やしお

ふつうの会社員の日記です。

「バイオハザードV」、この長大な多重反復の狂気

 「バイオハザードV リトリビューション」を観て、話の展開がないからつまんないんだよね、とか、アリスが絶対死なないってわかってるからハラハラしないんだよね、とか、前作前々作とやってること同じじゃん、と言うのはもう本当に完全に正しい。そしてその正しさは、まるで意味がない。ただやつらの罠にはまってるということを示しているに過ぎない。
 そんなこと全部わかってて向こうはわざとやってるんだ。


 みんながこういう映画を見て普通求めるようなハラハラワクワクは、この映画では徹底的に廃棄されてる。あ、こっから先たいしてネタバレとかないからだいじょうぶだよ。(そもそもこの映画はたぶん、ネタバレという概念とは無縁の映画だしね。)


 たとえばお話の展開。まあ普通は90分なり120分の中で、世界(舞台・人物の精神)の提示(日常)の後、その変容(非日常)と進んでそこから日常への復帰、もしくは変容の受容(非日常の日常化)が描かれて着地することが多いよね。日常の提示の時点ではこれがどう変容するのかという期待でワクワクするし、非日常に突入した後もそこから日常へ戻るのか/戻らないのかという着地への期待でワクワクがある程度担保されてる。でもここではそんな担保、容赦なくかなぐり捨てられてる。
 だって世界の提示はシリーズの旧作でとっくに終わってるし、完結編じゃないから着地はしないことがわかってる。最大の世界の変容というのは訪れっこないと、最初からそういう形で始められて、お話のワクワクは剥ぎ取られてるの。残念でしたね!


 それからたとえば人物への感情移入。まあ普通は人物へ感情移入できるような手配をするよね。ある人物を配して、振る舞いでそのキャラクターを提示して、視点人物との共通点を示すなり共闘させるなりした後、別れを用意して視点人物に悼ませる……
 実は感情移入って、サンクコストみたいなもんで、費やした時間に対してしてるんじゃないかなと思ってる。出会いの場面なり、視点人物と交わした会話なりの量である程度勝手に感情移入が発生してるんじゃないかしら。これだけの時間をかけて見てきた人なんだから、この人は大切な人なんだ、というルールがみんなに刷り込まれてる。
 そんな大切な人が死んだりして突然の別れが訪れる。そして、その人は大切な人だったんだ、という確認作業=追悼を、例えば遺骸を見つめる視点人物のショットなんかをある程度の時間を費やして示すなりしてあげれば、見てる側もその間に視点人物へ同調する余裕が生まれる。
 もちろんそんな余裕は本作に用意されてなどいない。
 だって仲間や昔馴染みがポンポン出てきちゃうんだ。で別に誰もたいしてびっくりしない。アリス(ジョボビッチ)がちょっと「にやっ」とするか「むっ」とするだけ。「ふん、あんたか」の態度。だから見てるこっちも「あ、ここはびっくりするとこじゃないんだ……」ってなる。
 そんなわけで出会いの時間を費やさない態度にふさわしく、別れの時間も費やされない。どんどん仲間が死んでくけど、誰も悼みやしない。死に顔→アリス顔の切り返しが申し訳程度にちょっと入るか、もう何にもなしか(その後の言及も一切ない)。だから見てるこっちは「あ、別に大切な人じゃなかったんだ……」ってなる。
 これはもうわざと排除してるとしか思えないほど見せない。単にその手続きが面倒くさくて放棄した説も考えられるけど、それより、なにかのたくらみだと思った方が楽しいからね。


 あとはそうね、アクションシーンのハラハラ感とか。
 命のやりとりを伴う銃撃戦や格闘シーン。そこでハラハラするのは、ぼくらの大切な人が取り返しのつかない形でやられちゃうかも……という確信のなさにひとつは拠るのかもしれない。
 とりあえず視点人物については普通、前々段で書いたお話の着地点の不明さ・宙吊り状態のおかげで、死んじゃうかもしれない可能性を残してハラハラを支える。ところがこれも前々段で見たとおりここでは着地の不明さなんて消されて常に、アリス(ジョボビッチ)は死なないという確信をもたらしてハラハラは消滅。(アリスの不死への確信は、本作以前の記憶によっても支えられているが。)ゾンビどもの攻撃をどれだけ食らおうが避けようが、アリスは死なないと確信してるのにハラハラしようがない。
 またそれ以外の人物については、前段で見たように「大切な人」である契機をあらかじめ奪われているのでだいじょうぶ! うーん、まあこの人はこの戦闘で死んじゃってもいいよね……とついつい思わせてしまう。
 そんなわけで誰が戦っててもどきどきしない仕組みがしっかりと作られてるんだ。



 どきどきも、ハラハラもワクワクもことごとく剥ぎ取られ、通常の意味での刺激が全て周到に回避されている映画。
 じゃあいったいこの映画は何をしているんだ? っていう。そりゃもう見たまんま。アリス(ジョボビッチ)がボコボコにされる→失神→復活のサイクルをひたすら見せること。ただそれだけだ。


 生理的などきどきポイントを徹底的に回避するという振る舞いのおかげで、とりあえずアリス(ジョボビッチ)をボコボコにする理由をでっち上げるためだけにあれこれ整えてるように見えて、この果てしないボコボコ→復活サイクルが相対的に強調されるってシステム。
 それにこのサイクル・反復を強調する仕組みはほかにもまだある。
 例えばこの映画ではアリスの死んだはずの仲間や敵がこぞってクローンとして登場する。いっぺんやられたのに復活する、という形式はアリス(ジョボビッチ)と共通。けれどアリスが彼らを引き離して特権的なのは、彼女だけがこの反復を通じて自身の体を保持しているということ。ほかの再登場人物や敵は見た目は全く同じでも肉体は別物という点でアリスだけを強調するんだ。
 それから他のゾンビたちもアリスを強調する。よく考えたら、やられたのに自分の体で復活する、って形式はアリスもゾンビも一緒。アリスにもゾンビ性があるってことだね。でもゾンビたちが「いっぺんだけ復活する」(ゾンビのときにやられたらもう死ぬ)のルールに閉じ込められてる中にあって、アリスだけが「何度でも生き返る」。そんな際立たせ方。
 そうやってアリスに生じる反復が浮上する。


 そして何よりおそろしいのは、「反復すること」を語る映画それ自体もまた反復する、という構造……10年以上にわたって、5作にわたって、女をボコボコにして復活させるという反復を反復するという(しかもまだ続くという)……もはや狂気!
 前作前々作とやってること同じだよね、という感想は正しい。けれどその正しさをもってただつまらないと呟いて済ませる鈍感さに恵まれたのなら幸せだ。この長大な多重反復の狂気を目の当たりにしておののかずにいられる幸せを祝福せずにはおかない。


 さて、ひたすらアリスの傷つきと回復を、映画それ自体さえ反復させてまで提示し続けた果てに、いったいこの狂気のシリーズをどう終わらせるんだ、って疑問がわくかもしれないね。知らないよそんなこと! そんなことぼくの知ったことじゃないです……
 ただ実は、ぼくは半分本気で、このまま釣りバカ日誌みたいに続けてくれればいいなあと思ってる。20年後くらいにはもう3Dを通り越してアリス(ジョボビッチ)(ばばあ)がホログラムになって劇場を走り回ってボコボコにされるくらいの。目の前で伸びてるばばあ。無限に引き伸ばされる狂気。
 もう半分の本気はもちろん、このひたすら無益な反復を引き受けるにふさわしい、現在のぼくらが想像もできないような形式による解消が目の前に立ち現れるという事態に向けられている。