やしお

ふつうの会社員の日記です。

飾りとしての「断言」しか持っていない人

 <アーティストって肩書きは「人権侵害します」って意味>とツイートしてみんなからツッコまれてた人のトゥギャッターのまとめをついつい全部見てしまって、本筋とは関係ないんだけど、何かを「断言する」という行為についてかなり感覚が違うのかもしれない、と思った。
 「断言する」というのは、徹底的に疑って、疑い尽くして、それでも「(この条件が仮定された場合)こうでしかあり得ない」という結論に至ってようやく断言することができる。疑い尽くしてっていうのがちょっと大袈裟かもしれないけど、少なくとも色んな面で検証して、その論の耐久性を確かめるという作業があるから断言できる。そういう認識を持っている。
 あ、でもこの人はそういう認識を共有してないんだ、と読んでいて急に思った。たぶん「断言する」という行為を、相手を威圧したり論に説得力を持たせたりする、外装の一種だと思っている。その人にとっては「だと思う」と「だ」は意味的に交換可能になってて、ただ雰囲気や気分、感情で使い分けているだけなんじゃないか。


 よくよく自分の記憶をほりだしてみると、そういえば自分も子供のころはそう思っていたような気がする。「〜である。」と書けば、硬い響きがあって、学術的っぽくて、かっこいいし、自信に満ちているように見える。そういう雰囲気を出したい時に「〜である。」みたいな文体をみんな使ってるんだろうと、そんな風に漠然と考えていた。
 ところがだんだん大きくなってくると、言葉の選択というのは、その言葉の持つ雰囲気だけではなくて、論自体が正確に要求してくるものだということがわかってきた。それは当たり前のことなんだけど、何度か頭すりきれるくらい本気で考えてみて、(この言葉だとスコープの範囲が正確じゃない……)(この言葉は使えない……)という制約の感覚を体験してみないと、わかんないのかもしれない。そして身につけてしまうと、そうでない雰囲気だけで選んだ言葉があまりに不誠実すぎて耐えられなくなってしまって自分で使えなくなってくる。
 そうして身につけてしまった後は、本当に当たり前のことになってしまって、むかし自分も不誠実な言葉の運用をしていたこと、言葉は雰囲気(だけ)で選ばれていると勘違いしていたことも忘れてしまう。忘れてしまうので、「そういう人がいる」ということもピンとこなくなってしまう。


 そのアーティストのお人のツイートを眺めていたら、相手の言葉の持つ雰囲気(否定的な/肯定的な/権威的な/攻撃的な)にだけ反応して指示内容をきちんと捉えていなかったり、一般化や抽象化のレベルが(言葉の使い方の面で)だんだんズレていったりしていた。バックグラウンドがしっかりあった上で正確に言葉を運用している人だと、文体や単語の選択や視点が変わっても、指示内容や構造の面では変わったりしない。そこの違いでどうしても、正確に断言している人と、飾りで断言している人との差が出てきてしまう。
 そもそも言葉の選択に対して、「論が要求する選択に誠実であることを当然視している」って人と、「雰囲気しかないとあいまいに思っている」って人との間で、対話を構築するというのは、あたりさわりがない世間話以外だと難しいよな、でもお互いが「相手も自分と同じような言葉の使い方を当然しているはずだ」と無意識に信じていればスレ違い続けるしかないのよね、と悲しい気持ちになった。


※ちなみに、このアーティストのお人を攻撃してる人の中にも、雑な断言だと思われる人はたくさんいました。