やしお

ふつうの会社員の日記です。

結婚が束縛ではなく自由をもたらすような側面

 結婚はプライオリティの排他的な付与だ、というような認識を上野千鶴子小倉千加子が対談の中で示していた。(どっちが言ってたか忘れちゃった。)
 夫婦や恋人といった形態をとって、「私にとってあなたが優先順位の第一位ですよ」という契約をお互いに結ぶ、ということだ。その対談の中では、フェミニズムという視点からは結婚のそうした固定的な側面は否定される、という論調だったと思う。なるほどなーと思ってたけれど最近、そうした側面も悪くないかもしれないとちょっと思い始めてる。(ただそれは、「国家が現在提供する結婚という制度」への肯定を全く意味しない。)
 恋愛だろうとそうでなかろうと気になる他人に嫉妬すること、嫉妬している自分をみじめに思うことといった精神的なコストは馬鹿にならない。そのコストを抑制する手段として有効ならいいんじゃないかって思い始めてる。


 あの人今どうしてるんだろうか、自分のことどう思ってるのかななんて、考えても果てのないことをつい考えて、相手の過去の言動をパズルのように組み合わせて都合のいい結論を導いては楽観したり、都合の悪い断片を見つけては悲観したり、あるいは別の証拠を探そうとSNSを覗いたりして、自分ではない誰かと楽しそうに過ごす姿を見つけて落胆する。
 そんな確定しないはずの答えを探し続けることで時間を浪費し、他の作業に集中できなくなる。勝手に期待した上でそれが実現されずに、勝手に傷つくような不毛な精神のアップダウンを繰り返して疲弊していく。本人の内部だけで完結して出力されないならまだしも、勝手に期待して裏切られるというバーチャルなマイナス分を実体と誤認して、実体的なレベルでそのマイナス分を補填するような振る舞いまで始めると、相手や周囲に迷惑がかかっていく。わざと相手にいじわるしたり、誘いを断られた腹いせに意味もなく別件で断ったり、相手が楽しそうに他人と遊んでいるなら自分もそれをアピールし返すとか。さらに悪化すると、以前↓に書いたみたいな、さみしくて浮気するとか、ストーカー化にまで至る。
   さみしくて浮気する正当性 - やしお
   ストーカーへ続く道を、入り口で引き返す - やしお
 そんな「恋煩い」のような精神状態が好きなんだ、という人もいるかもしれないけれど私はそんな精神的なコストは減らしたい。


 相手が幸せならそれでいいと理性的には全くそう思える。相手の自尊心が満足されればそれでいいし、そこだけを目指しているのだと考えることはできる。しかし「そう思える」、「そう考えている」ということがそのまま実現されるわけではない。どうしたって損得勘定から免れられないのだ。自分がこれだけ考えているのだから相手にもそれだけ考えてほしい、バランスが取られていてほしい、そんな風に自分だけが一方的に空回りしているみじめさを見出す。
 そうしたみじめさを恒常的に回避する手段として、「もう誰のことも気にしたりしない」という選択はあるのだろうか。もう恋なんてしないなんて言うよ絶対みたいな。それは無理だ。「そんな風に思わなければいい」なんて解決策としてまるで有効じゃない。「パンが食べられないならケーキを食べればいい」と言われても、そのケーキをどうやって入手するのかが問題なのだ。一人で自尊心を支えるのは難しい(他人にはっきり肯定されていないと耐えられない)以上、どうしたって誰かをそんな対象として見出してしまうのだ。それでも相手のことを「なるべく気にしないようにする」という手段はあり得るが、手段を張り巡らせて壊れないように突っ張り続けるのも結構大変なんだよ。
 だったら、夫婦や恋人といった形態で「私にとってあなたが優先順位の第一位ですよ」という契約をお互いに結ぶという手段はありかもしんないって思った。流動化には耐えられないし、無化は実現が難しいのならもう、固定化させてしまおうっていう戦略はひとつの選択肢として有効かもしれない。


 じゃあ約束だけすればいいかっていうと、お互いがお互いに「私にとってあなたが優先順位の第一位ですよ」ときちんと言動で示し続けるっていう実体が伴っていないと無駄なのは確かだ。恋人だろうが夫婦だろうが明らかに自分がないがしろにされていると感じられれば、相手を気にして疲弊するというコストがまた発生してくる。しかしそうであっても、結婚なりなんなりという形式で事前に「そういう約束がある」と明示されていれば、その疲弊が発生するハードルをぐっと引き上げてくれる。約束がない状態では状況証拠だけを頼りに忖度しなければいけない一方で、約束があれば供述が強化してくれる。
 自分のことどう思ってるのかな、なんてあてどもなく考え続けて疲れることもない。魅力的な相手がもし現れても最初から対象から除外できる。際限のない対象をひとつに固定化するというのは、形式的には自由から束縛への移行だとしても、実際的にはかえって束縛から自由への移行であり得る。選択肢が多すぎると消費者は疲れてしまって結局何も買わない、というのに似ているのかもしれない。決め打ちにすることでかえって煩わされずに他へ集中できる。
 ある制約がかえって自由をもたらすというのはよくあることだ。


 こういう風に書くとまるで相手を、精神安定用の道具としてしか見ていないように見えるけどそんなことはない。まず第一に、この契約は優先順位を相手から一方的に奪うものではなく、贈与もするという相互的なものだ。もし相手を道具として扱うとしても、同時に自分が道具として扱われる。
 それからこれは、排他的にこの相手を選んでなお自分は満足だと確信できなければ成立しない。そういう相手が「たまたま見つかった」という認識ではなく「自ら見出だす」ということが必要になってくる。受動的に偶然与えられた機会ではなく、たとえ実際はそうであったとしてもそれを、能動的な選択として自ら捉え直すことが不可欠になる。そうでなければ「たまたまもっといい人が現れるかもしれない」とあてどもない期待をなお抱き続け、もし実際に「そうかもしれない」相手が現れたら曖昧に優先順位をそちらに移すことになる。それではまるで契約を全うしていない。
 「そう思え」といったってそう思うのは難しい、とさっき書いたけれど、さっきの「私は誰も好きにならない」は現実とは逆方向に思い込むこと=抑制だから難しかったけれど、「私はこの人を選ぶ」というのは順方向に思い込むこと=促進だからそんなに難しくない。
 自分の一度限りの人生において、この相手を固定的に優先順位を一位におくことに心底満足する、そんな確信を形成するのは極めて幸せなことだ。


 実はつい最近まで、流動状態にいるのが当たり前だと思っていた。
 ある他者との関係性は唯一無二の形態であって、「恋人」「夫婦」「友人」「同僚」「兄弟」といったカテゴライズはできたとしても、それらのカテゴリにまとわりついてる通俗的な観念をそのまま適用することはできない、ということを、
  稲垣さんの話のこと考えてた - やしお
とか
  人間関係のデザイン方針 - やしお
とかに書いたこともあって、すごく意識してた。関係性を固定化せずに捉える、ということ自体は別に、そういったカテゴリの中に積極的に踏み込んで、さらにそのカテゴリが持つ特徴を採用してみるという行為を否定するものではないのだけれど、あまりそちらの面を見ていなかった。それで流動状態にいることでかかる精神的なコストのことを無意識に度外視してた。だけど、それに耐えるコストって案外バカにならないんじゃないか、例えばそれによって他が圧迫されてるんじゃないかと急に思い始めた。それはたぶん自分が歳をとってはっきり時間が有限だ、ちゃんと時間配分したい、という意識が出てきたからかもしれない。人のことで自分で勝手に振り回されている時間を払えるだろうかと思うと、できればその時間を他に回したいと思い始めた。
 だけど無化は難しい、それなら例えば固定化してコストを抑えるってのは有効な手段かもしれない、と考えたとき、一般的に結婚は束縛みたいなイメージで流通しているけれど、こうした側面で考えるとかえって自由をもたらすんだなと思って、そのイメージの転倒にちょっと新鮮な気持ちを覚えたんだ。


 ところで「結婚」という言葉で語ったけれど、ここでは極めて限定的な側面だけを見てその他の一切を捨象している。「結婚」がまとう現実的な緒要素(通俗的な観念なり、社会的な役目なり、経済的なあれこれや税制や子育てなり何なり)のこともトータルで考えると、別にここで語ったことを「結婚」という今の制度を使って実現する必要はないって気もする。