やしお

ふつうの会社員の日記です。

鹿島田真希『来たれ、野球部』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13685276

絶対視していたものが一気に崩れて相対化される。この落差と晴れやかさを最大の見せ場とするなら当然、喜多の一人称一元視点に絞って新田の思想に徐々に支配される様を説得的に描いた上で、奈緒の思考を完全に隠蔽しておいて決定的に他者の一言で、見くびっていた相手に突然思考を破壊されるように見せるべきところを、ごく短い一人称多元視点を重ねて登場人物の思考を丸見えにして進める選択をしたのは、一元視点と破局の二重の絶対視それ自体への不快感からかもしれない。でも全て丸見えにするとそれを見る主体が浮いて却って絶対視に近づく気が。


ということを考えながら、絶対視への欺瞞に耐えられないとしても、じゃあ、どうすりゃいいのかな、と。例えばそれは一元視点を採りつつ、途中で一瞬だけその視点人物が知り得ないことを説明抜きに語らせて、絶対視の破れ目を作っておく、というやり方がバランスがいいのかもしれない、と思いました。
 例えばアッバス・キアロスタミの映画「そして人生はつづく」で途中、突然映画のスタッフがごく自然な調子で作中人物と話をしている瞬間があるけれど、そんな感じ。
 でもいまさらそんなことじゃダメだよ、と言われそうな気もします。


 あと、この「来たれ、野球部」では、平気で紋切り型や頭の悪そうなメタファーを出してきたり、ディテールがまるで機能しない(特に野球の浅薄さ)点があったりしますが、これらの点で非難するのは恐らく無効で、というのもp.123<そんな常套句を聞いて、僕はなんとなく、納得したような、安心したような気分になった。>を初めとした至る所で月並みさへの安楽が肯定されているためです。


来たれ、野球部

来たれ、野球部