やしお

ふつうの会社員の日記です。

しゃもじで穴を掘るような貧困

 貧困女性についてのネットの記事で、ブックマークのコメントに「本人たちが救われようとしてない」と書いてる人をみかけた。一瞬激しく苛立って、それから強い脱力感に襲われた。
 外側からはどう見ても頑張っていないように映ったり、手を尽くしているようには見えなかったりするっていうの、わかるよ。でもそれは、貧困のなかで生きる人の内在的な論理をじゅうぶんにわかっていない。
 「救われようとしてない」というのは、選択的な意思の問題だと思ってる言い方だ。でもそうじゃないんだよ。「救われる」というイメージをそもそも共有してない。自分で自分を変えることができる、自分の世界を意識的にアレンジすることができる、そもそもそういう感覚を持っていない。
 当たり前にできてる人からすると、そもそも「ない」ってことを想像するのがかなり難しいから、無邪気に「どうしてそうしないの?」と言ってしまう。


 たとえば「平均」って概念が当たり前になってる人にとって、なんかバラついてる数値の集団を見たら「じゃあ平均とってみるか」と思ったりする。もうそれが当たり前になって何十年も生きてて、自分の周りにも当たり前にわかってる人しかいない中で生きていると、もう「平均を知らない状態」なんてわかんなくなっちゃう。
 バラついてる数値を前にして「バラついてるなあ」と思って、ただぼんやり眺めているばかりの人を目にすると(えっなんで平均とろうとしないの??)ととにかく不思議でしょうがない。「平均をとれるのに、とろうとしない人だ」という理解しかできない。そもそも「平均」という概念を共有していない人だなんて、まるで想像の範囲外なんだ。(ただ、そんな人も別の人からは「標準偏差を見ろや」と思われてたりしてレイヤーになってる。)


 貧困に陥っている人は、「今の現実」が固定条件になってることが多い。
 たとえば家計をスマホ代(通信費)が圧迫していたとして、「スマホを持たない」といった選択肢を検討したりできなかったりする。持つことが当たり前だと漠然と思いこんでいると、もうそこを疑ったりはできない。全体を見渡して、取るもの・捨てるものを選んでバランスを取るといったことができない。ここにお金を出すことは許して、ここは諦められる、といった判断が難しい。自分が好きなこと・嫌いなことを、自分で変えられるという認識がない。
 根本的に、自分自身や周りが変わることに、喜びやわくわく感を見出すタイプと、不安を見出すタイプに分かれている。そのグラデーションのなかで、後者に寄っているんだ。(どちらのタイプかは、子供時分に周りの大人が彼/彼女の行動をどう評価したか、その成功/失敗体験に大きく影響されるのかもしれない。)
 だからもし、誰か他人に「ここをこうして、ああして、こう運用していけば上手くいくんだよ」とアドバイスをされても「そうだね」と言いつつ、次に続く言葉は「でもいいよ」となってしまうんだ。


 そんな彼らに「もっと頑張れよ」と言うなんてとんでもないことだ! 全くの無理解に根差した発言だ。たしかに「引いて全体を見る」、「取捨選択をする」、「仮定を疑い直す」等々の技術が、もはや意識にのぼらないほど身についてる人にとって、最大限に手を尽くしていないように見えるだろう。なまけているように見えるかもしれない。でも、そうじゃないわけだ。
 彼らが現実を固定で不可避な条件とみなして、自らの振る舞いを決めているのだとすれば、むしろかなり強い制約の中で奮闘しているのだ。あなたがシャベルで悠々と穴を掘っている隣で、彼は必死にしゃもじで穴を掘っている。あなたがシャベルを、彼がしゃもじを手にしているのは全くの偶然に過ぎない。それなのに、自分と彼の穴の大きさだけを見比べて、「もっと頑張れよ」だなんて声をかけられるのか?
「おれだって頑張ってる!」という悲痛な反発を食らうだけだ。


 漫画の「ヒカルの碁」を中学生のころに読んでいた。そこに伊角さんという、実力はあるがメンタルがいまいち弱くプロに上がれずにいるお兄さんが登場する。彼が武者修行に中国の棋界へ身をおいたとき中国人棋士から、プレッシャーや焦りをコントロールしろ、「元々の性格なんか関係ない 習得できる技術さ」と言われて驚くというエピソードがある。
 そのとき伊角さんもずいぶん驚いていたけど、中学生の私もかなり驚いた。ほんとに目からウロコって感じだった。「自分の性格はこうだから」というのは思い込みに過ぎない、なんて考えたこともなかったからびっくりして、あ、そうかと思った。
 これ、もし「ヒカルの碁」で読まなかったら? 読んでたとしてもなにも引っ掛からなかったら? その後どこか別の機会に気づくかもしれないし、今も気づかないままかもしれないと思うと、シャベル持ってるかしゃもじで穴掘ってるかなんて本当にたまたまでしかない、としか思えない。


 しかしつらいのは、「シャベルという便利な道具がありますよ」といっしょけんめい伝えても、道具を変える不安に押し戻されて「でもいいよ」と諦められてしまうということだ……
 もはや相手から管理権を奪って無理矢理コントロールを代行してしまうか、ものすごく根気強く小さな成功体験を重ねられるように仕向けて、変化の恐怖を緩和していくしかないのかな。


※この話、ついこの前書いた「友人に金を貸す話」(http://d.hatena.ne.jp/Yashio/20141217/1418822043)とまるで変わんないこと言ってるけど、なんかあのブコメ見て(うおーっ)ってなったから。