やしお

ふつうの会社員の日記です。

城伊景季・菊池直恵『むしろウツなので結婚かと』

 身近な人がウツになる、という顛末を描いたのが『むしろウツなので結婚かと』という本だけど、事例を知ること、概念や用語を知ることはその状況に直面した人にとって極めて重要な情報になる。
 いきなりルールも知らないサッカーの試合に放り込まれたら、ただうろたえるしかない。周りから「何やってるんだ!」と怒られても正解が分からない。目の前の事態は何かのルールに従って推移しているし、目の前の人物は何かの共通理解や思考に基づいて行動しているように見える。でも、それが理解できないからどうしようもない。サッカーのルールはこうで、だからこんな戦略や考え方が出てきて、実際の試合運びの例を映像で見せてもらえれば、大きなヒントになる。上手にプレーすることまではできなくても、自分がどんな状況にいるのか知るだけで少しは安心できる。本書は「ウツ」という状況についてそんなヒントを提供してくれる。


 例えば、妄想には2種類があるという。荒唐無稽な一次妄想(私は天皇である、など)と、理解不能ではないような二次妄想(みんなが私を嫌っている、など)がある。統合失調症では一次妄想が多く、ウツでは二次妄想が現れることが多いという。そして妄想が妄想であるのは、それが「外部からの理屈による訂正が不可能である」という点にある。
 主人公である「シロイさん」は、二次妄想の「一定程度の理解ができる」という罠にはまってしまったと回想する。ウツになったパートナーの「セキゼキさん」は「会社の人たちが俺に怒っている」と繰り返し言う。仕事を休んで迷惑をかけてしまったから、会社の人たちは怒っている、という理解が可能な主張になっている。それで「シロイさん」は「みんな怒ってない、大丈夫だ」と訂正しようとする。しかしそれは妄想だから、訂正できず拒否される。お互いが疲れるばかりで実りがない。
 これも概念、ルールを知っていれば対応がずいぶん楽になる。


 ウツを発症して、そのパートナーがどう対応したか、上手くいった点と反省点をまとめた記録は本当に貴重だろうと思う。経過(ストーリー)を漫画で追って、原作者による解説を1話ごとに載せていくスタイルで展開される。漫画の方で事例が、解説の方で概念や知識が主に提供される。(なお続巻が予定されている。)読んでいて「楽しい」というより、自分の知っている人が知らない人のようになってしまうつらさの方が大きい。「シロイさん」が明るく前向きな人物として描出されて、絵もことさらに怖さやつらさを強調するものではないから、救われる。


人を諦めないことと切り捨てること

 本作ではパートナーを支えるという選択が取られる。しかし「見捨てる」という選択肢だってあるんだよな、ということを(本旨とはちょっと関係ないけれど)読みながら思っていた。
 ウツに限らず、認知症やDV、借金癖や失踪癖、アルコールや薬物やギャンブルの依存症などに身近な人が陥る状況は、誰にだって起こり得る。そして、そんな相手を支えようとすればどうしても精神的・肉体的・経済的なダメージを支える側が少なからず受けることになる。相手からいわれのない非難を受けて自尊心がゴリゴリに削られたり、物理的な暴力で傷ついたり、「もしそうなっていなかったら」失わずに済んだお金を失ったりする。ダメージを減らす工夫や努力はしても、ゼロにするのは難しい。


 そんな時に相手を支えるかどうかは、「諦めた自分を自分は許せるか」を自問する中で決定されていくのかもしれない。後から振り返って自分を肯定できるかどうか。この決定は純粋に合理的に下せるわけではなく、諦める方向に舵を切る瞬間はむしろ衝動的だったりするかもしれないけれど、「後悔しないか」を自分に問うのは普通のことだろうと思う。
 「自分を非難せずにすむか」を考える時、そのベースで「常識」がそれなりに影響を与えてくる。当人の意識では自分の意思で決定しているように思えても、完全に自由な意思というものはなくて、この時にある程度「常識」が参照される。「世間に非難されないか」に近い視点で考えている面もあったりするんじゃないかと思っている。(とりわけ「シロイさん」がというより、一般的に判断基準として常識が作用してくる。)

  • 「病気」だと認知されている度合い
  • 支える側のダメージの程度
  • 関係性の距離の近さ
  • 代替サポートの有無の程度


などの物差しでそれぞれ「見捨てても非難されない」水準(常識)が曖昧に存在する。


 借金癖のような一般的には性格とか悪癖のような属性と見なされるものであれば「そんな人とさっさと縁を切るのが当然だ」と言われる。より治療や支援が必要な「病気」として認知されている度合いが高いものほど、「見捨てる」選択をした場合の非難の度合いも高くなる。ウツや認知症も治療が必要な「病気」だと広く認知される前はきっと、同じような言われ方をしたんじゃないかと思う。現に今も無理解から「甘え」などと言われたりもする。実際には自分の意思で変えていける(症状を抑えられる)側面と、自分ではどうしようもできない側面の両者が病気でも性格でも存在する。
 DVのように肉体的なダメージを受ける場合は「支えてる場合じゃない、自分の身を守るために逃げろ」と理解が得られそうな一方で、精神的なダメージの方は見過ごされがちだったりする。暴言だって暴力と同じくらいに取り返しのつかないダメージを与えることもあるけれど、受けたことのない人にとっては理解が難しい面がある。ダメージの種類や程度によっても「それならしょうがないね」と言えるかどうかが変わってくる。
 関係性で言えば、友人、パートナー(恋人)、夫婦、親子、といった(一般的にみなされる)近さの差があって、友人であれば支えずに縁を切っても非難されない、自分の子供であれば支えて当然だと言われる、といった違いになってくる。それから代替サポートの有無の程度という物差しについては、私が支えなくても家族がいるとか、専門家による治療が受けられるとか、逆に自分が支えない限りこの人は死ぬとか、そうした程度の差によっても「あなたがやらなくてもいいんだよ」となるかの違いが生まれる。


 常識はある種の思い込みに根差している。グラデーションがある中での恣意的な線引きだったりする。本当にその線引きに根拠や妥当性があるのかは、よくよく自分で見つめ直して検討しないと分からない。そんな根拠のない線引き(常識)に、知らず知らずのうちに引きずられて判断を下したりする。


 これは個人的な体験だけど、自分が大切だと思った相手を支えようとして、というより上手くその「病気」か「悪癖」の症状を回避するような形で関係性を構築・維持できないか自分なりにあれこれ試したが、結果的に共依存のような形になって相手の「症状」もむしろ悪化させ、自分も耐えられなくなって関係性そのものを断念してしまったことがある。(抽象的な書き方になってしまったけれど、別のところでこの顛末は書いた。)自分のやり方が初手から間違っていた、もっと上手くやれたかもしれない、最初から諦めておけばお互いむしろ良かったのかもしれない、等々の後悔が残る。
 最終的に「ばっさり切る」という判断を下した時に、自分の意識では「自分の判断、自分の意思」とその瞬間は考えていたけれど、実のところ「常識」を参照していた面もあったかもしれない。「別にこの人のことを諦めても世間に非難はされないし、自分も自分を許せるだろう」という気持ちがあったんじゃないか。


 「シロイさん」が「セキゼキさん」を支え続ける姿を見ると、自分は結局中途半端にやった挙げ句に投げ出してしまった、という気持ちがちょっと出てくる。もしかしたら続巻で支える側の決意にまつわる葛藤もより描かれるのかもしれない。
※ただ描かれなかったとしても瑕疵になりはしない。よくネットの記事に対して「これが言及されてないからこいつは分かっていない」と馬鹿にするコメントを見かけるけれど、「書かれていない」は「考えていない」ではなく単に「書かれていない」でしかない。「本旨ではないから」など理由はいくらでも考えられる中で、「馬鹿だからだ」と短絡させるのは、自分は頭がいいと信じたい弱さの現れであり、当事者よりも自分の方が分かっていると信じるのは傲慢でしかない。


 相手を支えるかどうか迷った時に踏ん張れるかどうか、自分では合理的に判断していると思っても、実際にはその真っ只中にあって完璧に合理的に決めるなんて難しい。踏ん張った結果、ダメージを受け続けて支える側もぐちゃぐちゃになってしまうこともあれば、踏ん張った結果、良い方向に向かったという場合もあるから難しい。「後から振り返ってわかること」をその最中に決めるのは極めて困難だ。
 本書が見せてくれるような事例や知識、概念を参照して、完璧じゃなくても少しは「この先どうなるか」を予見すればその判断に大きく役立つ。あるいは自分が内面化させた「常識」が何なのかをある程度意識して「自分が何を参照して決断しようとしているか」を考えてみることも、後悔しない選択をする上では重要なんじゃないかと思っている。「支える」か「見捨てる」かは0/1の二択ではなくその「あいだ」が連続的に存在していて、そこを上手く判断するためにもこうした認識が役に立つんだろうなと思う。


経緯

 ちなみに私が本作を知ったのは出版社の担当編集者からのメールからだった。「新刊を献本したい。気に入ったらブログで紹介してほしいという気持ちも正直ある。」という連絡があり、その申し出を受けたのだった。
 原作者のid:white_cake(シロイ、城伊景季)さんのことは、直接の面識もなければインターネット上で直接やり取りしたこともないけれど、書かれたもの(ダイアリーなりブックマークコメントなり)を見て以前から「いい人だな」と好感を抱いていた。「いい人」というのは相手の立場や状況を理解した上で発言する人だ、という意味。正論を相手に一方的に浴びせて自分だけが気持ち良くなろうとする、といった態度を自身に対して許さないような、そんな律し方の人なんだろうかと常々思っていた。
 出版社からの献本の申し出は私にとって初めてだったけれど、基本的には「自分で買うと思うか」で受けるかどうか選択しようと思う。


むしろウツなので結婚かと 解説付き

むしろウツなので結婚かと 解説付き