呟いたのと同時に耳を引き裂くような鋭く激しい轟音が立て続けに聞こえ、……

 UGのゲリラ兵が奇襲を仕掛けるという、彼ら自らが時刻を指定した宣言を受けて、襲撃場所から十分距離を隔てた位置からそれを待つジャーナリストの主人公の視点で描かれる、襲撃開始の場面を例えば挙げられる。光の後にごく短い会話を挟んで読み手に時間を与え、その後に音を描くことでその距離感を描くという、ごく技術的な配慮をことさら挙げたとして、この作者にとっての賛辞にはなり得まい。何せ、そこそこの書き手ならばこの程度の配慮に基づく帰結は当然のことなのだ。しかし、こういった配慮が徹頭徹尾、地の文、会話、物語内容、構成、主題等々において完遂される事態の(今の日本の小説にとっての)希少さを考えれば、このひたすら真摯な作者の相対的な貴重さがとりあえずは確認される。例えば「痛い」とのみ書かれただけで読み手に痛さは一向に伝わらず、伝えるには言葉を重ねてその状況を一から作り出さねばならないはずだ、という確信に基づくこの真摯さは、貴重なのだ。そしてこれは、まぎれもなく最高のエンターテイメント小説である。
 言うまでもなく、括弧付きの「純文学」小説が真のエンタメ小説を優越しているとはいささかも認め得ないし、括弧が外れたとして、それは優越する−されるという関係にあるものでもない。