やしお

ふつうの会社員の日記です。

コスプレ映画

 漫画を実写映画化して起こる悲しい事故、モデルの服にあこがれてとんでもないことになるのと似てる。
 かっこいいなと思ってモデルの服をそのまま着て、むちゃくちゃなことになる。欠けてるのは「私の目的は『あのかっこよさを自分の上に実現させる』ことであって、『あの服を着る』ことでは(必ずしも)ない」という認識。
 背の高さ、顔の造作、髪の色、髪質、肌の色、骨格、現実のもろもろの所与の条件から影響を受ける。そうした条件から可能なメイクや髪型も決まってくる。それらとバランスをとって衣服を選択してはじめて「あのかっこよさ」が立ち上がってくる。それから一体「あのかっこよさ」を何が成立させているのか、構造を把握する必要もある。私があの服を着たモデルを見て私が魅力を感じるのは何故なのかという分析。その構造を、自分の現実の条件の上で再創造して、ついに「あのかっこよさ」が実現される。


 同様に「私の目的は、あの漫画の面白さ(かっこよさ/わくわく/じんわりくる悲しさ、等々)を映画として実現することであって、あの漫画をものまねすることでは(必ずしも)ない」という認識がどこまで貫かれるかによって、その映画が滑稽な悲劇、たとえばコスプレ大会を2時間も見せてしまうような悲しい事故に陥るかどうかが決まってくる。ファッションショーでモデルが着るモード系の服 - 日常で私が着る服、くらいの遠い距離が特に、バトル系漫画 - 実写映画、の間に横たわっているのだから、この決意を維持していないとすぐに迷子になってしまう。
 そうして監督ひとりが固く決意していたのに、すでにゴーが出された脚本は原作のエピソードを無理やり詰め込んだもので、金をはたいた主演俳優は喋らせるとお遊戯会になってしまうし、ネット上に湧いて出る原作厨どもは黙殺するつもりでいたのにどういうわけかプロデューサーが原作厨で、原作に忠実であることが求められる……そうして結局、2時間のコスプレ大会が完成、原作厨ともども観客に嘲笑され、制作費も回収できず、俳優陣にとっては消したい過去、などという事故が起こるのが楽しい。みんながよかれと思ってしたことが結果的にひどい事故に至る。


 でもそうやって、コスプレ映画だ、ただの事故、わーいって侮ってると足元すくわれる。「ALWAYS 三丁目の夕日」とかも、コスプレにならざるを得ない、CGだらけにならざるを得ない、そうした制約を引き受けた上で何ができるの、ということをやってる恐れあるので、ちゃんと見直す必要ある気がしてる。「るろうに剣心」もかなり意識的にコスプレを回避しようとして結局コスプレ感から免れられない作品、そして衣装以前に演出がテレビなのでどうしようもない作品、と馬鹿にしてるけど、バトル漫画の戦闘を実写でどう折り合いつけるのかは相当真剣にやってるので、もっとちゃんと見直す必要ある。
 「あとで見る」とタグ付ける人はたいてい読み返さないし、「考えさせられる」というコメントは何も考えてない証拠なのと一緒で、「必要ある」とか書いてる時点でもうやらないんだろうな、そう思ってる。