やしお

ふつうの会社員の日記です。

「頑張る人が報われるべき」の構造

 さいきん「頑張る人が報われる社会にする」(安倍晋三)とか「正直者が報われる社会にしていく」(片山さつき)とか言い出す政治家が目立ってきてるのは、すごくよくわかる。彼らの主張には同意できないけど、彼らが今このタイミングでそんなことを言う事態、もしくはそんなことを言う人たちが台頭してくるという事態については、すごくわかりやすいなと思ってる。
 ちょうど個々人の恨みの方向と、今の資本主義的なフェーズが要求する方向が一致してブーストしてる、そんなイメージ。




 「頑張る人が報われるべき」という主張はもっともらしく聞こえるけど、本当にそうかな。「頑張りが報われたらいいなあ」という個人的な願望ならわかるよ。でも「報われるべき」しかも「経済的に報われるべき」という言い草はどうだろ。
 実際、頑張りも正直さも別に報われることの十分条件ではもちろんないし、必要条件ですらないしね。


 報われ方に差が出てくるのは、努力の方法や当人の資質や、環境その他によるのであって、努力そのものは別に「報われる」メカニズムを伴わない。
 むかし家庭教師のバイトしてたときに、ほんとに本人は努力してる、一生懸命勉強してるんだけど、どうしても成績が上がらない子がいた。勉強の仕方が悪いというか、問題ひとつひとつに対して行き当たりばったりに回答するスタイル、とにかくその数をこなそうとするやり方をしていたから応用がきかないんだ。そうじゃなくて体系的に把握する方法があるんだよ、ということをいろんなやり方で伝えようとしたけど、結局うまく伝わらなかった。ぼくの力不足かもしれない、もっと優れた教師なら彼に伝えられたのかもしれない。でもそうした「優れた教師」に出会うことは彼自身の努力というより偶然に与る所が大きいのではないかしら。
 「私は自力で大蔵省に入りましたよ。」と片山さつきが言うとき、例えばさっきの子がもし財務官僚になりたいと思って本気で努力を続けたとしても、あのスタイルでの勉強方法のままなら現実にはまず難しいだろうなということを考える。成功した本人としては「自力だ」と言いたくなる気持ちはわかるけれど、実際のところ「勉強の仕方を知っていること」一つとっても、必ずしも当人に帰責する話ではない。これが十分条件ではないと思うところ。


 さらに必要条件ですらないということについては、そもそも「報われること」が努力したかどうかに特によらないということがある。何か悪いことがあった後に「でも、かえってよかったな」と思うことはいくらでもできる。野球選手になる努力をしたけど叶わなかったときに「でも体力がついたし」、「野球のことすごくよくわかるようになったし」と本人が思うことはできる。これは努力に対する報いと言えるけど、ほかに「骨折した」とか「通販に失敗した」とかでも「でも、かえって勉強になった」みたいに報いを見出すことはできる。ある体験に意味を与えてそれを肯定する=報いを見出すということは、努力に限らずどれだけでも可能である。一方で、そうした報いを見出さないこともまた自由であって、例えば通販に失敗したことに一生腹を立てて生きても構わない。


 そんなふうに、頑張りが報いに対して十分条件でも必要条件でもない現実、さらに報いを求めないことも、頑張らないこと/頑張れないことも存在する現実にあって、なお「頑張る人が(経済的に)報われるべき」という一般的な言い方を成立させるには、現実に存在する「経済的に報われるわけではない方向に頑張る人」を排除しなければならない。また、経済的に報われる方向で「頑張る人」を報わせるために、現実にはそれ以外の人々を報わせないことで実現させようとするだろう。
 それで、「頑張る人が(経済的に)報われるべき」という言い方は結局、「人は経済的に報われるような方向へ頑張らなければいけない」ことを含意する。そうした捨象のふるまいが含まれてるんだ。


 でもそれを政治家が言う意味は、とてもよくわかる。
 価値体系の違い(特に労働力の価格の差)を利用して利益を生み出してきたけど、だんだん世界がフラットになってきてそこを利用することができなくなってきた。国内を見ても農村にいっぱい人がいて安価な労働力が確保できるなんて状況は高度成長期の終わりと同時にとっくに終わってるし、発展途上国の賃金も上がってきて労働力の価格差がどこにも見いだせなくなってきている。
 あとはもう、現在と未来の差を利用した利益の生み方、今までになかった商品を出して新しい価値体系を作っていくやり方か、単純にいっぱい働かせて利益を生むやり方でなんとかしていくしかない。いずれにしても「頑張らせる」ことが必要になる。
 そうやってもし現時点のシステム(資本主義)をベースにしてこれからどうやって利益を生み出していくのかということを考えると、「頑張らせる」必要があるってことになるわけで、それだから「人は経済的に報われるような方向へ頑張らなければいけない」という意味を孕みながら「頑張る人が報われるべき」と政治家が言う/そう言うことを言う政治家が支持されるのは、この資本主義の終末期(?)と考え合わせればとてもよく分かる。
 「365日24時間死ぬまで働け」と本気で言っちゃう人(渡辺美樹)が政治家になろうとして自民党が支持してくれることもそんな流れで理解してる。




 ところで注意が必要なのは、「報われる」という一言には絶対的なものと相対的なものの両義性があるという点。
 「報われる」=「自分が得をする」ための形態として、自分が過去の自分より得をすること(絶対的)と、相手に得をさせないことで自分が得をするように見えること(相対的)の二つがある。
 ここまで語ってきたのは主に絶対的報いの話だったけど、片山さつきが頑張ってる「不正受給を許さないこと」と結びついた場合の「報われる」は相対的報いだ。他人の不正受給を許さないことは直接的に自分が得をするわけではなく、ただ相手に得をさせないことで心理的な満足を得るものだから。


 片山さつきの「私は自力で大蔵省に入りましたよ。」という発言に続くのは「問題は自力で頑張った人と頑張らなかった人に差がつかなかったら、誰も頑張らない」という言葉だけど、これは相対的報いをとてもよく表している。現実には絶対的報いが存在する以上「誰も頑張らない」わけではない。混同からくる妄言だと思う。
 もし彼女に「報われる」にはそうした両義性がありますよ、という話をすれば「わかってるわよそんなこと」と怒って言うに決まってるけど、本当にはわかっていないと思う。「正直者が報われる社会にしていく」というのは何かポジティブなスローガンに聞こえるし、本人もそう思ってるだろうけど、それはその言葉の中にあるポジティブさ(絶対的)とネガティブさ(相対的)とを混同しているだけであって、実際にやっていることはネガティブなんだ。
 だって彼女が語る「不正受給を許さないこと」って、親類による扶養の強化=経済的に困窮している親類をたまたま持った者は損をしなければならない(それによって彼らを見つめる自分は相対的に得をする)という話だしね。親兄弟みんな経済的困窮者だったとして、それは本人に責任のないことだけど、養わなきゃダメ、どれだけ働いてもあなたは経済的に豊かにはなれません、という話は「頑張る人が報われる社会」とは相容れない。でもこれは、絶対的報いに対しては相容れないだけで相対的報いに対しては(親兄弟を養う人を外側から見る他人からすれば)成立することになる。絶対的報いの側面を捨てて、自分が損する側に移るかもしれないという疑いも捨てて、はじめて成立する命題なんだ。


 そして彼女を肯定する人々には2種類いる。とりあえずそれを大衆的肯定と官僚的肯定と呼ぶことにする。
 大衆的肯定というのは、今みた相対的報いへの欲望、不公平感への恨みを彼女が晴らしてくれそうだから彼女を支持する、という状況。経済的な絶対的報いが得られにくい状況で、なお「報われたい」、心理的な満足を得たいというとき、相対的報いにすり替えるというのはとても安易な方法だ。それは報いの両義性を弁別せずにいることで可能になる。そうした人々が彼女を支持するんだ。


 一方、そうやってお互いがお互いに得をさせないようにさせておけば、漁夫の利が得られる。さっき「農村にいっぱい人がいて安価な労働力が確保できるなんて状況は高度成長期の終わりと同時にとっくに終わってる」と書いた。その国内での安価な労働力を、相対的報いを利用して復活させようっていうんだ。もう外国にもないから国内で無理やり作る。
 ちょっと前に文科相だった田中真紀子が「大学は減らすべき」と言ってたのも同じ文脈だよね。高卒増やして安価な労働力をっていう。言った本人が自覚してたかどうかはともかく、それが肯定される文脈はそういうものだと理解している。
 今のシステムの中でどうしようかって考えるとどうしてもそんな方向になる。官僚的肯定と呼んだのがこの話。


 少なくとも片山さつき本人の認識としては大衆的肯定の方だと思うけど、官僚的肯定の方で考える人たちからも支持を得られるしくみ。両方から強力に肯定してもらえれば、生き生きと発言できる。こうして彼女らが今台頭できるんだ。




 「頑張る人が報われるべき」という主張は、絶対的報いにおいてみんなを経済的な方面に頑張らせる方向へ利用して、相対的報いにおいてお互いがお互いを得させない方向へ利用するような構造を現実的にはもってる。みんなをズタボロにするのと引き換えに、資本主義さいごのあがきとしては最大の効果をあげようとする、そんな仕組み。
 みんながみんないい社会にしようと思ってやって、こんなことになってるんだ。っらぃょ。