やしお

ふつうの会社員の日記です。

映画のあたりまえが崩壊する瞬間

 北野武の「アウトレイジ」で好きなシーンの一つに、道路を渡るときの仕草がある。
 ラーメン屋に椎名桔平森永健司の二人が入ってくるショット。ラーメン屋のガラスのドアごしに、遠くから近づいてくる二人の姿が映される。道路を渡るときに、二人が同じタイミングで左側にふと顔を向ける。
 たんに「道路を渡るときに車がきてないか確認する仕草」と言ってしまえばそれまでだけど、こうした「画面の外側」をふいに意識させられる瞬間というのがたまらなく幸せなんだよ。


 同じように井口奈己の「人のセックスを笑うな」で蒼井優が、あまり親しいわけでもない人の個展にきて、椅子にすわって手持ち無沙汰にしてるシーン。突然蒼井優が画面の左外側に手を伸ばしてクッキーか何かを手にとって食べる。
 これもたんに「暇なのでクッキーをもぐもぐしてる」と言ってしまえばそれまでだけど、それなら画面の中にクッキーの器を置いておけば済む話なのに、そうはなっていない。


 「作中人物が画面の外を見ている」という画面自体はありふれている。例えば人物が会話していて二人のカットが交互に並ぶとき、それぞれは画面の外にいる相手を見ている。あるいは人物が画面の外に手を伸ばすということもそれなりにあるかもしれない。ただしその次には彼/彼女の手元のカットが入り、いったい何に手を伸ばしたのかが自然に了解されるようになっていることが多い。
 そうしたあらかじめ了解されているショット、説明に奉仕するショットというのはありふれているけれど、先に挙げたような、物語からすればあってもなくてもいいような、無償の瞬間というのは案外見かけない。「各ショットはストーリーを支えていく」といった普通さ、あたりまえがここでは崩れている。


 それから、もともと映画はフレームで空間を区切っていく原理的な不自由さを持った形式だけど、ふだんはそんなこと忘れて見てる。でもさっきの無償の瞬間において、そうした忘却した前提がふいに立ち上がってくる。ここでもあたりまえが崩される。
 しかもそれら「あたりまえ」をただ崩すだけなら簡単だけど(へたくそに撮れば勝手にそうなる)、そうした普通さを高度に実現しつつ、同時に崩してるんだ。そうしないと「崩れた」ってことがわかんないしね。
 そうやって思い込みがひっくり返される瞬間に、とても大きな感動をおぼえるんだ。


 もちろん画面外への動き以外にもそんな感動を与えてくれる瞬間はいろいろある。
 アッバス・キアロスタミの「そして人生はつづく」の中でとつぜんスタッフらしき人が画面の中に入ってくるところがある。それで登場人物のおじいさんと普通に話してるんだ。そして何事もなかったかのように映画は続く。「フィクションはそれをフィクションと感じさせないように偽装する」というあたりまえが破れている。
 はじめからメタフィクショナルな作品で「これは作り物なんですよ」とやるなら簡単だけど、そうじゃなくてとてもさりげなく、極めて自然に、けれどあたりまえからは決定的にズレてしまっている。


 あるいは画面に限らなくても、説明に隷属しないものはいくらでも見いだされる。例えば音にしても、優れた映画には環境音がとても豊かに入っていたりする。セミの鳴き声や風の音、遠くで車が通る音などが、ささやかに、でも確実にずっと聞こえているというような。舞台を説明するという目的を越えた過剰さで、ただ無償に聞こえ続ける音がある。
 最近だと黒沢清の「リアル」が、人物の意識内という設定なのにそうした環境音を豊かに入れていてとてもうれしかった。


 そうした感覚、形式それ自体に向かう意識や疑いに欠けているように見える映画は、どれだけストーリーやプロットが面白くても、その2時間がひどく退屈で苦痛なんだ。


 このあいだ見たバズ・ラーマンの「華麗なるギャツビー」は、セットも衣装も豪華で、お話もどんでん返しがあってすごいと思いながら、どうしても退屈だった。例えばギャツビーの名を聞いたキャリー・マリガンの動揺を彼女が目をしばたたくことで表現するとき、いくらなんでもあんまりだ、という気になる。「物語は人物の内面を描写する」というごく通俗的なあたりまえへの疑いに欠けているように見えてしまう。
 そうした点へ疑いを持った人たちは、「カメラは人物の内面など絶対に映し得ない」という極めてまっとうな認識に立つことになる。例えばワン・ビンの「三姉妹」で10歳の長女が仕事を終えて山を一人で降りる途中で立ち止まり、岩の上に腰掛けて少し休憩するとき、ただ遠くを見つめている表情。あるいはジャ・ジャンクーの「世界」で言葉の通じないロシア人の同僚とふたりきりで食事にでかけた帰り、走るトラックの荷台の上でチャオ・タオがただどこかを見つめている表情。持続する時間の長さと表情の無償性で意味が引き剥がされる。突然突き放されたようになって、それを見ているぼくらはただ呆然としてしまう。あたりまえに生きてる意味だらけの世界がとつぜん剥ぎ取られることに感動するんだ。


 あと「ギャツビー」である女が車に轢かれる、物語においてとても重要なシーン。空中に跳ね飛ばされた女の視線と、それをオープンカーの中から見上げる男の視線がカットの連鎖により合致する。それがスローモーションで描写される。
 これが例えば北野武だったら、かなりカメラを引いて真横から捉えて、ほとんど冗談みたいにあっけなく、スローモーションなんて使わずに人を跳ね飛ばしたりしてくれるんだろうなとつい夢想してしまう。「ドラマチックな出来事はドラマチックに撮られるべきだ」のようなあたりまえを外して、なおかつひどく鮮やかにおさめてみせてくれるのにな。
 あとは車の衝突で言うと、どうしてもトニー・スコットの諸作品の記憶がちらついてしまう。ほんとうにストーリーとは全く無縁のところでいつも車が派手にクラッシュするんだ。「サブウェイ123」や「アンストッパブル」のような電車が主題の映画でさえ、やっぱり無意味に車が宙を舞う。ストーリーには収まらない無償のクラッシュ。


 なんかさいご「華麗なるギャツビー」の悪口みたいになっちゃったけど、この映画が悪いだなんてこと言いたいわけじゃない。「あたりまえ」をぴったり実現して普通にお話しをまとめるだけでもとても大変なことだ。それすらできてないものもいっぱいあるわけだしね。
 でもそうした「あたりまえ」を実現しながら、同時にその価値を一瞬つき崩して途方も無い気持ちにさせてくれるような映画が確かにいくつもあるんだってことを思い出してただけだよ。