やしお

ふつうの会社員の日記です。

当事者より自分の方が分かっているという傲慢さのもたらす無益なコスト

 この前、はてな匿名ダイアリーで↓の記事を読んだ。
デートでお金が減らない


 新しいパートナーが一切をリードしてアレンジしてくれるお蔭で圧倒的な快適さが得られる。そういうタイプのパートナーを今まで経験したことがなく、そういう歓びが存在すると知らなかったからとても驚いたという話だった。
 すごく分かるという気がした。この「一切を私に良くしてもらえる」という感覚は、幼児期にしか得られないはずの、しかも幼児期にはそれが「当たり前」であるために歓びとして認識されない快楽だ。幼児から大人になるというのは、この種の「他人に委ねて当然」という感覚を断念させられていく過程となる。「ご飯を作って貰って当たり前」「連れて行って貰って当たり前」というのが「当たり前ではない」「自分でやれ」と一つずつ剥ぎ取られていく。そうして断念させられてきたものたちが、予期せず一斉に回帰してくるのは驚きだろうし大きな歓びだろう。
 一方でそうした歓びを与えるパートナーが犠牲を強いられているかというと、必ずしもそうでもない。ジェンダーロールと認識して、男だから女性をリードしなければ、という義務感や見栄からそうする場合は確かに苦痛であり得るし、無理がたたって耐えられなくなることもあるかもしれない。ただ、幼児の快楽を断念すること、自身が大人であること(自己を律し得ている自分)に深い満足を覚えるタイプの人もいる。そうした人達にとっては相手をリードしアレンジしてあげることが歓びとなり得る。仮にそうした相手に出会っているのだとすれば、この「忘れていた歓び」が一気に回帰してくる驚きに満たされる事態もよく分かる気がする。




 そんなことを思いながら、はてなブックマークのコメントを覗いてみたら、「金銭感覚がおかしくないかチェックした方が良い」「浪費家で離婚できなかった場合子供の性格が歪む」「財布が共同になる勇気は自分にはない」というようなコメントが並んでいた。そして最も星を集めていたコメントが「ブコメの余計なお世話感すげーな」だったので笑ってしまった。
 記事中ではパートナーや書き手の経済力については触れられていない。「単に書かれていないこと」を「主題とは無関係だから省略された」と見做さずに「書き手が考えていないからだ」と無意識に見做してしまうのは、「こいつより自分の方が分かっている」という読み手のマウンティングに他ならない。誰かがマウンティングを始めれば「それくらい自分だって最初から分かってたし」という自尊心が疼いて(書き手も含めて)集団でマウンティング合戦に発展する。


 誰も気付かなかった側面を誰かが指摘して新しい視点が得られる、その結果その人が賞賛される。それは有意義なことだ。しかしこれが転倒し、賞賛を求めて誰もまだ気付いていない側面を鵜の目鷹の目で探し回り、逆張りを常態化・目的化させた状態は自己顕示欲の暴走だ。既に誰かが指摘して一定程度の注目を集めていることを、我も我もと指摘するのは有意義の範疇を超えている。
 「不要だから書いていない」のか「本当に理解していない」のか、その書かれた物から合理的に推定できない場合はさしあたり前者だと見做す。たまたま今見知っただけの自分よりも、当事者の方が真剣に考えている可能性が高い、自分がすぐに思いつく程度のことは相手もとっくに思いついている、とさしあたり考えておくのが、書き手の尊重であり、読み手の慎ましさというものだろうと思う。
 思いついたことを好きに書いて何が悪いと言われればその通りだが、それは匿名ダイアリーにしても同じことであって、「これが書かれていない」「お前はわかっていない」とマウンティングすることと、「自分は好きに書いていい」と開き直ることとは、彼我の態度が矛盾する。


 こうした自己顕示欲の集団暴走にさらされた書き手は次のような振る舞いを見せる。

  1. 書くことをやめる
  2. 無視する(見ない/見なかったことにする)
  3. 隙を作らない(事前に空隙を埋める/事後に反論する)


 1.は黙って去ってしまう人が多いから見えにくい。以前Twitterでフォローしている人が、家族の話を書いて多くのリツイートを集めた結果、「単に書かれていないこと」を一方的に否定的に推断した人々からの非難にさらされた。そのツイート自体はまるで非難を受けるいわれのない内容だったが、その人は「つらいので消します」とツイートを消してしまった。
 この匿名ダイアリーの記事もそうだが、有名なわけでもない普通に生きている人の、経験したことのない感情や思考が表現され共有されるというのは驚異的なことだ。インターネット以前には自分が直接接している人々からしか得られなかったしほとんど形にもならず消えていったそうしたものたちにせっかく触れられるようになったのに、他者の自己顕示欲の餌食になって消えるのを見るのは耐え難い。


 2.は最も簡単なようで、しかし最も難しい態度だろうと思う。自分の言動について誰かが噂しているのを見ずに済ませるのは、かなり強い決意が必要になる。ブロック機能や非表示機能を使ってそもそも自分からは見えない環境を構築するほかない。


 3.は匿名ダイアリーでも時々「そんなことわかってるよ」とブックマークコメントに反論しているのを見かける。またマウンティングを事前に封殺するため、あらかじめ予想されるツッコミポイントを潰しておくといった技術が向上する。
 今回の記事であれば、主眼は明らかに「こんな感覚を今まで知らなかった」という点にあっても、タイトルが「デートでお金が減らない」で前半がパートナーが支払いをしてくれるという話だから金銭面が主題だという誤解を招きやすいのかもしれない。タイトルを変え、先に「彼氏がイニシアティブを取ってくれる」という話をした後に実例として「旅行先やホテルを手配してくれる」を挙げてから「食事でも支払いをしてくれる」を控えめに配置するだけで印象が異なる。あるいは「元彼も今彼も収入は変わらないし無理してるっぽい感じではなさそう。」とでもさりげなく挿入しておく。そんな工夫を施していく。
 実際ロジカルに読むことはある種の訓練が必要な技能であって、多くの人達は印象でしか読まない。ほとんど接続詞にしか反応していないとしか思われない人も少なくない。(それはダメなことというより省力化の一種でもある。)実質的に同じことが書かれていても、順序が異なるだけでまるで反応が変わる。そこに読み手の反応をコントロールする余地があるが、それは読み手の水準を低く見積もっていると言い換えられるかもしれない。
 そうした細かい(そして本質的には無益な)技術が向上する。技術が向上したことでマウンティングを封殺できるかというと残念ながら、書いてあるのに「書いていない」と言い出す人や、明らかに誤読に基づいて非難する人が出てくるばかりで果てしない。
 こうした技術はしかし、報道機関やプロのライターの手による記事に要求されるものであって、普段ものを書いているわけでも職業にしているわけでもない人が「こんなこと思った」と書いてくれている話に要求するようなものでは全くない。しかしマウンティングをしてしまう人は自己顕示欲を隠蔽するために「こいつの書き方が悪いからだ」と自分自身に言い聞かせてしまう。




 このことははてなブックマークTwitterに限らず職場でも家でもありふれている。ちょっと聞いてほしいな、共感してほしいなと思って話してみると、こうした方がいい、あれは確認したのか、ここを検討してないとダメだといったツッコミを受ける。そして嫌になって

  1. 言わなくなる
  2. 無視する
  3. 隙を作らない

という同様の回避方法を取る。
 上司への軽い状況報告のつもりが、たくさんのツッコミを浴びせてくるのでそれに答える時間や、答えるための調査の手間隙のコストが嵩んで面倒くさい。次に繋がる意味のあるものでも、把握することで何かをしてくれるわけでもなく、念のためやツッコミのためのツッコミ、本人の思い付きや知的好奇心を満たすためだけの質問でしかなかったりすることもある。本人でさえ「こういう意味があるからこの質問をしている」と説明できないような無意味な質問もあったりして、ただ無益なコストが増大することがある。
 だからもうあんまり報告しないでおこうとか、メールで問い合わせが来たけど無視しておこうとか、突っ込まれないように事前にしっかり調べてから報告するとか上手に使い分けていくことになる。3の技術が向上すると、相手の意識の向く方向を上手にコントロールできるようになっていく。そうして建設的な状態からは離れていく。


 相手を信頼できなかったり、自分の方が相手より上だと示したかったりすると、「必要があるからつっこむ」より「つっこむことそのもの」が目的化していく。この私に共有してくれたことまずはサンキューな、の気持ちで受けてちょうどいいのだと思う。