やしお

ふつうの会社員の日記です。

細田守『サマーウォーズ』

 物語の、ストーリーやプロットのみならず、恐らく構造の定型からも免れる仕草を放棄し、キャラクター、衣装、髪形、舞台その他の組み合わせの洗練――それは観る物を唖然とさせる事なくひたすら安心を与える種類のズレ――に腐心する様は、優れて現代にふさわしい俗情との結託でした。それはpixivで佳主馬たんハァハァ絵が乱造されるさま、登場人物たちのキャラクターを保存したままシチュエーションが大量に変奏されて消費されてゆくさまを見るにつけ、ますます強くこの映画の成功を確信させられます。


 とはいえ、こういった現象はもちろん『サマーウォーズ』に特殊なものではなく、この映画を見なくとも語り得ることである以上、それはこの映画について何事をも語ってはいません。やはり表層にひたすら視線を向け、耳を傾けることが映画を観ることに外ならないはずです。
 今のところ私はこの映画について何か一つの体系立った観方を持てているわけではありませんが、足掛かりになるかと思って捕らえてみたものの、前述の通り特に発展をみていないいくつかについて書いてみます。(ただそれらは「表層にひたすら視線を向け、耳を傾ける」態度が貫かれている訳ではありませんが。)

規則に従うこと

 陣内家から嫁をとる者は栄のお目通りを経て承認されなければならないという規則に主人公の健二が全く踏み外す事なく「二度」従うこと。(一度目は夏希に騙されて、二度目は栄からこいこいに誘われて、いずれも健二の意図せぬ形で規則が適用されてしまう。)この家に迎え入れられる儀式は、承認者である栄が死んだ後も継承される。侘助が二度目に陣内家に現れた時、栄の遺書によって栄から陣内家の面々へと薄く広く権力の委譲が果たされているため、彼らが承認者として侘助を迎え入れることになる。
 それから、ラブマシーンがこいこいのルールを壊さずにおとなしく従うこと、健二が暗号を解くこと、そういった規則に従うこと……

世界が狭いこと

 事件たちを陣内家の世界に徹頭徹尾格納してしまう事態を「セカイ系」と呼び、作品をその言葉に押し込み=体系から零れ落ちる細部を無視しさえすれば、それを否定する論理も肯定する論理もそこら中に芋のようにごろごろしているわけだから、『サマーウォーズ』を否定するのも肯定するのも至極簡単な作業だけれども、あまりに退屈に違いない。
 それにしても、先述した承認の規則を作動させてまで健二や侘助を陣内家に取り込んだり、限定された世界をかえって強調するように空の青さと仮想空間の白さとがわざわざ二重化されてまで積極的に描かれたりするところを見ると、作り手は意図的に世界の狭さを演出しているように思える。そうして、ラブマシーンとのこいこいによる決戦においてナツキ(=夏希)の賭けアバターが底を突いたところで、雪崩を打つように世界中のアバターがナツキに協力し始める場面との対比を形成しようということだろうか。そうだとすれば、あまりに辻褄が合い過ぎてそこに刺激的なズレはない。
 例えばシャマランの『レディ・イン・ザ・ウォーター』が感動的であり得るのは、集合住宅の住民たちが、全く荒唐無稽な事態を、協力を拒んだとしても全く自らに害はない上、協力しても益はないところで、全的に協力してしまうからだったはずだ。


 体系の貧しさを誇示する否定の身振りよりは、肯定の身振りを選択したいと願うものの――それが私の持つ体系たちの貧弱に起因するかは不明ですが――今のところ私は、この映画について全的に肯定可能な何かを持ってはいませんし、何としても持とうという誘惑や焦燥とも今のところ無縁です。
 では私はpixivで佳主馬たんハァハァ絵を見てきますのでさようなら! 消費者だよー。