やしお

ふつうの会社員の日記です。

庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/18010199

この小説は非情だよ。部分としては技術の高さでいくつもの場面や思想や言い方を面白いと思わせといて、全体としてこんなのまるっきり無責任です、技術が高かろうがこういう小説したらダメなんですって事だから。批判にはほらここにもう書いてあると言え、一方で全部相対的だとも言える、本気だとも本気じゃないとも言い得るズルさ。その両義性こそフィクションの露呈なのだと書いているとすら簡単に言い逃れ得る形。(作者の認識とは関係ない。)もはや一般論に換言できない個別の批評や作品でこの無責任さを免れねばならぬと示すわけだから厳しい。


 これ読んでた時にね、あ、面白い、あ、面白いといろんなところで思いながら、でもこれ小説である必要があるんかしらってことをずーっと思っていたのね。
 主人公の思考がずーっと書いてある。思考って言うより反省やね。ずーっと反省が書いてあって「あとがき」(これは作者のではなく作中の)にきわまる。それだけじゃ小説にならんから、人物が何人かシーケンシャルに出てきて、主人公に反省の口実を与える訳ね。そんで反省する。(そういえば柄谷行人が、人物がいっぱい出てくるかどうかがダイアローグの成立要件じゃない。人がいっぱい出てくるけどモノローグということもあり得る(というかほとんどがそうなる)みたいなことを書いていたけど、ちょうどそれかもしれないね。)何もかもが思考を支えてあげるのなら、これはもう小説という形でやる必然性があるんかなと思った。
 これはエッセイという形で出した方がすっきりくるんやないかなと思わずにいられんのね。この小説が私小説「風」だからエッセイにすればっていう意味じゃないよ。こういう思考について、そのままエッセイで書けばいいということ。
 でもなんで小説にしたか。ひとつ、これはプライドが書かせてるんやないかなと思ったの。自分はもう分かっとる。お前らがああ言ってもこう言ってもどう言っても、ちゃんとここに書いとる。ここまではエッセイでもできること。ただそのままやと、そんなもん本気で書いてと言われたら逃れられない。そこでいや、これは小説や。真正面に見るのは違う。しかも「あとがき」でちゃんと相対化もしとる。と言えて隙をなくせるのね。フィクションをこの隙の無さの担保に使う。これでもう他人の批判をどうやっても無化できる。
 それで実際、この本はとても高度にそれを達成できていると思うのね。今まで書いたようなことを言っても、いや、そんなん違うと、あっさりやっつけられちゃうよ。この本は何でも吸収してしまう。
 もし完璧なものを目指したい、隙の無いものを目指して批評なり小説なり書く志向を一部でも持てば、この本は、それはもう惚れ惚れするんじゃないかな。三島由紀夫が褒めたのは、そういう意味でじゃないかとちょっと思ってるの。(実際の三島由紀夫の小説が、それに対してどうなってるのかは読んでなくてちょっとわかんない……)


 とりあえずまず、フィクションを信じました。その確信を足場に突き詰めていったらとつぜん、足場に足を掬われました。そういう瞬間を見てしまうことがやっぱり小説を読んで一番面白いことのひとつなのね。でも最初からフィクションは信じないけど利用します、という形だとそんな瞬間を迎えることはもともと無理なのね。
 なんやら実に抽象的なことを書いて。じゃあ具体的にどうすりゃいいんだってなると、それはもう一般的にこうすればいいと言ってもあんまり仕方がない話なのね。批評家だったらそうではない作品をどれだけ具体的に掬えるか、実作者だったらそうではない作品をいかに作り得るかという話になっちゃうので個別の話。


 それにしてもこの本は読んで本当に暗澹とした気持ちにさせられるよ。(お話自体はハッピーエンド、主人公が未来への確信を感じさせる認識に到達して終わるから一方でさわやかな気持ちにももちろんなる。)
 それっていうのも最初にも書いたけど、いろんな思考や人物、場面を本当に面白いと思わせてくれるからなのね。そこが面白いんだからいいじゃん、と簡単に言えるってことが恐ろしいのね。こんだけ技術的に高いレベルで、頭もよく書いても、それにフィクションを隷属させたらもう駄目なんだ、っていうのはとても厳しいことだよ。やっぱりいろんな批判に耐えられるものを、ってついつい流れてしまうもんね。俺は分かってるんだ、馬鹿じゃないんだってみんなに思われたいって気持ちはそりゃあるんだから。
 別にその気持ちを持っててもいいんやけど、それに捉われて体系化を進めたらと途端にいけない、それを免れて書かなきゃ駄目なんだっていうのは、かなり気をつけてないといけない。とても厳しい話。


 それで一番悲しいのはね、たぶん本人がこの退屈さを分かってると思うことやね。自分の書いたもの読んだとして、あっちこっちで面白いと本当に思いながら、でも全体で面白いとは信じられないのやないか……これはもう私の勝手な想像なのよ。まったく失礼な話。でもこんだけ頭いい人が、気づかんとは思えない。それで気づいたとして、ならフィクションをとにかく信じてしんどいけどやってみようか、とはならなかったんだろうなと寂しいわけね。
 ここを信じるかどうかの部分は、頭のよしあしとはもはや関係なく、実に主観的な部分だろうから、単にそこに関心がなかったというだけの話なんだけどね。


赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)

赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)