やしお

ふつうの会社員の日記です。

信じない上で信じるような読み方

 しばらく前に「ミモレ丈」とつづ井さんの「助け合い」が(ネット上の極一部で)話題に上がった。前者は嘘を書いているのではないかという書き手への疑い、後者は書かれていない要素に対する書き手への非難だった。同日に起こったこの2件は相互に独立して無関係な話だが、両者はノンフィクションの正しさへの一種の信仰という意味で通底している。


 「ミモレ丈」ははてな匿名ダイアリーの記事がきっかけだった。
  32歳腐女子自分の子供っぽさに気づいて恥ずかしくなる
 32歳の「私A」が、久々に集まった友人達の「30代女性にふさわしい」服飾や言動に対して幼稚なままの自身に羞恥や焦燥を覚えたという報告だった。これ自体は、誰にとっても(どちらの立場でも)経験し得るような話で、「服飾や言動」を例えば「収入やキャリア」などと置き換えてもありふれた話である。ここには「年齢にふさわしい」という常識や通念に人が縛られることをどう捉えるかといった視点があり得る。
 しかし話題に上がったのは、この記事の書き手が本当に「私A」なのかという疑いについてだった。服飾に興味を持ってこなかったはずの「私A」が友人達の服飾を詳細に描出し過ぎているという違和感から、「実はこの記事を書いているのは友人の一人ではないのか」という疑いが持ち上がったのだった。

Bちゃんはコート、ドルマンスリーブのカットソーにミモレ丈のスカート、黒タイツにブーティ、ハンドバッグ。ケバすぎないばっちりメイク、薄いピンクのネイル、小ぶりでシンプルなネックレスとブレスレット。

という友人「B」への描写中の「ミモレ丈」という服飾用語が、この疑いを象徴的に表す語としてピックアップされるに至った。


 「助け合い」は著者つづ井さんがTwitterに投降した漫画(絵日記)である。
  https://twitter.com/wacchoichoi/status/1281167580762267649
 友人3人で過去のアニメ作品を視聴したところ、「エッチな絵(2次創作)を見たい」という話になる。しかしネットを探しても見つからなかった。後日3人のうち絵を描く2人(つづ井+橘)が「エッチな絵」の交換をした。自身の「性的な興奮を覚えるもの」を相手にさらす行為は、長年の友人であっても(だからこそ)非常に気恥ずかしいが「ひと皮むけた関係になれたような」気がした。残り1人(Mちゃん)は絵を描かないから参加していない。さらに後日、3人が集まった時に2人が絵を交換していたことを知った「Mちゃん」が「私も見たい」と叫ぶが、2人は「分かってほしい」と宥める、という話だった。
 これに対し「Mちゃんがかわいそう」という感想が寄せられ、著者は以下のように答えている。
  https://twitter.com/wacchoichoi/status/1282614861415866368

先日の絵日記「助け合い」に関して、「エッチな絵見せて貰えなかったMちゃん可哀想すぎる」というお声をいただきました。色んなご意見を拝見し改めて絵日記を見返すと、「た...確かにこの私感じ悪...」と素直に感じました。
絵日記を描く上で、虚構にならない範囲で実際の出来事や会話を省略するのですが、その上で「省略する部分」と「省略せず描く部分」を今回私が完全に間違えました
この時も、絵日記そのままに私が脈絡なくエッチな絵の話を匂わせたのではなくて、それまでとその後のやり取りと(照れちゃうけど)我々の長年の関係性もその場の空気とともにあって、結果としてエッチな絵見たすぎMちゃんの大咆哮となったので...。でも描いてないことは伝わらないので、私のはしょり方と構成と描き方がヘタすぎて読んでくださった方をモヤッとさせてしまいました。申し訳ございませんでした!大反省要修行....


 「ミモレ丈」の「服飾に興味がないはずの私Aが詳しい」違和感に対して「作者が私Aではなく友人のいずれかである」以外の解釈を考えることも無際限に可能である。

  • 本人が服飾に金銭を費やしていなくともその程度の知識・解像度を持っている場合はあり得る(作者は私Aである)
  • 説得力を持たせようと記憶に基づいて後からそれらしい服飾のディテールを書き加えた(作者は私Aである)
  • 徹頭徹尾が創作である(作者は作中人物の誰でもない)

 作者が私Aである場合、ない場合いずれも任意の解釈が読み手にとって選択可能であり、与えられた情報のみでは確定できない。それでも(個人の常識や通念等に基づいて)最も妥当だと信じられる解釈を主張することも可能であり、一方で確定できないことは一旦棚上げとして作者に対して好意的な(作者の主張に一旦沿った)解釈を選択することも可能である。私は後者の態度を取る。
 「助け合い」は「書かれなかったこと」を読み手が否定的な印象で埋めた結果で発生した批判と弁明だった。「ミモレ丈」と同様にどのような解釈も可能であるが、ここでも私は一旦作者の主張に沿うような(好意的な)解釈を選択する。


 真偽が不明で、かつその真偽が決定不能な(妥当性の判定が決定的でない)場合に、一旦作業仮説として真と見なす態度を私は選択する。これは、デマを信じてまき散らすといった行為を是認するものでないのは当然である。またこの態度決定は「決まらないことを云々するのは無駄である」ないし「そうする方がより建設的だ」といった相対的な有利さがあるとしても、その有利さのために選択されるものでは必ずしもない。むしろ「書かれたもの」を全てフィクションとして見るという措定に由来する。
 書かれたものは、原理的に現実そのままの写しであることはあり得ない。現実の全てを書き写すことができない以上、そこには書き手による事象の取捨選択が入る。さらに選ばれた事象が文章なり漫画なりで再現されようとする時、その表現方法の特性に基づく制約を受ける。この意味で「書かれたもの」の一切がフィクションであるという視点に立つと、真偽の決定自体が相対化される。真か偽かを判定する行為は恣意的な選択と見なされる。
 書かれたものを(たとえ作者がそれをノンフィクションであると主張しても)全てフィクションとして見るという態度は、作者の書いたものを素直に/好意的に解釈するという態度と一見矛盾する。この矛盾は捨象する、括弧に入れるという操作によって解消される。


 小説家・批評家の大西巨人は、フィクションとノンフィクションの関係について「小乾坤」という言葉で語っている。1948年のエッセイ「作中人物に対する名誉毀損罪は成立しない」では以下のように書かれる。

 おしなべて小説は、もしも人がそういう(本質的にはほとんど無意味な)分類を強いて試みるならば、「事実」か「事実と作り事との混合」か「想像」かのいずれかに、かりそめながら分類せられ得るはずであろう。しかも、いずれにせよ、元来あらゆる小説(語の本義における「小説」)は、必ず常に「仮構」であらねばならぬのであり、さてそれとともに必ず常に「真実(現実的)」であらねばならぬのである。作家は、一方において、自己の作品全体を「仮構」と断言し得ることによって、まさしく作家の名に値し、他方において、自己の作品全体を「真実(現実的)」と主張し得ることによって、たしかに作家の名に値する。
 言い換えれば、「仮構」の小乾坤における新たな「現実(真実)」の造営作業こそが、作家の根本的当為なのである。

 大西は別の場所でこのことを「独立小宇宙」という言葉で表現している。ここでは主に小説について語られているが、小説を「書かれたもの」全般に敷衍しても同じことである。作品は仮構であると同時に真実である、そう言明できることが作家でありその仕事だという。仮構と真実が両立するという意識は、これも一見背反するようでも、体系が、仮定の選択において主観的であり、帰結の導出において客観的であるという性質を反映している。体系は根本で仮定が選択されざるを得ない点において全て仮構であり、一度選択された仮定に対して論理的に帰結が導かれる点において真実である。仮定の選択は、外部(あるいは包含するような体系)との関係において相対的に妥当性が議論され得るし、また帰結は論理的な無謬性において議論され得る。一般に「正しさ」と呼ばれるものには、この妥当性と無謬性の二つがあり一方を議論する場合は、もう一方は捨象される/括弧に入れることになる。


 書かれたもの一般に仮構と真実の両面が存在するが、小説(漫画・戯曲・映画等)は仮構であること、ノンフィクションは真実であることが自明と見なされ、もう一方の性質は等閑視されがちである。
 映画作品でしばしば「based on a true story」と表記されることの奇妙さはここに根差している。大西が真実と仮構の分類について「本質的にはほとんど無意味な」「かりそめながら」と断った通り、現実の出来事に基づいているかどうかの差異は本質的には無意味である。しかし「両面が存在するという読み方がされにくい」という実態を加味すると、その(本質的にはほとんど無意味な)注釈によって、読み手(観客)がノンフィクションに期待される「楽しみ」を得られるのと同時に、仮構としての強度に対する要求水準が下がる効果を期待できる。「仮構として見て面白くなくても現実の出来事だから」と一種のお手盛りのような効果がここで得られることになる。
 仮構であることを自明視するというのは、作られた世界という前提で作中世界を楽しむような読み方である。真実であることを自明視するというのは、現実に発生した出来事として考えたり思いを巡らせることである。妥当性を問うとは、仮構であることを改めて意識することであり、作品に対して例えば物理法則や現実の反例、ポリティカル・コレクトネスや作者の立ち位置・思考など、作品に外在する体系や価値観と照合して語るような営みである。無謬性を問うとは、真実であることを改めて疑うことであり、作品の内的な整合性を検証するような作業である。


 書かれたもの一般に、仮構であることと真実であることとの両面が原理的に備わっているという視点に立つと、それが創作であろうとノンフィクションであろうと、この両者の視点で作品を見ることになる。「ミモレ丈」も「助け合い」も真実であるという視点を一旦捨象して仮構として見る視点から、さしあたり素直に読む、あるいは書かれていないことを好意的に(作者の意図に沿って)読むという態度決定がなされることになる。そうではなくノンフィクションを真実であるとしてのみ見て、仮構であると見ない時、作者が作中人物の誰なのかや、書かれなかったことの解釈といった「問題」が絶対的なものとして浮上する。この意味で、「ノンフィクションの正しさへの一種の信仰」と呼んだのだった。
 一方でこの「素直に読む」態度決定がデマや虚偽を疑わずに信じて拡散するような振る舞いを導くことを意味しないというのは、両者の視点で見るという態度に支えられる。両面の意識を持つことは、とりもなおさず自身が今どちらの視点で見ているかを意識することであり、その言説をもとに何かを語る時もまた自身が何に立脚して語っているか、自己の言説の仮定に対しても意識的であるということである。


 創作とノンフィクションは「書かれたもの」という点では変わりなく、仮構と真実に二分されない。どちらか一方に属する(べきである)と曖昧に思い込んでしまうことが、読み手のみならず書き手にもある。読むことにまつわるある種の不自由さや不毛さから免れるには、創作であってもノンフィクションであっても、仮構と真実の両面で見て、両者を追求するような態度が必要になる。


 ところでこのような体系の捉え方は相対主義と呼ぶこともできる。相対主義を取る時、それが「絶対的な真理などない」を前提する点で絶対主義であり矛盾しているといった反駁が加えられることもあるが、それは絶対主義的な視点に立たない限り成立しない。相対主義的な視点からはその前提は絶対的な真理として据えているものではなく、単に選択しているだけでしかない。しかしこの反駁に対する反駁によっても、では「なぜ私はそれを選択するのか」という問いが残される。あるいは無謬性を支える論理そのものもまた体系として把握され、それが体系である以上は主観的なものである。その意味で客観性もまた「なぜ私はそれを選択するのか」という問いが残される。この問いは、相対主義/絶対主義、客観性/主観性といった対立軸で見る限りはどちらか一方に回収されるほかないようなものである。徹底して体系を適用する先に生じてくる限界点として「この私がどうしようもなくそれを選択する」という地点が見えてくる。批評家の柄谷行人が『探究II』で「単独性」と呼んだものは、こうした性質にまつわるものだと考える。
 ここでの、創作とノンフィクションで二分しない、仮構と真実の両側面で把握するという話は、単独性が現れてくるほどの地点までは踏み込んでいないという意味で、ある意味で素朴な(ラディカルでない)認識である。そうであっても、創作とノンフィクションを曖昧に弁別する視点からすればよりラディカルであり、テクストをより豊かに読み得るような認識ではあり得て有用だと考えている。