やしお

ふつうの会社員の日記です。

磯崎憲一郎『赤の他人の瓜二つ』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/10657794

題名の罠にあえて嵌って読めば、免れ得ない他人との同一性がひたすら執拗なまでに語られる。相貌のみならず死から引っ張り出される体験と思考も五百年を越えてコロンブスの上で反復される。歳を取った兄妹の顔が性差を越えて似てしまうのは血のせいだという安心さえ、実は他人だとふいに放棄される。けれどそれは最後に笑われて肯定される。この「問答無用の反復の只中で肯定してゆく」という主題はこの人の小説に概ね貫かれているように思う。けれど一瞬しか出てこない総務課の男の性格にさえ言及するのは穏当な収まり方ではない。これは何だろう。

 その他思うところいろいろ。

  • 特に「この春からチョコレート工場で働き始めたひとりの青年――彼があの、社宅に住んでいた兄妹の、男の子の方と同じ人物であるかどうかということは、もはやさしたる問題ではないのだが――が、」(p.80)はかなり直接的な「他人」への表明よね。
  • 「空を飛ぶ何千の中から選ばれたたった一人の代表者」(p.17)とトンボについて書いているけれど、こう人間以外を「一人」と呼ぶのは以前にも「肝心の子供」で馬についてやっていた気がする。人間以外の生物が、ふいに人間との境界を越えてしまうような感覚、というのが好きなのかもしれない。
  • 「そのビーフシチューは素晴らしい味だった。肉料理というよりは焼き菓子とか熟れた果実を思わせるほどのコクと甘みだった、その美味しさに彼女は驚いた。」(p.129) この「コクと甘み」という書き方、ほとんどギリギリだ。罠かしらと思うくらいあっけらかんと、まるでグルメ番組みたいな言い方をして隙を見せている。かろうじて「肉料理というよりは焼き菓子とか熟れた果実」で免れているのかもしれないけど、これはもうアウトに近いような無防備さの気がする。それとも、笑わせようとしているのだろうか。
  • 工場の責任者に抜擢されかけたとき「この類の話の難しいところは、組織のための自己犠牲という男の自尊心をくすぐる衣が巧妙に被せてあるので、この仕事を自分が受けるだけの理由が本当にあるかどうかを考える前に、断ることが恥ずべきことのように思えてしまうところだった。」(p.147)書いているのは、こう、実感がこもっていそうで笑ってしまった。
  • それにしても主題そのもの、みたいなタイトルをつけるのはどうなのかしら。

赤の他人の瓜二つ

赤の他人の瓜二つ