やしお

ふつうの会社員の日記です。

俺の中で、腐女子という装置が

 妻が腐女子だという職場の若い男性社員たちに、「おそ松さん」がどれほどの人気か聞いてまわっている。しかし夫の方に十分な知識がないから、今は一カラがメインストリームのカップリングだ等々教えて、馴化させようとしている。そうやって妻への理解を促進し、夫婦円満、精神衛生の向上、仕事の生産性の向上をもたらす。すべては会社のためだ。俺は組織のために、「おそ松さん」のBLとしての楽しみ方を男性社員に説いて聞かせている。


 しかし俺がいったい、腐女子の何を理解していると言うのだろうか? 感覚的にわかる。なぜなら俺自身が腐女子装置を内在化させているからだ。だがそれは、ただそれだけのことだ。ある感情を感じるからといって、「どうしてそう感じるのか」を理解しているわけではない。いったい俺の中で腐女子という装置はどのように作動し、この俺に、彼女らに、あの心のうずきをもたらすのか。


距離

 BLは「距離」と「空隙」をもたらす形式だ。
 ロマンスという物語は距離をゼロに漸近させていく運動だ。だから最初に距離の設定が不可欠になる。金持ちと貧乏人、遠距離恋愛、非業の事故死、ありとあらゆる距離をつくりだして、いかにその距離を埋めていくかを見せていく。「ロミオとジュリエット」は敵対する家柄、「高慢と偏見」は大貴族と地方の中小貴族、「タイタニック」は一等船室と三等船室といった距離を設定して、それを廃棄していく。
 現代を舞台にすると身分差や貧富差を利用しづらい中で、BLは男同士という距離を提供する。


すき間

 一方で空隙、すき間は、実際に腐女子装置がはたらいて心がうずくあの瞬間を思い出せば理解できる。アニメや漫画を見ながらふいに、ああだったらいいな、こうだったらいいなと思う。(「いいな」は「萌える」と言い表されることが多い。)そこにすき間があるからだ。ヒントが散りばめられた中で、隠された「正解」を腐女子装置は発見する。


 そして現実にpixivでも眺めてみれば「おそ松さん」の5話が終了してすぐに、あっという間に「すき間」が埋められていった様を目にすることができる。アニメで描かれていない、十四松が一松のために猫を探しているときの話、ぞんざいな扱いを受けたカラ松を一松が慰める話、公園からの帰り道に以前(4話以前)一松にひどいことを言ったと後悔するトド松を一松が慰める話を、みんなが描いて埋めていく。はしたないほど圧倒的な早さと力で、腐女子装置はすき間を俺たちに埋めろと迫る。さながらそれは、ある有効な理論が発見されるとすぐに、世界中の研究者たちが実証実験や応用、補間の論文を出していく様のようだ。


 BLは大きなすき間を提供する。原作でそもそも語られていないし、触れられていないからだ。「おそ松さん」の中でゲイであるとを明示された人物など一切存在しない。BLはすき間で遊ぶ=「正解」を探す余地が大きい。
 そして作品としても、素材が多く、すき間の大きい、日常系や部活もので人気が起こる。素材がまるでなくては料理もできないし、完全に調理済みの品を提供されたらそれ以上料理する余地がない。この玉ねぎをどうしようかしらと考えるわくわくがない。


現象1:全員ホモ前提

 BLは距離と空隙を提供するが、どちらも社会通念である「性愛は男女のもの」という基準との差によって機能している。そこが消滅すれば、距離=ハードルとしての機能も消滅するし、原作で男同士の性愛がもとより描かれていればそこでBLを遊ぶ空隙が消滅する。
 二次創作で全員ホモ前提みたいな作品が結構ある。これは「BLは距離を提供する」という話と背反するように見える。「男同士であること」が距離として機能していないからだ。(そもそもロマンスでもない。)これはすでに、一度BLを受容して男同士であるということに慣れきってしまうと、本人の中で「性愛は男女のもの」の自明性は消失するからだ。
 ただし、本人にとっての自明性は消えたというだけで、社会通念として存在するという当人の認識が消えているわけではないため、必要に応じて「男同士」という距離に基づいたロマンスを語ること・楽しむことはいつでもできる。
 「慣れる」ことによって、もうホモになってる話も、これからホモになる話も両方楽しめるようになっている。


現象2:女体化、オリキャラ、未来ものがあまり好まれない

 原作にBLという形式を組み合わせたときに、一体どこまで原作のレギュレーションを保持するのか、原作に対する距離の取り方にはいろいろある。


(1) 【原作に対して過不足ない】 原作をそのまま楽しむだけ。(ああだったら、こうだったら)と考えない
(2) 【原作の不足を補う】 原作で言及されているが描かれていない範囲を描く
(3) 【原作に抵触しない程度に過剰】 原作舞台のまま、原作で言及のない範囲を描く
(4) 【原作に抵触する程度に過剰】 未来もの過去もの、オリキャラ、女体化等
(5) 【原作をほぼ無視】 別作品同士のキャラの性交等


 1から5に向かって原作との距離が広がり、また1〜3までが原作のレギュレーションを比較的忠実に維持している。
 1はそもそも二次創作ではなく、5はほとんど見られない。(5はナルトのキャラとブリーチのキャラをセックスさせてみましたみたいな作品で、男性作家の一部か海外(欧米?)の作家で見かけられる程度。)4は「女体化注意」、「オリキャラ注意」とわざわざ注意書きが書かれることがあるところを見ると、それなりに嫌っている人が多いようだ。


 2、3が主というのは、自分の中の腐女子装置の実感としてもよくわかる。4以上の原作レギュレーションを超えてしまうと、もう書き手と読み手の前提が共有されなくなってくる。将棋を指していたらオリジナル駒を打たれたとか、サッカーの試合で急に手を使いだしたとか、それはちょっとねという感覚だ。あるルールがあって、その制約の中でどれだけ創造的に高度なプレーを見せる/見せられるのかが愉しみなんだ。
 この制約下での創造性の悦びといったものは、原作との距離感を横軸にとると、情報理論エントロピーの釣鐘曲線みたいな感じになるのではないか。確率100%と0%は両方情報量はゼロというあのグラフに似て、完全に原作そのままと完全に原作無視は変わりないというイメージだ。


現象3:カップリング論争

 そいつが攻めなのはおかしい。このカップリングは違う。といった論争(?)が起こるのは、それだけ本人の中で(自覚はなくとも)正確にシステムが作動しているということだ。内部で明確にある論理的な整合性をもって腐女子機構が作動している。その確信がある。しかしそれが人によって異なるのだ。
 例えば一カラがメインストリームだというのも理解できる。しかし攻めは十四松とトド松だけと言われるとそれもわかる。例えば前者はキャラクター(性格・性質)の組合せで生じるコントラストを考えた時にそうした結論に至るだろうし、後者は単体のキャラクターと「攻めであること」とのコントラストを考えるとその結論に至る。前者が性愛なら後者は性欲に基づく判断といった様相で、後者を公言するのは少し恥ずかしいみたいな意識がある。
 同じ食材を使っても、日本料理としての正解と、フランス料理としての正解はおのずと異なるみたいなものだ。そうした方向性の違いにより「正解」の違いが生じる。(ちなみに、キャラクターの特徴がはっきりしている/分かり易いということが食材としての味の出し易さ=物語への組み込み易さにつながるために、いまいち特徴のないおそ松がやや不人気になったりしている。)


 また方向性のほかに、精度の差もある。
 最初は油分と塩分で「おいしい」という味覚も、トレーニングによってより微妙な味わいを感じられるようになる。「味がしない」と思っていたお吸い物を「おいしい」と思えるようになる。最初は原作が提示する男女のカップリングで満足だったのが、BLへと向かい、積極的なキャラだから攻めという素直なカップリングから、積極的で元気なのに受けなの萌えるといったより微妙な方向へと進む。ズレに対する感度が上がって大味なものを退屈だと思うようになる。


 腐女子装置の方向性と精度によってカップリングの「正解」が定まる。本人としては明確に「これが一番ぴったりくる」、「これはちょっと違う」という感覚が生じる。


現象4:腐女子装置を持つのは女性の方が多い

 ここまでの話では消費者/生産者が男性であっても成り立つはずだが、実際には人口比が女性に偏っている。
 男性の方が当事者意識が出てしまって押し下げるハードルが高いというのはあるのかもしれない。しかしそれだけではなく、女性の方が環境整備が整っているという面もあるのだろうと思っている。以前、少女向け漫画雑誌(なかよし)を試しに買って読んでみたところきちんと、男女の恋愛漫画、ファッション、BLそれぞれの入り口が用意してあってとても感心した。雑誌の中に萌芽が盛り込まれているという感じだった。これならBL方面へもすんなり行けそうだと思った。
 その正門から入ってきましたという人がどれほどいるのか性格には知らない。しかしすでに十分に浸透しているところへは新規入会のハードルも低そうだ。


 男女の性愛は本能ではなく、社会制度や通念による教化のたまものだという認識でいる。その仮定を採用した方が説明できる物事が多いからだ。(たとえば岸田秀の『ものぐさ精神分析』にそうした論が十分説得的に展開されている。)
 実際、自分の記憶でも小学生の時点では恋愛は男女を当然視しており、男同士は(えっなにそれ……おかしくない……?)とほとんど想像したことがなかった。しかしその後慣れて中学2、3年のときにはやおいのお漫画も読んでいた。ただきっかけが何かあったのかどうか記憶がはっきりしない。
 男性であっても例えば男の娘あたりの通用門から入場してくる人もいるだろうし、慣れの問題だと考えている。ただ現状、参入に際して女性の方が環境面で整っているように思われる。


現象5:腐女子でない人

 腐女子という装置が発動しないのは、性愛は男女のものという通念に阻まれているだけでなく、物語を語りたいという欲求が薄いという点もある。
 腐女子に限った話ではなく、誰でもがそれなりに「知っている物語のモジュール」が再現されることの快楽を内在させている。幼い子供でさえ既に知っているお話を何度も読むようにせがむし、大人が間違って読めば怒る。そして成長するにつれて「同じお話」から「同じ構造」になっていく。お話の形であったり、要素であったりの同一性、定型が身についていく。それはままごとや人形遊びの中で繰り返し再現される。自分の場合はガンプラを動かしながら何か「かっこいい場面」や「かっこいい台詞」のようなものをひたすら並べて遊んでいた。
 その延長上に萌えの機構がある。アニメや漫画を見ながら、「知っているモジュール」の構成要件が成立したのを関知すると、そこで心のうずき、萌えが起立する。音楽(和声楽)でドミナントサブドミナントにいたらトニックに解決してほしい、というのに似た感覚かもしれない。
 <そこにすき間があるからだ。ヒントが散りばめられた中で、隠された「正解」を腐女子装置は発見する。>と最初に書いたのはこのことだ。


 自由に物語っているという意識が本人にあったり、あるいは他者からそう見えていたとしてもそれは、モジュールの記憶の、膨大な集積によって組み合わせ爆発が起きているために、あたかも自由に語っているように見えるに過ぎない。


 ところがこうした解決への欲求は、参照すべきパターンの集積がなければ起こらない。お話の定型をたくさん持つようある種の訓練がなければ、原作に要件が生じても気づかずスルーしてしまう。それで原作を全くそのまま受け入れて満足する人もかなりいる。あるいは持っていても適用するという習慣がなければまたスルーされる。
 同じように毎日食事をしていても、食に興味のある人ならその毎日の食事を足掛かりに一段一段、味覚を発達させていっても、そうでない人ならただ満足して終わる。こうして日に日に差が広がっていく。
 食に関心があって味覚を発達させた人から見ると、(こんなに鈍いなんて理解ができない)という気分になる。そうして「腐女子じゃない女性なんていないんです!」などという暴言も可能になる。


夫を馴化させる道

 BLは一旦受容されれば「距離」と「空隙」の機能提供をすみやかに始め、人の内部で腐女子装置を駆動させていく。しかし駆動するには「性愛は男女のもの」という通念の廃棄と、物語への欲求が必要になる。この二つのハードルをクリアしなければならない。原作をわずかに補間した程度で、ほとんど恋愛感情すら定かでない「ちょっとイイ話」ぐらいの良質な漫画から始めて、大量に入力していき若い夫どもを徐々に馴致していくしかない。しかしそんなことが可能なのか? 業務時間中に? 仕事を放っておいて?? これではダメだ。組織へのリターンより、コストの方が大きくなってしまう。方法を考えなくてはいけない。俺は組織のイヌなのだから。


 最後に念のため俺の立場をはっきりさせておく。俺はただ六つ子がこたつでわいわいしてる、そんな話を見たいんだ。六つ子のセックスも恋愛も見たくはない。俺の中で腐女子という装置が、「おそ松さんはそういう作品ではない」と俺にはっきり語りかけてくるんだ。