やしお

ふつうの会社員の日記です。

理屈が尊重される世界に生きてるって幸せ

 理屈で買った方が勝ち、というルールは本当にありがたい。ふだん生活をしていておおむね自分の周りがそのルールで満たされているというのは幸せだ。ただあまりに空気みたいな感じで取り巻いているのでこのありがたみをつい忘れている。
 筋が通っている方が正しい、正しいことをすべきだ、という価値観が共有されているというのは全然当たり前じゃない。年上の方が偉いんだとか、経験が長いやつの言うことが正しいとか、俺の感情が傷ついているからダメだとか、俺が理解できないからダメだとか、そんな風にして当たり前みたいに蹂躙されている。でも社会の中でそういう蹂躙が起こっているということを、ふだんの生活でほとんど意識せずに済む、煩わされずに済む中で生きているのはとても幸せなことだ。


 ときどき母親や、普段付き合いのない他人に接したときに「理屈が正しければ正しい」というルールは当たり前じゃないんだなということを実感する。これはたまたま自分がそういう職場で働いていて、そうした友人としか付き合っていない(そうでない人とは疎遠になっている)だけなんだと思い知らされる。理不尽に怒られたり否定される環境で生きている大人もいっぱいいる。


 「理屈で正しい方が正しい」というルールが優位な環境で生きているのは幸せだといってもそれは、他のルール(年上の方が偉いとか)を信じているのは間違っている、そんなのを信じるのはバカだと思っていることを意味しない。そう思うとしたらそれは、真実なるものが客観的に存在し得るという前提がもたらす思い込みに過ぎない。
 そうではなくて、他のルールに比べると「理屈で正しい方が正しい」は、各自でコントロールできる余地が大きいのと、他人と共有しやすいという点で、幸せなだけだ。「経験の長い方が正しい」だの「年上の方が偉い」だのの一点張りならもう自分でなんとかできる余地がないし、理屈というのは他人と共有されることをそもそも特徴として組織されたものだから意思をすりあわせたりできる。


 ただ一方で、自分なんかより圧倒的に早く、精確に、多量に、理屈を構築する人から見たら、自分は「理屈が正しい方が正しい」に従っていないように見えてイライラするんだろうなと思う。いくら自分が理解しようしても、相手がどれだけ丁寧に説明してくれても、どうしても理解できずに従えないなら、それは紛れもなく「俺が理解できないからダメだ」というルールそのものになっている。
 例えば自分が人に、プレイヤーの自分とマネージャーの自分で分けて考えればいいのにとか、手順と方針と目的を分けて考えればいいのにとか、ここの穴を埋めなきゃストーリーが成立しないじゃんとか思ったりすることがある。それをもっと精緻に高速でできる人からは同じような苛立ちを私に感じるんだろうなと思うと、そんな人は周囲に絶望しながら生きているんだろうか、それともちゃんと、周りもそんな人だらけの中でちゃんと居心地よく肯定されながら生きててくれたらいいなと思うよ。
 ただこっち側から見ると、そんな知性で圧倒してくれる人が身近にいて付き合ってくれるというのはものすごい快楽なので、そんな人が目の前にいてくれたらいいのになと夢見ることがたまにある。でもそれはもう今の自分には過ぎた願いという気がする。