やしお

ふつうの会社員の日記です。

死神に触れる:「オンリー・ゴッド」

 私たちの目に死神は映らない。両手に余るほどの作品で「死神」たちが登場してもそれは、人間のコスチュームプレイに過ぎない。たとえ卍解して人間離れした圧倒的な力を誇示しても、存在の様態として人間でしかない。「私は死神である」、「この者は死神である」といった宣言によって存在は死神になるわけではなく、存在のあり方によって存在は死神になるのである。
 そして私たちは「オンリー・ゴッド」(Only God Forgives)の中で死神に近い何かに出会うことになる。


 ニコラス・ウィンディング・レフン監督・脚本によるこの映画を、「若いアメリカ人の男が、兄を死に追いやったタイ人の警察官に復讐する話」と要約することはできる。確かに外形的にはそうなっている。あるいは確かに主人公の母親が「兄の仇を討て」と復讐を煽り立てもする。
 しかし実際に目にした私たちはそんな要約を承服できない。いったい主人公とタイ人のおっさんとの間に復讐と呼ぶに相応しい憎しみの感情が生じた瞬間などあっただろうか。主人公には苛立ちや悲しみといった感情がかろうじて見られはしても、おっさんが喜怒哀楽の感情を表出させたことなどあっただろうか。
 背中に仕込んだ刀を抜き容赦なく悪人を斬るときも、悪人に苛烈な拷問を加えるときも、彼は憎しみとは無縁だった。これは「脳男」などのように感情の欠落を描いているわけではない。娘のお守りをする女性にねぎらいの言葉をかけたり、同僚の警察官たちの前でカラオケを熱唱したり、人間らしい振る舞いを見せる。しかし彼が何を考えているのかはわからない。記号としての感情は提示されない。
 欠落を描くことと、欠落を欠いていることは全く異なる。「戦闘力の高いサイコパス」と理解して済ませられれば容易いが、そうした理解には収まり難い相貌を示すのである。


 私たちはそんな存在に既に触れている。例えば北野武の「座頭市」がそうだ。超越した戦闘能力で敵を斬り伏せても、座頭市は憎しみや怒りを表明しない。他人と会話してへへっと笑ってもそこに了解可能な感情は見つからない。出自が明かされることもなく、ただわけもなくいる。ただ存在して、斬っていくだけだ。


 「座頭市」と比べると「オンリー・ゴッド」のタイ人のおっさんはより「死神」的である。
 彼は自己というものを見せずに、当然のこと、すでに決まっていることのように悪人を斬る。このとき彼は「お前は娘の監督を怠った」などと相手に罪状を言い渡しもして、合理的に私たちが納得可能な状況で斬る。
 また映画の全体が物語としての構造化を阻むように状況説明を排除して作られている。私たちの理解を越えた存在であるという「神」の雰囲気を濃く漂わせていく。その上作品名がOnly God Forgivesである。たしかにラストシーンで主人公がおっさんに言葉に依らない許しを乞うことになり、彼が「神」なのだと暗示される。
 人為を越えた戦闘力、断罪の振る舞い、説明を拒否する作品態度、それらによってタイ人のおっさんは人がイメージする「死神」に近い存在になり得ている。


 ところがそれは、私たちが「死神」として了解し易いという点で、より本源的な死神としての様態を「座頭市」に譲ることになる。神は人の了解の範疇から免れる。
 座頭市は罰しない。より無根拠に斬る。そして「座頭市」という作品はお話としての構築を拒まない。私たちに馴染み深い形式の中で座頭市は姿を現す。人は座頭市を見て「まさに死神だ」とは思わない。
 怒りや憎しみ、喜びといった緒感情から疎外され把握しがたい相貌を帯びる点、それでありながらなお人間としてそこに存在する点で、座頭市とタイ人のおっさんは共に神的である。しかしそれらの点がより徹底しているという意味で、座頭市は世俗的な「死神」観から身を引き離し、死神により接近していく。
 とは言え死神に触れ得る機会をほとんど失っている私たちにとっては、例え「座頭市」と比べてより人間でしかなくとも「オンリー・ゴッド」を貴重な作品だと思うのである。