やしお

ふつうの会社員の日記です。

男性教師が女生徒のスカートをふざけて履くシーンを急に目にする気持ち

 アニメ『呪術廻戦』10話のミニコーナー「じゅじゅさんぽ」で、「女子生徒の制服を男子生徒(先輩)と男性教師がふざけて無断で着る」というエピソードを見て嫌な気持ちになった。「この私が不愉快だからそれは許せない」というより「どのように不愉快が発生したのか」を自分なりに理解するために整理しておこうと思った。


「じゅじゅさんぽ」10話の内容

 「じゅじゅさんぽ」は本編とは直接関係なく、登場人物たちの日常のちょっとしたエピソードを見せるコーナーになっている。10話での「じゅじゅさんぽ」は約1分間で以下の内容だった。ちなみに原作者(漫画家)が作成したネームをアニメ化しているという。


(教室)
釘崎野薔薇(女子生徒)「伏黒ぉ私の学ラン知らない?」
伏黒恵(男子同級生)「いや知らん」
釘崎「おっかしーなぁここに置いておいたんだけど。あ、パンダ先輩、私の学ラン知らない?」
パンダ(男子先輩)「んー聞いてないなあ」
(パンダは女子用学生服の上着を着ている。サイズが合っていないのでパツパツで破れそうになっている。)
釘崎「そっかーどこ行っちゃったのかなあ」
(釘崎は棒読みでセリフを言い、パンダを金槌で殴る)
釘崎「おい、スカートもねえんだぞ。それは超えちゃいけねえ一線だろう」
(スカートを履いた狗巻棘(男子先輩)が教室の入り口に現れ、ポーズを取る。)
狗巻「高菜!」
※狗巻は自身の特殊能力の関係で「普段はおにぎりの具の名前しか声に出さない」という設定があるためここでは「高菜」と叫んでいる。
(釘崎が狗巻を殴り、スカートを脱がせる。)
釘崎「たく、ゴミどもが。あれ、これ真希さん(女子の先輩)のだ」
(場面が変わる。五条悟(男性、釘崎・伏黒・虎杖の担当教師)がスカートを履いて現れる。)
五条「こんばんはー釘崎野薔薇でぇーす」
虎杖悠仁(男子同級生)「だっははは」


5つのレイヤー

 一般化→特殊化(抽象化→具体化)のレベルでさしあたり以下のように階層化して、各レイヤーでどういった点に不快感を覚えたのかをここでは確認していく。(カッコ書きは具体化した箇所)

  1. 自身の所有物を他者が無断で使用する
  2. 自身の所有物を他者が「ふざけて」無断で使用する
  3. 自身の「学生服を」他者がふざけて無断で「着る」
  4. 「女子生徒の」学生服を「男性が」ふざけて無断で着る
  5. 女子生徒の学生服を男性「教師が」ふざけて無断で着る

 

自身の所有物を他者が無断で使用する

 人の持ち物を勝手に使われれば、所有権の侵犯と感じられて不愉快な気持ちになる。
 ただし「緊急避難」という概念があるように、やむを得ない理由があれば許される。「AEDを使うために無断で服を切った」などの重大な話でなくても、「メモを書き残そうとして人のボールペンをちょっと借りた」といった日常のありふれた話もある。「やむを得ないか」は損害と利益のバランスや、人間関係や立場などから具体的・総合的に判断される。


自身の所有物を他者が「ふざけて」無断で使用する

 無断使用の理由が「ふざけて」だとしたら、「やむを得ない」理由には該当しないことになる。所有者にとって利益も公益性もないなら、所有者が認める理由がない。所有者自身も「ふざけ」に参加して楽しめるのなら、所有者の利益になるのかもしれないが、「じゅじゅさんぽ」のケースはそうではない(女子生徒は立腹している)。


自身の「学生服を」他者がふざけて無断で「着る」

 学生服は、代えがきかない、簡単に買えない、学生生活で必須のもの、といった特性があって「なくなったけど、別にいいか」とは普通ならない。


 無断使用が許されるには

  • 理由の不可避性(やむを得なさ)
  • アイテムの重要性
  • 相手との関係性

といった要素のバランスによる。
 「職場で相手の席に行ったらいなかった。メモを残そうと思って相手の机の上にあったふせんとペンを勝手に借りた」といった話なら、

  • 理由の不可避性:自席に戻る手間が大きい
  • アイテムの重要性:一般的なボールペンとふせん
  • 相手との関係性:会社の同僚でよく知っている人

であれば「別にいいか」となりそう。しかし「自席がすぐ目の前」「限定販売のふせん」「同じ会社だけど知らない人」など、各条件が変われば「勝手に使うなよ」と許されなくなってくる。


 今回のエピソードだと

  • 理由の不可避性:ふざけて楽しむため=不可避性がない
  • アイテムの重要性:代えのきかない学生服=重要性が高い

で「無断使用は許容されない」ことになってくる。
 こうした当人を困らせて周囲が楽しむ行為は「いじめ」になり得る。相手の重要な権利(持ち物の占有やトイレに行くことなど)を無意味・故意に侵害して、自身の優位性を分からせようとする行為はいじめになる。
 ただ3条件の残り「相手との関係性」(常習性なども含めて)で、いじめかふざけかも変わってくる。釘崎が先輩を(ギャグ的に)殴って「一方的な優位性」を否定するシーンなどによって、いじめではないように見えている。


 それでも「無断使用が許容される範囲」を超えていて釘崎が怒っていることも事実で、「相手が不愉快に思うことをやって楽しむ人々」を見せられて好感を持つのは難しい。
 またこれ自体いじめでなくても、外形的な行為、この「学生服を本人の許可なく勝手に持ち出してふざけて着て盛り上がる」という場面をいきなり見せられると、どうしてもいじめを連想してしんどい気持ちにはなったのだった。


「女子生徒の」学生服を「男性が」ふざけて無断で着る

 「男子が男子の」でもいじめを連想させてしんどいが、「男子が女子の」になると、そこにジェンダーロールの文脈を見て余計につらい。
 「スカートめくりがギャグ/ふざけとして許される」という意識とも通じている。あるいは「女の子の方が成長が早い/大人びている」という通説が、遺伝的な性差などではなく、周囲からの期待・要求で女性がそれを内面化せざるを得ないだけなのだ、という話も思い出す。男子は馬鹿でふざけていても許される、女子はそれを受け止めて時にたしなめる、といった性差による固定観念を思い起こさせる。
 「釘崎は先輩も殴っていて言葉遣いもおしとやかではない、ジェンダーロールには縛られていない」という言い方が可能だとしても、「男子がふざけて女子の制服を無断で着る」場面を「ほほえましいもの」「笑えること」として提示する作り手側の感覚は、この固定観念に沿っているように見えてしまう。


女子生徒の学生服を男性「教師が」ふざけて無断で着る

 「有利な立場の人は相応の義務を負う」という価値観が(少なくとも私の中には)あって、五条先生がこのふざけに荷担する姿は、この価値観にどうしても抵触してしまうため見るのがしんどい。この価値観は、例えば以下のような言葉や概念とも通底している。

  • 「背任」は、自分の利益のために職業上の義務に背くことを言い、財産権の侵害については「背任罪」が刑法で規定されている。
  • 「ノブレスオブリージュ」は、地位・財産のある人には無私の義務(インフラの整備やボランティア、寄付、従軍など)が課せられるという考え方を意味する。
  • 「船長の最後離船の義務」は、事故があれば船員や客をすべて避難させた後でないと船長は離船できない、というもので昔の船員法12条で規定されていた。(ただ「最後まで残ること」ではなく「最前を尽くすこと」が本意なので、そのように現在は法改正されている。)
  • 「優越的地位の濫用」は、有利な立場の会社が取引先に不当な要求をすることを禁じるもので、独占禁止法や下請法で規定されている。

 「大人と子供」「大企業と一般消費者」「学校と保護者」「国家と市民」など、「強い立場と弱い立場」の関係があれば、強い側が弱い側に好き勝手してはダメだ、強い側にそれなりに規律を持たせないとバランスが取れない、という考え方になっている。(これは正義感というより、むしろ損得勘定に基づいているのかもしれない。)


 教師が生徒と同じノリを共有して「親しみやすさ」「教師らしくなさ」を表現するのはありふれたことで、それ自体は「優越的な地位の濫用」ではない。ただその手段として「ふざけて無断で女子生徒のスカートを履く」を選べば、「いじめ」なり「ジェンダーロールの肯定」に加担しかねない。生徒同士でも許容されないが、教師と生徒(大人と子供)の関係性で強い立場にある側であれば、なおさら「ちゃんとしていてほしい」という願いがある。


各層での問題

 5つのレイヤーそれぞれで、違和感や不快感をもたらす要素が内在していたのだと考えている。

  1. 自身の所有物を他者が無断で使う →所有権の侵害
  2. 自身の所有物を他者が「ふざけて」無断で使う →「やむを得なさ」の欠如
  3. 自身の「学生服を」他者がふざけて無断で「着る」 →いじめ
  4. 「女子生徒の」学生服を「男性が」ふざけて無断で着る →ジェンダーロールの肯定
  5. 女子生徒の学生服を男性「教師が」ふざけて無断で着る →優越的な地位の濫用


 このエピソードを見た時に、こうした多層的な不快さがない交ぜになって「うっ」となった。人によっても(当事者性の有無などでも)「どの要素がどれくらい引っかかるか」は変わってくるのだろうと思う。


 よく「昔は許されていたのに息苦しい」と言われる。例えば20年前に15歳だった自分が同じエピソードを見ても、気にせず笑っていただろうと思う。でも考えられる範囲が広がったり、そうした苦しみの存在を知ってしまうと、「加担する自分を自分が許せるか」が出てきてしまう。ウナギはおいしいけど絶滅危惧種だと知ってしまったら(大量消費型の店では)もう食べられなくなる、にちょっと似てるかもしれない。
 これはフィクションで、現実に直接的に被害を受けた人はいない、という言い方はできる。それでも「フィクションだから」で済まないのが、人間はフィクションをきれいに価値形成から切り離せるほど頭がいいわけではないという点にある。古い通念を暗黙のうちに肯定するフィクションが提示されれば、それは古い通念を固定化する方向に働くことになる。石橋貴明の扮した「保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)」は架空のキャラだったが、ゲイないし男らしくない男性を「笑っていいもの」という通念を強化して、当事者を実際に恐怖させたのと同じことだと思う。


「もともとそういうキャラだから」という擁護

 Twitterなどで「五条推しをやめる」という反発と、それに対する「五条はもともとそういうキャラだから」という擁護も見られた。

五条先生のこのシーン炎上したんか…
今の時代許されやんのかもしれんけどそういうキャラやで済む話だと思うんですけど

https://twitter.com/kahaea183/status/1336003707553546240

じゅじゅさんぽ炎上してるの今知った五条悟に夢見すぎw

「性格以外完璧な男」やぞ?あれこそがごじょせんやぞ?
五条悟過去編と原作を読むことをオススメします^^

https://twitter.com/ankotyan_3/status/1335653534776225794


 「もともとそういうキャラ」の解釈には違和感があって、これは「五条のキャラ造形にこのエピソードが適切と作り手が意図している」が前提されるけれど、むしろ「作り手は全く意図していないわけでも、完全に意図しているわけでもない」と考えた方が自然だろうと考えている。
 五条は一見軽薄だが、能力が高く、体制に囚われない、クレイジーだが魅力的なキャラ、といった人物像だと(さしあたり)理解している。作り手側は「男性教師が無断で女子生徒の制服をふざけて着る」エピソードを、いじめや女性蔑視を暗黙裡に肯定するような効果を持つとはおそらく思い至らず、漠然と「単なるタブー」「最近はうるさく言われがちなこと」程度の認識しか持たなかったために、五条の(軽薄さ・教師らしくなさといった)人物像の強化・補完になり得ると判断したのだろうと解釈している。
 仮に「五条は生い立ち等を背景として、他者の不快感や権利の侵害に無頓着な人物である」を提示するために「ふざけて無断で女子生徒の制服を着る」エピソードを使うなら、例えばスカート姿の五条先生を見た虎杖(男子同級生)が笑わずにドン引きしているとか、男子先輩たちが勝手に着るエピソードは削るなどして、五条先生だけがおかしい/みんなは引いている、といった構図に収めればより効果的になり得る(し、全体としてその価値観や言動を肯定していない形になる)。そうではなかった点も、作り手が完全に意図してはいない傍証なのだろうと考えている。


 作り手も「そういうキャラ」で擁護する人も、そのエピソードが他者を苦しめ得ると考えなければ、「そういうキャラだから」で済ませて気にならない。ウナギも気にせず食べる人は食べるのと同じで、悪いとかどうとかではなく、そこが気にならなければもう全く引っかかってこない。


作品の内部と外部を見ること

 作品には

  • ひとつの世界(現実)として見る=内部を見る
  • 作られたもの(仮構)として見る=外部を見る

の2つの見方があって、誰しもこの両者をその時々で切り替えて見ている。(どちらで見がちかというバランスは人それぞれ違う。)
 この2つを切り分けて考えると全体がもう少しすっきりしてくる。


 「推すのをやめる(担降り)」という批判も「そういうキャラだから」という擁護も、「作品を現実として見る」に属する。現実に起きた出来事を「それが起きたはずがない」と否定することがないように、作中人物の言動や作中の出来事を「そう描かれた以上はそう」と見る。
 一方で「作品を仮構として見る」場合、作り手側の意図や方法を考えることになる。「そういうキャラ」擁護を、作者の意図と実際の効果の不一致から否定的に見ようとすることはこちらに属する。
 国語の授業で、登場人物の気持ちを考える問題は「作品を現実として見る」見方で、作者の意図を考える問題は「作品を仮構として見る」見方をさせるものになっている。


 小説家が「作中人物が勝手に動き出す」と語ることが多いが、これも「ひとつの世界(現実)」としての整合性を保とうとする営みになっている。
 ひとつの人為的な体系がある時に、内的な整合性(各要素間の無矛盾性)を問う場合は、外的な妥当性(体系の前提設定の適切さ)を一旦度外視する(妥当であると仮に見なす/カッコに入れる)ことになるし、外的な妥当性を問う場合は内的な整合性を度外視する(整合的であると一旦見なす)ことになる。その意味で、「ひとつの世界(現実)として見る」と「作られたもの(仮構)として見る」は同時にではなく、切り替えながら見ている。ここを「今どちらで見ているか」を意識することでより論の位置付けが明確になるのだと考えている。


「担降り」と「公式が解釈違い」

 「推しをやめる=担降り」が、作品をひとつの世界(現実)として見る態度から来るものだとすると、作品を作られたもの(仮構)として見る場合、それは「公式が解釈違い」となり、この2つは裏表の関係にある。
 好きだった人物の言動に不満があった時、それを「その人がやったこと」と見れば、その人を肯定できないと考えることになり、推しをやめるという結論に至る。一方でそれを「作り手の失敗」と見れば、その人はそうじゃないはずだと考え、公式の解釈が正しくないという結論に至る。
 先述の「そういうキャラ」擁護の否定は、「公式が解釈違い」の一種になっている。
 推しをやめるか、公式が解釈違いだと考えるかは、その人が作品を現実/仮構のどちらで見がちかに依るところが大きい。


作者と作品、創業者と企業

 公式が解釈違いという考え方に対して、それはおかしいと言われることもある。そもそも作品は公式・作者が創造してくれなければ存在しなかったもので、それをありがたく楽しませてもらっている側(消費者)が「解釈がおかしい」と難癖付けるのはおかしい、公式・作者の提示したものこそが正しいと考えるのが自然だという。
 これは作品を、作者の所有物と見るか、みんなの共有物と見るかで変わってくる。
 その意味では創業者と会社の関係にも似ている。その創業者がいなければこの会社はもともとなかったんだからと、会社は創業者の所有物だと考えれば、創業者の考えが全てということになる。(「公式が解釈違い」はあり得ない、というのと同じ。)
 一方で、会社は社会の公器、ステークホルダー全体のものだ、という考え方に基づけば、創業者であろうと絶対視されることはない。事実、偉大な創業者でも経営判断が常に正しいとは限らない。(創業フェーズと、成功した後の組織の維持・拡大フェーズとでは経営者に要求される能力が異なり、偉大な創業者が経営者としては不適格と見なされるケースはありふれている。)


 創業者と会社の関係を、作者と作品に敷衍すれば、作品をリリースした以上はもはや作者個人の所有物ではあり得ないし、作者の考えが全て正しく作品に対して絶対的とは言えない、という考え方も不自然ではないように思える。
 これは著作者人格権をどう考えるかにも通底している。日本の著作権法には財産権と人格権があり、作品の経済的な価値だけではなく、作者の精神的な側面も保護される。著作者がされて嫌なこと(無断で公開される、他人の作品だと嘘をつかれる、勝手に内容を変えられる、おかしな文脈で使われる、など)が著作者人格権でカバーされている。著作者人格権は、作品を作者の精神と不可分なものとして見なすところに立脚する。作品を社会の公器、リリースされた以上はみんなのもの、という考えとは逆方向になっている。人格権を手厚くするほど著作物の利用・流通は阻害される方向に働く。各国でどれくらい手厚く保護しているかはまちまちで、日本の著作権法での人格権はかなり手厚い部類に入るという。英米法では財産権を中心に保護し人格権はあまり含めない、大陸法では人格権を含めて広く保護する、という方針の違いがあり、「こう考えるのが正しい」と一意に決定されない。


 「公式が解釈違い」を、そんなのあり得ないと考えることも、いやあるでしょと考えることも、どちらも自明なものではなく、作品を作者の人格の延長上のもの・作者と不可分の存在と見るのか、独立したものと見るのかという考え方にそれぞれ立脚していて、0か1かでもなくどこかで無意識に線引している感覚が反映されている。


自分の感じ方やスタンスを相対化する

 そのエピソードを見た時にしんどい気持ちになって、それからみんなの反応で「もともとそういうキャラだから」という擁護にも違和感があり、一方で「推すのをやめる」という意見も気持ちはわかるけれど自分はそう思わない(そもそも「推す」という感覚がない)と感じたのだった。普段はそう感じてそれで終わりでも、たまにはケーススタディとしてきちんと考え直して「どうして自分がそう感じるのか」を相対化しておけば、考えることのトレーニングになるんじゃないかと思って。
 公式が謝罪や撤回すべきだと声高に言いたいわけでも、私は見るのをやめると言いたいわけでもなく(それは実被害の有無やNG箇所の多寡などのバランスで考えればいいことだと思う)、この辺に誰かを苦しめ得る通念や価値観の固定化があるという指摘は、誰かが時々しておく方がいいとも思っている。