やしお

ふつうの会社員の日記です。

兵庫県議会見 再現用メモ

 以下の理解が「正解」かどうかは私自身にとって問題ではなく、彼の内在的なロジックを自分なりに把握して、そこから私自身の中で整合性を持って彼を再現できることを目指している。




 本人の意識としては「政治という大義をかかえている中で、政務調査費の処理という些末な問題で足止めされる私は悲劇のヒーローである」「そんな些末な問題にも会見を開いて説明する自分は立派である」。


 大きな言葉を並べていく。「西宮のみならず日本中の問題」「少子高齢化問題」「死ぬ思いで」「代表者たる自分」「この世の中を変えたい」。大仰な言い回しで「大義をかかえた自分」、「すごい自分」を確認していく。
 「すごい自分」の物語に感動してしまうため大仰な言い回しの後に泣き崩れてしまう。特に「のみならず」が言い切れずに嗚咽するのは、「大人らしい言い回し」に差し掛かると「大義を抱いた立派な議員たる自分」のイメージが沸き出してしまい感情の抑えがきかなくなるため。


 「すごい自分」を作って自分を肯定するのは、幼児が一般的にとる戦略である。自分はスーパーヒーローだ、特殊能力がある、等々。
 自分自身を肯定すること自体は子供も大人も関係なく必要だが、その方法が成長に伴って変化する。大人になるにつれて、自分だけが都合よく思い込んでいる「すごい自分」によってではなく、実態を伴った行動によってこそ、他人の尊敬は勝ち得るものだと気づいていく。そして次第次第にプラクティカルに他人の尊敬を得て自己肯定する方法を身に付けていく。それは他人が何を望んでいるかを理解する、相手の立場や思想や経緯を理解する、といった志向や技術が含まれる。そのようにして他人が認め得る形での「すごい自分」を目指すことになる。
 しかしこの認識の変化が起こらないまま大人になっていく人が少なからず存在する。かつて「銭形金太郎」という貧乏生活を送る人をリポートするテレビ番組で、20歳を過ぎて野球経験もないのにメジャーリーガーになれると心底信じている人が登場していた。
 彼らにとって「すごい自分」は、自分がそう思っているのだから他人からもそう見えているはずだと信じている。自分が思う自分と、他人が見ている自分との分離が、そもそも存在していない。そこに差があるという認識がそもそもない。


 (泣き崩れる前の)回答においてセンテンスが異様に長く論理的な構築ができていない。また、記者の質問からずれた答えを繰り返してしまう。
 いずれも「他人から見えている自分」という意識が上記の通り根本的に存在していないために起こる。相手が知りたいことは何かを把握すること、それを構築して伝えること、という意識が存在しない。大人が普通、相手の期待に応えることによって相手の尊敬を獲得したいと考えるのとは異なり、彼らは自分が想像する「すごい自分」のイメージを出力することにしか意識が向かわない。それは幼児が、ヒーローの必殺技を物真似して悦に入ることと同じである。
 大人っぽい言葉、議員っぽい言葉、かっこいい言い回しを連ねていくことが、それである。論理的に破綻し、中身を伴わない長大な口上を「質問への回答」として語ることは一見異様だが、そのように考えれば自然に理解できる。


 そうした意味で、彼の姿を見て「子供によく似ている」という印象を抱いたとしても、それは妥当である思われる。


 例えば自身がメジャーリーガーになれると確信していた野球未経験のあの青年が、現実にメジャーリーガーになれるはずはない。自分が考えただけの「すごい自分」がそのまま実現されることなどあり得ない。ところが彼の場合は偶然にも議員に当選してしまった。あり得ないことがどういうわけか起こった。その上、政務調査費の問題によって、さらに偶然にも多くの人の目に触れることとなった。
 オフィシャルな形で大人の幼児的な号泣を目にし、記録されるというのは極めて稀有なことだ。この奇跡を前にして、せめていったい何が起きていたのかを自分なりに把握して、再現できるようにしたいと思った。