やしお

ふつうの会社員の日記です。

古井由吉『野川』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/38705157

結局日本語でものを書くというのは、こういうことじゃないかという気になる。西欧語が物を中心にした言語に対して、日本語が事の言語、状況や環境、距離感を語る言語だと考えると、自然この小説みたいな形にいきつくのではないかと思えてくる。別の時間や話、人物やアイテムがふいに交錯するのも、物を中心に据えると混乱しているように見えるが、思考する何かとその距離だと思えばむしろ忠実な語りだ。井斐や内山の話が主語を欠いて私の話・一人称小説のように見えてくるのもそうだ。でも「旅のうち」から三人称小説になりもしてそれさえ崩される。


 小説は読み進めるうちに当初より読むのが楽に、早くなっていくことがある。小説の立ち上がりでは、読み手がその世界の時間や前提、語られ方を探って了解していくために読むのに時間がかかるが、次第に慣れていくと抵抗感がなくなりスムーズに読めるようになる。それは、お話とは無関係な要素を無視して読んでいるためという面もある。お話に限らず自分が無視できると思える要素を見過ごして読むようになっていく。
 ところがこの連作短編の1編目「埴輪の馬」ではその慣れが訪れる前に、何の説明もなく時空間が飛ばされる。飛ばすという大仰な身振りではなく、ふいに変わっている。小説があたかも再び立ち上がり直すようだった。小説の立ち上がりを持続させ、読み手の慣れ・読み落としを許さない。
 ところが次の編からは様相が異なる。同じように時間や場面や話題がふいに変わるが、今度は既に読まれた要素が再登場するようになる。小説が立ち上がり続けるというのではなくなる。例えば「埴輪の馬」のような物理的なアイテムだけでなく、病に起因する独特の足の運びが、時間を隔てて別の人物、女性の上に病に起因しない形で再び現れたりする。そうして読み手の記憶を喚起させられるのはやっぱり、連作短編の悦びなんだ。
 そして最後の最後は、この再登場、記憶の喚起が今までにない密度の高さで現出する。めくるめく体験をしたところで、馬だしてさらっと終わるんだから、ひどいよ。


野川 (講談社文庫)

野川 (講談社文庫)