やしお

ふつうの会社員の日記です。

可能性を捨てて目に見えている

 なにかを読んでいるときに、あ、これちょうど自分がさいきん考えてたことだ! ってなることあるじゃん? そうすると(それが特にネット上で名もない?だれかが書いたものだと特に)、なにせ書かれたものが自分でも作れそうに見えるものだから、その書き手についてもせいぜい自分の手のひらのうちに収まりそうなものに見えて、知らず知らず見下していることがあるんだろうね。ひとのブログなりはてなブックマークで見かける「ああ、そのことについては分かっていますよ(あなたが言うまでもなくね)」という自意識むきだしのコメントがその表出のひとつかもしれない。
 それが建設的じゃないという点で表明することが間違っていると言うこともできるけど、そもそも相手が全的に自分の理解の範疇に収まるという見くびり自体がきっと、ちがうんだ。


 なにごとか考えていたことを定着させたくて実際に書いてみると、こんな経験をしないかしら。
 もともと自分の中にあったときにはもっと大きな広がりを持っていたものが、書いてみるとずいぶん小さくなっていることに気づいてびっくりするんだ。それはもしかしたら、光子を粒子として検出したら波としての可能性が消えちゃった、みたいなあれに似ているのかもしれないね。意味を同定するとそれ以外の、存在できたかもしれない可能性がもはやその場では消滅してしまう。(そんなときは体系的であることを犠牲にしてでも、別の場を設けて存在させてあげればいいだけではあるんだけどね。)
 この経験を思い出して照らし合わせてみると、「ちょうど自分がさいきん考えてたこと」とだれかが書いたものとがちょうど同じ大きさに見える時は、実際にその「だれか」の考えていたものは自分の考えよりもっと大きな広がりを持っていたのかもしれないね。
 もちろんこれは、自分の側でなされるただの推測だよ。実に他愛ない、実に!
 それでもこういった認識が、自意識をむきだしにした無益なコメントを抑制できる(あとからそのことに気付いて本人が恥ずかしい思いをしなくても済む)かもしれない点だけでも、少しは実利がありそうだ。それにそう思って誰かの書いた物を眺めてみれば、別の広がりに気付くかもしれないしね。