やしお

ふつうの会社員の日記です。

同性愛者が異性と同棲する

 自分は同性愛者だけれど、しばらく前から異性のパートナーと同居している。さしあたり結婚はしない予定になっている。
 そうした状況は自分にとってもすごく意外だったし、あと同性愛者だってことにまつわるあれこれも含めて、改めて思うところを整理しておきたいなと思って。


同性愛者と異性愛者の境目

 「ゲイの男性が女性とパートナーになる」という話は、他者からは理解しにくい話かもしれないけれど、そんなに珍しい話でもないと思っている。当事者から見ると珍しくないけど、非当事者から見ると理解しづらい、というこの非対称性は、同性愛者/異性愛者の間のグラデーションがどれくらい実感/想像できるかの違いにあるんじゃないかと思っている。


 自分の場合は肉体的にも性自認も男性で、性的な関心はほとんど同性(男性)に向いている。一方で異性との性交渉に抵抗があるわけでも無関心なわけでもなく、経験も全く無いわけでもなかった。(性別より、関心や愛着のファクターの方が大きい、と言えるかもしれない。)「じゃあ両性愛者と言えばいいじゃん」と思われそうだけれど、実際には性的な接触の経験も同性の方がずっと多く、性的な関心もそうなのだから、自意識としては「同性愛者」となっている。これは、自分がその自意識に固執している/アイデンティティを見出だしているというより、そう言う方が「より正確」「より実情に即している」と感じているだけの話でしかない。


 時々プロスポーツ選手が学生時代にゲイ向けのAVに出演していたことが発覚して騒ぎになることがある。そんな時に「こいつはゲイだ」と言う人もいるけれど、そう断定するのは乱暴だと思う。異性愛者だけれど(金銭的な動機などによっては)同性との性的な関係も可能だという人も少なくはない。(あとそもそも赤の他人が騒ぐようなことじゃない。)同様に同性愛者でも異性との性的な関係を持てるし、パートナーとして愛せる人もいる。一方で、同性/異性との性関係は絶対に無理で、パートナーとしても選べないという人もいる。
 こうした複雑さは現実としては当たり前のことでも、世界が自分の理解に収まるくらい単純じゃないと許せない人というのもまたたくさんいるので、「同性愛者なのは確かだけど、異性とパートナーの関係を結ぶ」という状況を許せない人も結構いるんだろうなと思っている。それは「理解できない」というより、何か「許可しない」というような態度かもしれない。同性愛の当事者であっても同じことで、「ゲイなのに女性と恋愛できるなんておかしい、そんなのはゲイじゃない」とばっさり否定する人もいたりする。


 こうした前置きを書いておこうと思う程度には、この現実としての「当たり前」はまだ、世間の常識としての「当たり前」にはなっていないだろうなという感覚がある。


同性愛者であることへの苦悩

 性自認や性指向などがバイナリなものではなく、もっと連続的に広がっているという話と同時に、時間軸の方向に対しても連続的になっている。生得的か/後天的かという話もよくあるけれど、現実には「どっちも」なのだと思う。当人にさえわからない。


 自分自身のケースを振り返ると、思春期のあたり(11歳くらい)まで「男女がペアになるのが当然だ」と思っていたし、「ホモは変だ、おかしい」と思っていた。それは例えば、漫画やバラエティ番組の影響もあったと思う。しばらく前に石橋貴明の「保毛尾田保毛男」が話題になったこともあった。「なよなよした男はホモである」「ホモは笑っていい対象だ」という価値観は、自分が10歳前後だった90年代半ば、四半世紀前にはまだ蔓延していたと思う。
 以前そのあたりの話は↓のエントリでもあれこれ考えてみたけれど、社会全体の差別のフェーズと自分の価値観は無縁ではいられなくて、小学生だった自分は「ホモは変」という意識があったのだった。
  差別が解消されるプロセス - やしお


 その後12歳かそれくらいに同性の身体に興味が出てきて、でもそれは性的な欲望というより「他人は自分と比べてどうなんだろう」みたいな意味での興味だった気もする。中1~2くらいの頃は好きな女子がいて、(ほんのわずかな期間だったけれど)付き合ったこともあった。性的な接触はなく、手をつないだり相手の部屋に遊びにいってドキドキするとか、他愛なくありふれた付き合いだった。
 でも中2の時には同級生の男子を好きになっていて、はっきり性的な接触を持ちたいという欲望があった。この時、一般的な恋愛にまつわる苦悩はあっても、「自分が同性愛者である」ことへの苦しみや悩みはさしてなかった。友人の何人かには(別にカミングアウトというほど大ごとでもなく)普通に話していた。
 「ホモは変」と思っていた数年後に、自分自身が同性愛者であることを受け入れているこの間には、(自分の認識の範囲では)思想の面と知識の面で主に2つの要因があったんじゃないかと思っている。


 一つがこれくらいの時期に、感情や性格や嗜好は自然なものでも左右しがたいものでもなく、自分がそう思うからそうなっているだけだったり、一定程度コントロール可能だったりする、と考え始めたことが大きかったと思う。(当時そこまで言語化して整理できていたわけではなかったけれど。)
 「恋愛って結局自分の思い込みなんじゃないか?」と一時期悩んだことがあったのを覚えている。あれこれ考えていくと、恋愛が何か大切なもので、無根拠に湧き出てくる何かであるべきといった思い込みが前提としてあるから悩みが生じるのであって、「そうあるべき」を外せば悩みにそもそもならない、と思い至った。感情は前提ではなく機序によって生じるものだという認識の転換があった。そこから「思い込みであってもいいし、なくてもいい」となって、精神衛生も改善された。その頃に漫画の『ヒカルの碁』で、「自分は本番に弱い」「押しが弱い性格だからダメだ」と悩んでいたキャラが、武者修行に行った先で「性格はトレーニングで変えるんだよ」と言われて目からウロコ、みたいなエピソードを読んで自分も目からウロコが落ちたという経験も、この認識に寄与している。
 規範意識(常識)と現実(自分の感情)とのミスマッチが生じると「自分はおかしい」という苦しみになる。でも、どちらもバーチャルなものだしそれでいいんだと思うと、そのミスマッチも相対化できる。「~であるべき」「~であることが当然である」というのは無根拠に自明に成立するものではなく、「自分がそう考える」「自分が採用する」という主観的なものなんだと思えば、苦しみや悩みはプラクティカルな範囲に限定されてくる。これが思想面で自分を受け入れられた大きな要素だったのだろうと思う。


 もう一方の知識面では、中2で貯金をはたいてパソコンを買ってネットを始めたっていうよくある話で、両親とも機械に疎くて親バレも気にせずあれこれいけないサイトを見ているうちに、気付いたら気持ち悪いと思っていた「男同士」に慣れて抵抗感がなくなっていた。
 それにネットを通して見ていると、ゲイの人も現にたくさんいることがはっきり分かって「別に普通のことか」という感覚になってくる。これってネトウヨの人が国粋主義的な主張ばかり見ていくうちにどんどん慣れていって、仲間がたくさんいることで安心もして、ついには「自分達の意見の方が主流」と思い込むに至る機序と同じかもしれない。


 そんなわけで、自分自身のケースを振り返ってみても、物心ついた時から同性に惹かれていたというより思春期が境になっていて、その意味では「後天的」と言えそうだ。しかしここまで挙げたファクターはせいぜい「同性同士に抵抗感を覚えずに済むようになった」という理由でしかない。主に性的な関心が同性に移ったことそのものを説明するものではない以上、「先天的か後天的かはよくわからない」という結論にしかなり得ない。自分でもよくわからないし、結局のところ特定する試み自体があまり意味がないような気もする。


 そうした点については岸田秀の『ものぐさ精神分析』が参考になるんじゃないかと思う。「同性愛は(生殖に寄与しないので)不自然だ」という昔からある素朴な否定論に対して、一定の解釈を与えてくれる。同性愛は不自然である、しかしそれは、異性愛と同程度に不自然である、というのが本書の考え方になっている。6年前に↓の記事でこの辺のことを既にまとめてはいたのだけど、「今ならこういう書き方はしないな」という書き方で読むのが恥ずかしいこともあって、改めてここでも整理し直したい。
  トレーニングしだいで同性愛者になれるかもしんない? - やしお


 他の動物に比べると、人間は生まれてから生殖可能になるまでの期間が長い(第2次性徴の12,3歳までかかる)。これは人の進化(二足歩行化し物理的に頭部が大きくなったこと)による影響で、一旦未熟児のような状態で生まれざるを得ず、時間をかけて成熟するスタイルを取っていることによる。しかし「性欲」そのものは実は生まれた時点で存在している、という考え方がある。「未成熟な身体」と「性交への欲望」との間に齟齬が生じる。性的タブー(社会的な道徳や神話の形で現れる)や、赤ちゃんから幼児へ成長する過程で見られる行動(口唇期、肛門期、男根期などまとめて前性器期と呼ばれる)は、この齟齬を回避もしくは抑圧するための仕組みである。それらはいわば「生殖を伴わずに性欲を解消する仕組み」として機能する。


 ところが成長して第2次性徴を迎えると、今度は「生殖をせずに性欲を解消する仕組み」と「生殖可能な身体」との間に齟齬が生じることになる。仕組みを一旦解体して別の仕組みを構築しない限り、人間は生殖しないことになってしまって滅亡する。男女がペアであるように仕向ける仕組みとして、また別の社会制度や文化や神話が機能する。男女で社会的な役割が分離してペアになる方が有利な社会制度になっているとか、「男女は二つで一つに完成する、お互いに求めるものである」といった神話が存在することは、そうした視点から理解され得る。


 そうした解釈からは、人間がごく自然に生殖をしているというより、人為的・後天的な再構築のたまものだという理解になる。それだから、最初の抑圧や回避の働き方(前性器的リビドーの大きさなど)と、後から来る再構築の働き方によっては、異性愛者になることも同性愛者になることもあり得る。異性愛者になる確率が大きいのはそれが「自然だから」というより、もともとその方向に働くように制度設計(意識的に作られたものではないとしても)がなされているからだ、という解釈になる。この解釈で、同性愛者や無性愛者は「再構築に失敗した結果」と理解されるより、どうなるかはファクターが多すぎて人為的なコントロールも予期も難しい=誰のせいでもないしよくあること、という理解になる。
 自分はこの解釈をさしあたり採用していて、それは絶対的に正しい(無謬かつ妥当である)と思っているわけではなくて、そう認識することでたくさんのことが説明できて便利だと思っている、くらいの意味でしかない。

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

ものぐさ精神分析 (中公文庫)


 そんなわけで、「同性愛者であること」そのものについて大きな苦しみや悩みを抱かずに済んだのはラッキーだったかもしれない。これは自分が肉体的には男性で、性自認は男性だったからそれで済んだだけの話でしかないとも思う。性別や容姿、障害など外見上での分かりやすさの程度によって、差別の受けやすさ、生き辛さが変わってきてしまう現実がある。自分の場合は外から見れば「普通の男性」だったから、軽々に「悩みが少なくて良かった」と片付けるのは違うだろうという気もしている。


マジョリティであることの居心地のよさ

 「同性愛者であることの苦悩が少なかった」とは言っても、通念や常識との齟齬があるのは変わらないので、その面での不自由さがなくなることはなかった。
 つきなみだけど「同性愛者であることを周囲に言うかどうか」が、最も日常的に発生する不自由だったと思う。自分のことを知ってもらう、最近あった出来事を話せる、といった環境は「周囲に肯定されている」という安心感に繋がって快適だし、一方で嘘をつくのは後ろめたさもあれば偽の話を構築するコストもかかって負担が地味に効いてくる。
 学生だった頃は割とカジュアルに(?)周囲に言っていたけれど、就職してからは会社の人に言ったことは一度もない。「ああ、そうなんだ」で済みそうな共同体と、「えっ」と言われそうな共同体の違いかもしれない。「彼そうらしいよ」と陰で言われて出回りそうだなと思うと、面倒臭くて言えない。


 彼女いるの、好きなタイプは、結婚しないの、誰と行ったの、そうした日常的にふと降りかかる会話の中で細かな嘘をつき続けるのは、慣れてしまうとはいえちょっとしたストレスだったと言える。こうした瞬間に、女性が好きだという前提で嘘の話を言うか、一般論などに話をすり替えるか、いっそ同性愛者だという前提で話をしてしまうか、といった選択肢が出てくる。女性について「○○さんかわいいよねー」みたいな話を自分から言ったことがないし、そうした話題になったら「そうですね」くらいは返しても別の話題にシフトさせたりしていたから、陰で「彼ってそっちなんじゃない」とか言われてるんだろうなあ、とは思っている。(ただこれは、女性だろうと男性だろうと、職場だろうと宴席だろうと、他人の容姿について否定的にはなおさら、肯定的なことであってもあまり話したくないから話さないだけなので、本当は同性愛者かどうかとは関係ない。)


 日常の中でふいに「言おうか話を逸らそうかどうしようか」って選択肢が訪れた時に、(まあこの人ならいいか)と信用して話してみたら、「えっひょっとして俺のことそういう目で見てる?」といった言動を示された瞬間の、あの怒りと哀しみがないまぜになったような感覚といったらない。悲憤とか軽い絶望と呼べばいいのか。「そうじゃない」と答えて「ああよかった」といった態度を示されるのもなおのことしんどい。色情狂じゃないんだから男性全員に気があるわけないとか、これまで友人として積み上げてきた信用はどこ行ったんだよとか、性愛の好意じゃなかったから安心するって何だ、性愛と友愛にどういう境界があるんだとか、そんな諸々が一気に去来する。「ああそうなんだ」って当たり前のことみたいに流してもらって、今後は嘘つかなくても済む、言わずに黙ったり回避したりせずに安心して話せるようになれれば嬉しいってだけなのにね。
 以前にも↓であれこれ書いたことがあったけれど、「カミングアウト」と言うと何か深刻な顔で打ち明けるような場面が想像されそうだけれど、現実には日常の無数の場面で(まあ言ってもいいか、どうしようか)の瞬間が訪れている。
  カムアウトするかしないかの瞬間は日常の中で無数に発生する - やしお


 両親にも自分が同性愛者であると言ったことはなかった。(気付いてるんじゃないかな?)という気もしなくはなかったけれど、しかし自分が就職した後に母親から「結婚しないの」や「子供を作るなら早い方がいいと思う」などとそれとなく言われたことはあって、よくわからない。もう二人とも死んでしまったので確かめようもなければ、確かめる必要自体そもそもなかったという気もする。


 大人の男性二人で旅行に行ったり、何かテーマパークに遊びに行ったりして、周囲に(あー、そう思われてんのかなあ)と思うとほんのちょっと居心地が悪い。気にしなければいいと言われてしまえばそれまでだけれど、全く気にせずにいるのもちょっと難しかった。
 会社の飲み会で結婚の話になって、酔った壮年の男性社員から「ひょっとして君はそっちなのか?」といったことを言われたことが数回あった。あの瞬間、自分がどう答えるかをその場にいる人がみんな黙って待っているあの瞬間は、やっぱり緊張したし苦痛だった。そうは言っても就職してから10年以上、結婚の話題は何度となく浴びてはいるし、こういうのは間をおかずにただちに何かしら発話して流すことが重要なのはもう身に染みて知っているし、そうして嘘をついて回避した。


 そんな居心地の悪さや嘘のコストに慣れ切っていたから、異性のパートナーを持った時の「楽だ」って感覚にはちょっと戸惑いに近いものがあった。一緒にどこかに出かけても、手をつないだり背に触れるなどのボディタッチがあっても、何の気兼ねもない。他人から「えっ」って顔で見られない、気にせずにいてもらえるという安心感は大きい。旅行に行っても遊びに行っても、一緒に暮らしても、誰も「ん?」「ひょっとして」と思われないだろうという感覚はすごく快適だと思った。
 引っ越しで、先に買って設置していた二人用のベッドを見た作業者の若い男性(20歳前後くらい)が「ベッドでけえっすね!」と笑って言った。職業人としてそれは客に言うべきではない、という話もあるとは思うけど、あんまりにも屈託なく言うしこっちも苦笑してしまった。恥ずかしくて何を言うべきかわからなくて「えへへ」と曖昧な返事をした。でも、これが同性だったらどうだったろうと後でふと考えた。彼はそんな風に笑っては言えず「あっ」とか「えっ」とかいう顔して見なかったふりをするんじゃないか。


 こうした「居心地の悪さ」は同性愛者に限った話でもなく「未婚の女性」「外国人」「身体障害者」「非会社員」などでもまた違った場面で日常的に味わうものだ。この種の「居心地の悪さ」と「快適さ」は、最初から快適な側で暮らしていると本当に見えにくい。自分の場合は、同性愛者としては居心地の悪さを感じる場面はあったとしても、「特に外見に特徴が無い会社員の男性」という属性においてはかなり「快適な側」に寄っている。
 「居心地がいい」と感じるのは「だから良かった」という話にはちょっとならなくて、その反対に一体どんな通念や制度が他者に居心地の悪さを強要しているのか、自分は他者にそうした居心地の悪さを与えていないか、といったことを考えてしまう。


カムアウトしないことが「卑怯だ」と罵られる現実

 つい最近、「同性の友人と泊りで旅行に行ったら相手がゲイだとカムアウトした。自分もゲイだと思われたくないので周りにそいつのことをアウティングして『自分は違う』アピールをした。」という話がはてな匿名ダイアリーに書かれた。
  逆方向で似たような経験があるんだよね ゲイだとは知らずに、お互いに共..


 そのブックマークで、「同性愛者だと明かさずに二人で旅行するのはダメだ/卑怯だ」というコメントが星を集めているのを見た。(一方でそれに批判的なコメントもまた星を集めていた。)

アウティングはよろしくないけど、ゲイであることを隠して二人で旅行に行ってたのはちょっとダメでしょ。増田にできたのはもう二度と二人行動はとらないということかな。
monboborimonboboriのコメント2019/11/08 12:23

https://b.hatena.ne.jp/entry/4676951740460493474/comment/monbobori

ゲイなら性指向の相手と二人で旅行したり風呂に一緒に入るのは断るべきだよな。別にゲイだからとは言わなくていいけど卑怯だと思う。前にゲイのふりをして女と仲良くなってヤる男がいたけど、そいつくらい卑怯だ。
bunkashikenbunkashikenのコメント2019/11/08 11:11

https://b.hatena.ne.jp/entry/4676951740460493474/comment/bunkashiken

これ男を女に入れ替えて何もないしただの友人ですってのはなかなか通じねーわな。 ゲイだってなったらそういう目に切り替わるのも当然。 ゲイが何でも食うわけじゃってのは分かるんだけど、そうは見られないよ。
gokkiegokkieのコメント2019/11/08 11:21

https://b.hatena.ne.jp/entry/4676951740460493474/comment/gokkie


 この話は、

  • 相手を異性愛者だと思っていたので、同性である自分は「相手によって性的に消費される可能性」はないと信じていた。
  • 相手が同性愛者だと分かったので、「相手によって性的に消費される可能性」を急に認識し、不快感や恐怖を覚えた。

というものだった。
 この時「この不快感や恐怖は相手によってもたらされたのだから、相手が悪い」と考えると「卑怯である」という意見になる。しかしここには飛躍がある。「自分の気持ちが傷ついた。傷つけたお前が悪い」と結論付ける前に考えるべきポイントはいくつかある。

  • 「自身が性的に消費される可能性」は同性であろうと異性であろうとずっと存在していたはずだが、それを意識に上らせることがなかったのはなぜか。
  • 「二人で旅行に行った男女(ないしは同性愛者であることが既知の同性同士)は性愛の関係にある」と見做す習慣は妥当か。
  • 相手が「ゲイであることを隠して」いたとして、それは騙すためであって卑怯であると言えるか。


 「自身が性的に消費される可能性」は男性より女性の方がより日常的に意識されやすい。女性が(男性が普通想像する以上に)性的なからかいや被害に遭遇しているという話は、様々なところで指摘されてもいる。また「男性は女性を性的に消費するものである」というメッセージは、日常会話でも、映画や漫画といった作品でも、「当たり前のこと」として含まれている。例えば「そんな服装をしていたら、目のやり場に困るよ」といったセリフも、「男性は女性を性的に消費する」のが当たり前の前提として含まれている。
※こういう話をすると「でも女性だって男性を消費しているだろ」とアイドルやヤオイを持ち出す人もいそう。消費のスタイルが違っていて、女性は直接性的にというより物語的に消費する傾向が大きいんじゃないかとちょっと思っている。ダイレクトに性的な消費のされ方を女性はより受けやすい、という話は、「男性はセクハラや痴漢被害を受けない」「女性は男性を性的に消費したりはしない」などを意味するわけではない。
 こうした世界の中で価値観を形成させてきた男性にとって、「自分は他者を性的に消費する側にいるのが当たり前で、自分が他者によって性的な消費をされる側にはない」と感じることが習慣化するのは、ある面で仕方がないと思う。そうした人にとって、ふいに「自分が消費される側」にいると自覚した時の違和感や不快感、恐怖はより大きくなる。その感情の大きさに応じて過剰な防衛反応(ここで言えばアウティングのような)を取ってしまうことも十分にあり得るだろうと思う。
 「自分はそういう気持ちになった、そのきっかけは相手にある」という時に、では「相手」に全面的に責任が帰するかというとそうではない。「自分がそういう気持ちになった機序」も含めて考える必要がある。


 それから今回の「事前申告しないことは卑怯である」という主張は、「二人で旅行に行った男女(ないしは同性愛者であることが既知の同性同士)は性愛の関係にあるのが当然だ」と見做す風潮を是認することで成立する。「ゲイの男性が、男性の友人と二人で旅行に行ったなら、性愛の関係を望んでいると措定するのは当然である」という前提がこの主張にはある。
 仮に「性指向がどうであろうと友人は友人である」「相手の内心がどうであっても(仮に性愛の対象として自分を見ていても、そうでなくても)相手が外に表した言動だけが問題である」と考える人にとっては、「卑怯である」という主張は出てこない。
 「現状として(不条理な)常識があるのは事実なので、上手に適応するためにこういう行動を取った方が有利だ」という話はできる。しかし「そういう常識があるので、それに配慮する行動を取るべきだ」と断定することとの間には大きな差がある。「配慮するという手もある」という話と「配慮しない者は卑怯である」という主張の間には大きなギャップがある。
 これは常識だ、だからみんなもそれに従うのが正しい、と感じた時には、一旦どうしてそう自分が感じたのか、本当にその常識に妥当性があるのかを点検してみる方がいいと思う。


 また「ゲイであることを隠して」いたのは騙していて卑怯なのかという点について、まずこうした場面では「ゲイだと隠している」という言い方がされがちだけれど、「隠しているわけではなく、言う必要がないから言わないだけ(いちいち「俺は女好きだ」「私は男好きだ」と異性愛者が言わないのと同じこと)」という見方もできるはずだという点は確認しておきたい。つい「隠している」とただちに考えてしまうのは、「それは隠すのが普通だ」「言いたくないのが当然だ」という認識が前提されていて、その認識を公言するのはそうした通念を是認・強化する方向に働く。この内省はまず(ここでの本筋から外れているとしても)重要だと思う。
 ただし「だから常に隠しているわけではない」という意味ではない。実際、「自分は同性愛者ではない」と嘘をつく場面もあるので、それを「隠していない」と表現するのは無理がある。「異性愛がデフォルトである」という認識が一般的な世界で、その通念の中で上手に過ごすために異性愛者のフリをして生活する同性愛者や無性愛者が多くいる現状があるのは事実だ。そして、そうした背景を想像した上で「隠しているから卑怯だ」と仮に自分が「相手側」だとして言えそうかどうかを点検してみる。
 このあたりの事情や背景を無視すると、「自分がゲイであることを都合よく隠して意中の相手に接近しようとしたり、浴場で男性の裸体を楽しんだりするくせに、自分の都合でカムアウトして秘密を強要したりするから、ゲイは卑怯だ」という言い方ができるようになる。


 誰かを犠牲にすることで得られる快適さがあって、それが失われた時に「私の快適さを保つためにあなたは従来通り犠牲になっていなさい」と言うのはフェアではない。でもちゃんと「この快適さってどこから来てるんだ?」ってことを考えていないとそこが分からない。「誰かの犠牲で成り立つ快適さ」だってことが分かっていないから、「この快適さが失われて私は損をした、失われたきっかけはあなただ、だからあなたが悪い」と言ってしまう。女性差別外国人差別にしても同じで、「前はもっと好きなことが言えて自由だったのに」と感じたとしたら、その「自由」はどこから来ていたのかを一度考え直した方がいいとは思う。(ただそうした検証は、精神と知性に一定の余裕がある状態でないと難しい。)
 こういう話は今までも何度か書いているけれど、「自分の感情や価値判断を正しいと思い込まない、どんな常識や制度に根差してそう感じるのかを考える」というのはトレーニングを繰り返すことで身に付く技術なので、事例があれば時々やってみる方がいいと思って。


 今回の話で言えば、アウティングされた側視点のストーリーを想像してみると、普段は自分がゲイだと知られると色々面倒くさいのでヘテロセクシャルのふりをして生活していたが、一緒に旅行に行けるほど仲の良い友人だったので、旅行中のリラックスした雰囲気の中で(まあこいつなら大丈夫かな)と思って何気なく自分がゲイだと話したら、相手は「俺のこと狙ってるのでは」「周りに付き合ってると思われたら困る」と疑心暗鬼に陥った挙げ句、「自分は違う」アピールのためだけに職場でアウティングした、という話なんだとしたら、あんまりにもあんまりだと思う。こんなことなら誰も信用しなければ良かった、言わなきゃ良かったと思うだろう。
 もちろん記事に書かれた情報が少ないから、実際の旅行先の様子は分からない。


 性別も性指向も性自認も基本的に誰も気にしないような世界だったら快適そうだなと思って、そういえばRPGの「Undertale」がそんな世界を描いているのを思い出した。ことさら「そういう世界ですよ!」ってアピールもしてなくて、例えば「誰がメガネをかけているか」を特に気にしないのと同じくらいに当たり前のことになっているような世界が描かれていて、とても安心感があったのを思い出した。
  『ゼノブレイド2』と『Undertale』:下ネタと性の扱い - やしお


 「ゲイであることを隠すのは卑怯だ、事前申告しない者は卑怯である」という言説が一定の支持を受けている光景を見てしまうと、「ああ、やっぱまだ言うのはやめた方がいいな。異性愛者のふりしておいた方が全然生きやすいな」と思うだけだろう。


性交渉の機会

 それはそうと、13~4歳ごろから性的な関心が主に同性に向いて、その後どういうアクティビティがあったのかもどうせだから記録に残しておく。ここまで「苦悩は少なかったけど不自由はあった」という話しかしていないけれど、それなりに苦悩でも不自由でもない側面もあったわけなので、そこも言及しないとアンバランスだという気もする。


 男性の同性愛者の場合、たぶん異性愛者と比較して性交渉の相手を見つける点に関しては、とてもハードルが低いという違いがあるような気がする。性風俗のサービスを利用しなかったとしても、出会い系サイトなどで「今から」の相手を見つけることが比較的容易だ。
 この違いは、男性と女性の身体的な差や、性愛のあり方の違いによるのかもしれない。女性と男性の膂力の差が大きく(細身で鍛えていなさそうな男性であっても、女性と比較するとそれでも力の差がある)、女性が男性に感じる脅威がそこに由来して生じてくる。それから「相手を好きにならないと性行為は無理」という人の割合が男女間で違いがある(男性の方が性行為先行の人が多い)のではないかと思っていて、そうした違いからお金や店などの仕組みを媒介しないと「見知らぬ相手と性交する」という関係は男女間では成立しづらいのではないかと想像しているのだけれど、特に実証的な裏付けは何もなくて、そうじゃないかなと思ってるだけ。


 ゲイ向け出会い系サイトには地域別の掲示板がある。年齢、身長、体重、足(移動手段)の有無、場所(性行為可能な空間)の有無、時間、行為の内容が書かれた書き込みが並ぶ。連絡先として直接メールアドレスを入力することもできるが、特定を避けるために匿名化することもできる。条件が会う相手にメッセージを送ると、直接のメールのやり取りが始まる。顔写真の交換や具体的なプレイ内容や待ち合わせの調整がされ、まとまれば会ってヤる。そんな世界がある。他に友達募集や恋人募集の掲示板、援助(売買春)目的の掲示板などもある。
 人口が多い地域ほどゲイの男性の数も多く、こうした掲示板の利用者も多い。しかしマッチングのしやすさは人口の大きさに素直に比例するわけではなさそうだった。首都圏は人口が多いけれど、かえって「もっといい相手を選べるかもしれない」という期待値が上がることで断る/断られる率もまた上がっていく。一方であまりに人口が少ない地域では相手がいなさ過ぎるとか、毎回同じ相手にあたってしまうといった問題が起こる。それだから、ほどほどの地方都市がちょうどいいのかもしれない。あと地方は車を持っている人が多いのも便利な点かもしれない。
 年齢や外見や体型だけで相手を値踏みするような世界なので、断られるのはつらい。「そういうもん」と割り切っていてもじわじわ自尊心を削られていく。本当にたまに利用して、できれば友人になれたり体の相性がいい相手と長く続けた方がいい。首都圏に移ったら断られる率が高くなってつらいので滅多に利用しなくなった。というのが地方から首都圏へ移住した当事者の実感だった。


 そんな体から入る関係じゃなくて、もっと別のやり方があれば良かったんだけど、「別の方法」がよく分からなかった。学校や職場で友達として仲良くなって自然に恋愛関係に発展するといったパターンを望むのは現実的には難しい。こういうのって最初に覚えた方法が習慣化してしまうものかもしれない。「とりあえず会ってヤる、そこから友人になったりする」というパターンの経験がほとんどだったせいで、逆に「友人から親密になって体の関係を持つ」というパターンが自分にとってとても難しい。友人も親しくなるほどそういう関係には持っていけなくなってしまう。
 とは言え、それなりの男性と性的な関係を持ったことは、それなりの知見を自分にもたらして、自身の一部を形成していることもまた事実なので、否定的に捉えるばかりじゃなくてもいいとも感じている。最初のころは純粋に生理的な快感、性器の刺激に対する快感だけが「性行為の気持ち良さ」の全部だと思い込んでいた。でも全然そうじゃなかった。言葉や態度や扱いもすべて含めて押し寄せてこられると、もっと深く大きな気持ち良さや満足感が訪れるのだと体験して初めて知った。何だろうこれってどうなってるんだろうと混乱してから、これは圧倒的な肯定なんじゃないかと思った。自分の全部が許されているみたいな感覚が与えられる。自分が手段としてではなく目的として扱われる喜びがある。その上で肉体的な快楽も同時に与えられるのは、得難い体験だと思った。
 こうした実体験と前後して(10代の終わりくらい)、松浦理英子の小説『親指Pの修行時代』を読んでいて、その中で性器中心の見方から非性器的なあり方にシフトする、みたいな話を読んだこともはっきり影響があったように思う。
 そんなやり方を知っている人も実行できる人も多くはないけど確かにいて、自分もそんな風にできるようになりたいと思った。あまりこういうトータルでの方法や技術が公開されることもなければ体系化されることもないので、そういう面で「すごい人」がいても別に公的に「現代の名工」とか「紫綬褒章」とか選ばれるわけでもないから表にはあらわれない。人知れず、普通の人として、でも確かにいる。

親指Pの修業時代 上 (河出文庫)

親指Pの修業時代 上 (河出文庫)


 ただ、この出会い系掲示板を利用するというのは別に一般的な方法というわけでもないと思う。こうした手段に限らず、Twitterとか、新宿2丁目に行くとか、友達の友達のような感じで交流を広げていってパートナーを見つける人達もいる。自分にはその辺りは実体験としてはないのでよくわからないけれど、試しに「ゲイ Twitter」とかで検索して出てきたアカウントからいいね欄やリプライをずんずん辿っていけば、そんなコミュニティでの交流を垣間見ることができる。フォロワーをたくさん集めている人は、若かったりきれいだったりして海外のビーチリゾートなどによく行っている。ちょっとセレブ風な暮らしを見せて憧れの的になっている人がいるのは男女でも同じだと思う。
 映画の『怒り』(原作は吉田修一の小説)では、ゲイのカップル(妻夫木聡綾野剛が演じている)が描かれるけれど、妻夫木聡の役はそれなりの収入があってゲイの華やかなパーティーに参加したり、ハッテン場(雑居ビルのワンフロアなどで薄暗い空間で裸でうろうろしながら相手を見つけてその場や個室でセックスをする施設)に行ったりしている。他にも最近はもっとちゃんとした(?)マッチングサービスとかもあるんじゃないかと思う。
 今すぐの掲示板やハッテン場はともかく、他は特に異性愛者と変わらない話だろうと思う。どんどん知り合いを増やしたりイベントやパーティーでワイワイやるのが好きな人もいれば、相手は欲しいけどサシじゃないと無理って人もいる。セックスできればいいやって人もいれば、セックスは入口で友達か恋人か安定した相手が欲しいって人もいれば、相手は欲しいけどそういう「活動」は嫌だって人もいる。ゲイだけどセックスもしないし相手も特にほしいわけじゃないって人もいる。別に同性愛者かどうかに限らず、普通の話だ。


他人と同居する感じ

 ここまで同性愛者であることにまつわるあれこれを思い出したり考えたりしてたけど、それとは別に(異性か同性か関係なく)「誰かと同居する」ってことが、なんか自分にとっても不思議な感じがした。実家で親と同居して以来10年以上ぶりのことだった。上手くやってけるかな、大丈夫かなという不安と、5年前、10年前の自分と比べれば今の自分ならずっと上手にやれるんじゃないかな、という気持ちが、引っ越し前はないまぜになっていたけど、今のところ楽しく幸せに生活ができている。
 それはお互いの努力の成果でもある。一方が他方にひたすら我慢や忍耐を強いることで成立するような安定じゃなくて、お互いが納得できるような形で安定した状態を維持・改善できればいいなと思っている。我慢や遠慮があるのは(別個体が同居する以上)当然だけど、お互いの負担感が一番少なくなるように、お互いの快適が最大になるように、調整していければと思う。それは一般論でしかないかもしれないけれど、ちゃんとやっていきたいなっていう自分に対する決意でもある。


 一人暮らしもすっかり慣れていたからちょっと忘れかけていたけれど、日常であった出来事とか、テレビやネットで何かを見かけた感想とか、他愛ないことをぱっと話せる誰かがいるっていうのは本当にありがたいことだ。精神衛生にいいというか、幸せなことだと思う。そういう部分って今まで、例えばTwitterに書くとかで解消していた面もあったのかなと思う。それでツイートの頻度がちょっと減少したりもした。(けどまた元に戻りつつある。)気軽に一緒に外食したり出掛ける相手がいるのは嬉しい。月並みだけど、満ち足りた感覚がある。


 実家に住んでいた頃、たぶん10代の後半くらいだったと思うけれど、「家族であっても遠慮なく振る舞っていいわけじゃない」と気付いて自分の振る舞いを改め始めた時期があった。同時に、その歳になるまでそんな当たり前のことが分かっていなかった自分にもびっくりしたのを覚えている。遠慮という言い方が冷たいというなら、心配りと言い換えてもいいけれど、家族でも誰でも一緒に生活する以上は心理的にでも実務上の話でも衝突を避けるための配慮が必要なのは当たり前だ。「親だからやってくれて当たり前」という子供の認識がきちんとアップデートされずにいたんだなと反省した。これは親の側からの「そんな歳になってまで甘えるのは許せない」という反発があったから、ようやく気付けたことなのだと思う。
 それから就職して(学生時代はむちゃくちゃだった)他人とどうコミュニケーションを取ればいいかという訓練ができた。会社の独身寮に入ってたくさんいる同期の人達と日常的に会話しながら、「どうやったら相手に違和感ではなく安心感を与えられるか」のゲームが上手になってきた。学生の時に完全に失敗して、でも途中でキャラ変する勇気もなくてそのままおかしくなり続けていたのを、ようやく「普通」に戻せた。
 その後でデイル・カーネギーの『人を動かす』を読んだのも大きかったと思う。本はそれなりに読む方だけど、自己啓発本やハウツー本は敬遠していた。これは誰かがオススメしてるのを見て興味を持って読んだらびっくりした。これは、

  • 自分を幸せにしたいなら、自分の周囲の人間を幸せな状態でキープする必要がある
  • 他者の感情や価値観を直接変更することは不可能であり、自分の言動によって間接的な影響を与えることしかできない
  • 上記2点を合わせると、「相手を幸福にするための自分の言動」を構築する必要がある

という基本方針が貫徹されて、そのための手段が紹介されていく。本書の展開の仕方それ自体が、語られる手段の実践そのものになっていて、何か手品でも見ているような気分になる。この基本方針は自分も採用することにして、もちろん完璧にはいかないけど、それ以前よりは「周囲の人達を幸せな状態でキープしたい」意欲や態度がずいぶん改善されて、技術も向上した気がする。

人を動かす 文庫版

人を動かす 文庫版


 そんな段階を経過して、5年前、10年前の自分よりずっと上手に他者とやっていけるようになったと自分では思っている。そんなタイミングでこうして誰かと生活を送る機会が得られたことは、ありがたいことだとつくづく感謝している。


 なんというか、予期しない引っ越しだった。誰かと一緒に暮らすなんて、今年初めの時点では考えてもいなかった。友人の身の上に突然引っ越す必要が生じて、お互いの職場との兼ね合いもあって一緒に暮らすのが良さそうという話になった。
 お互い2004年くらいからはてなダイアリーを書いていて(眞鍋かをりさんが「ブログの女王」と呼ばれてブログが流行っていた頃のこと)、その後2007年頃にTwitterを始めた時に相互フォローになっていた。彼女はもうブログはやっていないようで、あの頃はてなダイアリーをやってた人たちはTwitterInstagramは続けていてもブログはもうやめてしまった人がほとんどで、なんか自分だけ取り残されているみたいな感じがする。
 15年くらい前から知り合いだったけど実際に会ったのは3年前だった。それからも時々どっか出掛けたりご飯を食べたりするくらいの間柄だった。まさかこんな、令和にまでなってはてなダイアリーがきっかけで、何がどうなるか分からないものです。


結婚することや子供を持つこと

 一緒に住むことになって住宅の手配やら何やらを進めていると、「ご結婚される予定ですか」「奥さまが/旦那さまが」と言われる場面が時々出てきた。住み始める前の時点で相手とあれこれ話をして、結婚はしないし子供も持たない、ということにさしあたりなった。(この決定自体は私が同性愛者であることと直接関係はない。)こうした話をちゃんとする前まで、相手は結婚したいし子供もほしいと思っているのかなと漠然と勝手に想像していた。それは自分が「これくらいの年齢の女性は一般的にそう考えるだろう」と類型化して他者に当てはめていたのだとすれば恥ずべきことだと思った。
 病院での意思決定だったり、緊急連絡だったり、相続だったり、結婚しているかどうかで有利だったりやりやすくなることが色々ある。(これもさっきの『ものぐさ精神分析』の論理で考えると、男女間での結婚に社会としてインセンティブを与えている一面と言えるのだろう。)あるいは子供を持つということも、経済的・時間的に大きなコストがかかる一方で、非常に有意義で幸せな体験でもあり得るのだろう。そうした諸々も含めて話をした上で「(さしあたり)しない」という結論になっている。


 その結論に自分も納得した上で一旦至った時に、(ああ、結婚もしないし子供も持たない人生か)という気持ちになった。がっかりした、っていうより、そうなのね、って感じ。5年前、28歳の時に↓のエントリを書いていた。
  人生に納得がいく。穏やかに幸せ。28歳。 - やしお
 会社に入ってから周囲の同世代が結婚したり子供を持ったりするのに接して何かあこがれのようなものがあった。自分が子供として親と暮らしていたのを、今度は自分が親として子供と暮らしてみるっていう再生産したいみたいな気持ちがあった。でもだんだん「まあいっか」という気持ちになって、28歳の時点では「結婚してもしなくても、子供がいてもいなくても、どんなパターンでも自分自身(や周囲)を幸せにできればいいし、できそう」とか「友人関係をきちんと大切にしたい」と考えていた。基本的にそれは変わっていないんだけど、「結婚して子供を持つのかな?」という可能性が一度ふいに出てきてから「やっぱりそうじゃない方」に至った時に、なんか不思議な気持ちになった。
 ほんとは相手を「30代前半の女性だから結婚したいし子供が欲しいと思っている」と類型化させてたんじゃなくて、「ふつうの家庭を持ちたい」と自分自身を枠にはめたがっていたんじゃないか。「ふつうであること」の楽さ、マジョリティであることの居心地の良さをまだ求めていたのかもしれない。


 職場では同棲している相手がいることをほぼ誰にも話していない。同棲していると言えば結婚の予定を聞かれるだろうし、結婚はせずにパートナーとして過ごすという話をして、結婚しないことのデメリットを語られたり、あるいは「騙されてるんじゃないの」「それ大丈夫なの」といったことを聞かされるのはしんどい。聞かされなくても(思ってそうだな)と思えそうな人が何人も想像できてしまうともう、「話さないでおいた方がいいな」となる。それで話さないことに決めてみると今度は、「結婚は?」という話になった時に「彼女もいないし一人暮らしをしている」という設定で通すことになる。こうした状況は同性愛者であることに関してずっと「嘘」をついてきたのだから慣れていると言えば慣れているけれど、煩わしさがあることに変わりはない。
 これも「同性愛者であること」と同じで「結婚せずにパートナーを持つこと」も自分が率先して言っていけば職場でも「当たり前」になっていくんだろうけど、その役割を職場で負うだけの気持ちは持てずにいる。みんな「ああ、そうなの」としか思わなさそう、そんな安心した環境であればいいのかもしれないけど、まだ時間がかかる。


 けれど、そうした「世間体」のウェイトは、自分たちの生活や幸福の重要度に比べればずっと低いから、じゃあそこに左右されて私たちの関係性を変えたいとは思わない。これからもお互いが満足できるような環境や関係性を作っていきたいなと思っているだけ。