やしお

ふつうの会社員の日記です。

一人称小説を書くということ

 「たっくんはいない」というお話を書いた。(http://d.hatena.ne.jp/OjohmbonX/20131208/p1
 長いしたぶん誰も読まない。つらい。せめてこうゆうこと考えて書いてたみたいなこと書く。



「あたし」の制約

 一人称の一元視点の制約に留意する。視点人物が知らないことは書けない。出来事、思考、言葉の選択、語彙の乏しさ、時間や距離の感覚、あらゆる面で「あたし」の視点でなければならない。
 書き手の自分を精一杯殺して、37歳でようやく就職を目指し、常識がなく、金勘定の緩い「あたし」を全力で現実として支える。

バカをバカにしない

 書き手が愚かさを見下してはならない。愚かな振る舞いや語彙の乏しさをただ散りばめれば愚かさを表現できるわけではない。
 他人から見てどれほど突拍子のない認識でも、ある理論体系から導かれている。ただその理論体系があまりに不必要に多くの仮定を採用しているために、他人から見て客観的な理論体系にはほとんど見えないだけだ。これは子供や「おばかタレント」のクイズ番組なんかを見ればただちに理解される。
 本編では「あたし」による干支の理解や雑誌の発売タイミングに関する考察などに現れる。

語彙は平均的ではない

 「あたし」の知的水準にあわせた語彙レベルが実現されなければならない。ただしそれは、「あたし」の語彙が一様に乏しいことを意味しない。ふいに難しい言葉を使ったりする。ただしそれは一般的な意味からしばしばずれている。これも子供などを想像すればわかりやすい。

あたし、私、あたし

 途中で一人称が「あたし」から「私」へ推移する。これは外的な契機によって強制された推移である(主任に「私」と言うよう注意される)。このとき単に一人称が変わるだけでは済まない。
 「私」への変更に引きずられて文体全体がわずかに洗練される。語彙が増える。出来事のレベルではパート先のスーパーで仕事ができるようになっていくのとパラレルに、文体や語彙のレベルも推移する。
 また最終的に「あたし」に戻るがこのときも同時に出来事、文体、語彙の推移が起こる。

一人称としての語りの駆動

 後半「私」が、周辺人物(おじさん、主任、カレシ)とのエピソードをかわるがわる語っていく。これらを単に時系列で並べない。また因果関係で整理して並べない。客観的な方法で構成しない。
 語られる出来事が変わるとき、具体的な言葉を媒介する。例えば気のおけない友人との他愛ない会話において、キーワードが次の話題を連想させて流れるように進む。それに近い状態を作る。あくまで「私」の視点で語られる。構成の面でもそれを実現する。

「あたし」の外側を強固にする

 「あたし」は金銭問題について現実的な認識を喪失する。ただし借金の額、資産の額は正確につじつまを合わせておく。
 「あたし」は出来事を時系列や因果関係で整理して語らない。ただし出来事の時間と因果関係は厳密に決定しておく。
 一人称として主観的であることを際立たせるためには、その外部は完全に整合性を備えていなければならない。客観的な外部によって「あたし」という主観性を現実にする。

主題群

 三角形が土地と星の上に現れる。就活で訪れる品川、渋谷、上野が地理的に三角形の頂点に位置する。また彦星、織姫、デブ(デネブ)が夏の大三角を構成する星として語りの中に登場する。デネブが七夕の伝説を構成しないのと、上野の扱いが軽いのとがパラレルとなる。
 動物がいくつも現れる。「あたし」が馬面であること、動物占いがサルであること、干支がうさぎであること。そしてついに実態として主任の飼い猫が現れる。
 「あたし」は前半で履歴書の職歴欄を書き込んでいく。その後スーパーで働きはじめ「私」に移行して以降、履歴書の存在は忘れられる。しかし再度「あたし」に戻ったあと、実は履歴書がずっと書き継がれていたことが明らかになる。
 こうした主題群は物語を直接支えない。しかしある要素が異なるレベルで現れたり、語りが現実になったり、時間経過を隔てて反復したりして主題体系が立ち上がり、これまでの記憶が騒ぎ立つ瞬間は、小説を読むひとつの楽しみであると考える。
 しかし本作でこれを十分厚く実現できたとは思われない。

カマモンというアイテム

 冒頭で「あたし」は愛する「たっくん」を弔うため一人エジプトに行く。しかしその後の「あたし」の行動を見る我々は、次第に不自然さを抱くことになる。スーパーのパートもまともにこなせない女が、一人でエジプト旅行などできるのだろうか。エジプト行きだけが他の出来事から現実感を失って遊離している。ひょっとしてエジプト行きも、さらには「たっくん」自体も「あたし」の想像ではないのか。
 しかしそうした疑念を抑圧するのがカマモンである。「たっくん」がプレゼントしたカマキリのぬいぐるみ。動物の主題に連なるこれが「たっくん」を現実に引き留める。
 それで「私」がカマモンをふいに捨ててしまうことは、「たっくん」を現実ならしめていた要件の消失にほかならない。そしてこれが、安定していた生活が崩壊し始める契機になる。

分散する「たっくん」

 「あたし」の周囲に登場する男たちは、それぞれ「たっくん」の要素を担う。おじさんは喋らないことによって、カレシ(若い警察官)はカレシであることによって、たくみ(主任の息子)はたっくんという愛称によって、「たっくん」の要素を受け持つことになる。
 「あたし」が「たっくん」を男たちに投影しているとも言えるが、もはや「たっくん」の実在を疑う我々から見れば、逆に彼らの要素によって「たっくん」が「あたし」の手で構成されているようにも見える。

「たっくんはいない」の完成

 冒頭で「たっくん」が死ぬ。「たっくんはいない」が実現する。その後「たっくん」の実存がそもそも疑わしくなっていく。実は最初から「たっくん」などいないのではないかという疑いが濃くなってゆく。さらに最終的に「たっくん」の要素を担っていた男たちが全員消え、「あたし」は一人取り残される。こうして「たっくんはいない」が完成する。
 意味を変えながら「たっくんはいない」が深化する。

反復

 最後に公園の砂場で一人「あたし」が砂を撒くとき、それは冒頭でエジプトで「たっくん」の骨を撒いたことの反復としてある。ただしそれは記号としての動物たちが実態としての猫として登場したのとパラレルに、ファンタジーだった撒くという動作が現実となったもので、レベルを変えての反復である。

徹底してモノローグ

 最終的に「あたし」以外が全員消える。一人称一元視点の語りはモノローグであって他者がいないという構造が物語上の現実として現れたものである。
 「あたし」がカマモンに向かって独りごとを呟いていたように、結局「あたし」はただ一人でいる。




 そんなわけで、「一人称で書くとは、こういうことだ」というのを今考えられる範囲で精一杯実現できた、書き手を殺して作品という現実にかなり奉仕できたという意識があって、初めて満足できた作品だった。自己満足でしかない。
 ただ不満はゼロじゃないし、誰も読んでいなくても自分だけは読んでいると思って、この自己満足をこの先もっと深化させていくだけだ。