やしお

ふつうの会社員の日記です。

緊急事態になった明日も、不要不急の仕事で外出する

 新型コロナウイルスの「緊急事態宣言」は、日曜(4/5)に「首相が出す意向を固めた」という報道が出て、月曜(4/6)に「明日宣言を出す」という会見がされて、今日火曜(4/7)の夕方に宣言が出された。首都圏の大手メーカーに勤務していて、何かしら会社から指示が出るのかなと思っていたら何もなかった。せめて「宣言が出る見込みだけど引き続き原則在宅勤務を続けてね」くらい人事部長か社長あたりからメッセージが出されるかと思っていたけれど、それすらなかった。なのにプレスリリースでは「当社は緊急事態宣言を受けて明日から1ヶ月間原則在宅勤務に切り替えます。」と出してて、なんでまず社員に言わないのと思って失望する。
 先週(3/30)から在宅勤務の指示は出されているものの「業務に影響がある場合はその限りではない」くらいの緩さで、感染防止よりは新製品リリースや既存製品製造のスケジュールが優先のままのようだ。製品検査・工程設計の部門に勤務しているので、先週も今週も出勤している。今日「明日はどうなるのか?」と上司に聞いても「会社からも事業部門からも指示はないので予定通りそのまま」との指示だったので、「緊急事態」の明日も不要不急の製品をつくりに外出する予定になっている。インフラ系でも医療機器でも食品工場でもない(最低限の社会機能の維持には直結しない)製品をこんな状況で外に出てつくりに行く。気持ちがぐちゃぐちゃになっている。(ひょっとしたら明日になって何か出るのかもしれないけれど……)
 3月上旬に横浜市内のスポーツジムで感染者がいた、というニュースが出た時は、同じジムに通ってた人が会社にいて、その人もその人と会議に出た人も在宅勤務になって大騒ぎしてたのがもはや懐かしい。

 ここ数週間で気持ちも色々移り変わっていて、先週(3月最終週=4月第1週)は「怖い」という不安の方が強くて、東日本大震災原発事故があった時の気持ちに似ていると思っていた。でも先週末あたりからは憤りに近い気持ちに変わってきているのを感じている。
 3/20(金)~22(日)に3連休があって、それまで「外出自粛」が強く言われていたけれど(どういうわけだか)何となく日本は感染を抑え込めているという雰囲気が出てきて緩んじゃって、その3連休でたくさん人が出歩いたから、潜伏期間を過ぎた3/24(火)あたりから感染者数が増えている、という話が出てきた。ニューヨークは感染者が100人/日くらいだったところから2週間後には6千人/日になって医療現場のキャパをオーバーしてもうトリアージに近い状態になっている(全員を生かせなくなっている)、日本は油断していると同じことになるぞ、みたいな話がネットに流れたりもした。3/30(月)には小池都知事が夜8時から緊急会見を開いて、その中で医師が「このウイルスは症状が急変するところが怖い。『この人は大丈夫そうだな』と判断した人がわずか1~2時間後に手の施しようがない状態にまでなる。ICU・人工呼吸器・人工心肺に頼らないと生かせない状態になってしまう」みたいな話をしていた。同じ3/30には志村けんが前日に亡くなったというニュースも流れた。日本より感染者数も死者数も少ない国で、日本より厳しい外出制限をかけているところもあるという話も流れてきた。
 そんなあれこれを耳にしたから、先週は「こんな風に普通に仕事で外に出てていいわけないよな……」「自分だって感染したり感染源になっても全然おかしくないよな」という気持ちで働いていた。最悪のパターンだと死ぬんだろうか、と漠然とした不安を抱えた状態だった。原発事故の時も、楽観論から悲観論まで色んな情報が大量に出てきて、しかもどちらもそれなりに理屈が通っていて正しく見えた。「関東にいたら危ないのかな」と思いながら、とはいえ仕事を放り出して地元に帰るみたいな選択は結局せずにそのまま過ごしていた時の、あの感覚ととても似ていると思った。


 誰だって「命あっての物種」だってことは分かっている。お金があろうと何だろうと、死んだら元も子もない。でも、命のリスクがはっきり推定できない中で、経済的なリスクを個人としてどれくらい負うか、というバランスを判断するのはとても難しい。全部仕事をほっぽり出した時に自分の立場がどれくらい危うくなるのかという恐れと、言われるがまま仕事を続けた場合にどれくらい自分の身体が危ういのか(あるいは社会全体のリスクを増大させるのか)を個人で考えて判断しろと言われるのはきつい。
 全員一律でやめるのならいいけれど、自分一人が仕事を放棄した場合に、具体的に誰にどう負担がのしかかるかが分かっている状況だと、その選択を取ることが難しい。個人の判断でやめることが難しい、全員一斉にやめるしかない、という状況だと上が判断する必要があるのだけど、どこまで上にさかのぼっても判断できる人がいないのだった。


 みんなでせーのでやめない限り誰もやめられないというのは、個々の労働者に限った話でもなくて、会社単位でも同じなのかもしれない。横並びで業界一斉に新製品開発なり製造なりを止めるならともかく、どこかが抜け駆けしてしまうと負けてしまうから止められない。例えば事業部門の長が「世の中的にはこの製品を今頑張って進めるより、感染率が上がらないよう休業する/完全在宅に移行させた方がいいんだろうな」と思ったとしても、社長や担当役員が「了解。その代わり他社に負けないリカバリーのプランを立ててね」と指示してしまうと、結局骨抜きになってしまう。同じことが事業部門の長と部長、部長と課長、課長と担当者の間でも起こる。これが「業務に影響のない範囲で原則在宅勤務」のあり方になっている。
 それはさらに上部の構造、国家間でも同じなのかもしれない。命と経済の天秤で上から下までのどこかのレベルで誰かが腹を括らないと、全員が「こうした方がいいのに」と思っていてもその選択は実現されない。


 社会機能維持のために必要最低限の仕事だけ、というのは、人間が体調崩した時に栄養と休養と脱ストレスの確保に専念して、色んな娯楽や美味しい食べ物は諦めるみたいな状態だと思うけど、それが国単位でちゃんとできないって感じなのかしら。「そうした方がいい」と思っても貯金がなかったり雇用が不安定だと体調が悪くても休めずに働き続けないといけない、みたいなことが国家単位でも起こってるのかもしれない。「補償とセットでなければ自粛に従えない」とは誰もが言うところだけど、「補償」ができるだけの体力がなかったりするんだろうかと漠然と思ったりした。(それは均衡財政派の言い分でしか無い、といった主張もあるけれど、その辺の妥当性を考えるだけの専門性が今の自分にはない。)
 会社も同じかもしれない。決断できないというより、利益を落とした状態で社員を養うだけの体力が実はもう残されていなくて、通常に近い業務を維持しないと生きていけないので、現場に近い(具体的な物を触らないと進まない仕事の)労働者は外出してでもやってくれ、ただそれをはっきり言っちゃうと「不公平だ」って話になっちゃうから黙ってる、だから何の指示も出さない、って感じなんだろうか。それは会社単位で見た合理性ではあっても、社会全体・世界全体で見た合理性にはなっていない。その合理性を実現するのが国家なり政府なりの単位だったとしても、そこにも余裕がないとどうしようもなくなる。広い視点(空間的に広い視点/時間的に広い視点)で合理的な選択肢を取るには、ある種の余裕が必要で、余裕がない場合は個人→会社→行政みたいにより広い単位で調整(その余裕分の補填)が必要になってくるけれど、全部に余裕がないと結局は不合理な選択肢をなし崩し的に取らざるを得なくなる、みたいなイメージなんだろうか。


 不安、怖い、という気持ちがどちらかというと憤り・怒りに近い感情に変わっていったのが4/4(土)あたりだった。都内で新規感染者数が100人を超えたのがその日で、「現に感染者が拡大している」という状況で、「週明けから外出禁止」のお触れでも出たりするのかな? と思っていたけれどその様子もないまま過ぎていく中で、「なんで何にも出さないの」という怒りに近い感情になっていったのだった。
 こうした種類の「怒り」は、「自分が本当にすべき(だと思っている)こと」と「自分が現実にやっていること」との間に乖離がある状態だと、その原因を自分に求めると苦しくなってくるので、それを回避するために誰か他者に怒りを向けている、そんな機序だと思っている。「こんな不要不急の製品つくるために外出すべきじゃない」と思っているのに、現実にはそのために外出している自分がいて、感染防止に寄与していないどころか自分が拡大に手を貸している状況を「自分のせい」と思うのがしんどいから、「会社が/国が悪いんだ」と外部を責めないとやっていけない。この機序はよくある話で、「上司が悪いから自分は力を発揮できないんだ」といったタイプの恨みつらみはよく見かける。(ただしこの話は、「だから個人の気持ちの問題なんだ」と事態を矮小化するために言ってるわけじゃなくて、憤りや怒りがどこから出てくるのかを自分なりに見つめたい、というだけのこと。)
 それから怒りは、ある期待が実現されなかった時にそのギャップから生じてくるけれど、ずっと不安に思っている中で「そうは言っても何かしら合理的な指示が出るのでは」と漠然と期待していたところに「何もなし」だったので余計に失望が大きかったのだと思う。


 リモートワーク・在宅勤務をしろ、という指示は会社や事業部門から出されてはいて、「子供が休校になった親はしてもいい」→「子供がいなくい人もできるならしてもいい」→「原則として在宅勤務しろ(無理な人は除外)」と、少しずつトーンが変わっていった。だけど自部門は製品を直接扱わないと難しいからという理由で、実施しているのは3分の1くらいで、他は出社したり協力工場に出向いたりしている状況だった。「業務を犠牲にしても、在宅勤務を前提として考えろ」というトーンにまでは来ていない。
 在宅勤務制度自体は、2008年にトライアルを経て導入され10年以上は制度として会社にあった。当時は職場でもみんなデスクトップPCだったからまだ身近で現実的な話ではなかった。(今はほとんど全員ラップトップ。)東日本大震災の時に輪番停電・輪番操業があったりしてBCP/BCMの文脈で在宅勤務の活用拡大の話が出ていたかと思う。2019年には政府が「働き方改革」を言い出したこともあって、全社員が1回以上は体験しようというキャンペーンが社内で展開された。課長は「難しいと思うけどやれそうな人はやってね」と課員に案内を出していて、実際にやったのは1人か2人くらいだった。
 「在宅勤務は原則週1回まで」のルールだったが、2月末に政府から休校要請が(突然)出された時に緩和された。ただしこの時点では「子供がいて休校の影響を受けた家庭は、在宅勤務にしてもいいよ」だった。3/9時点で「生産に影響なく業務があれば在宅でOK」と「子供の有無」の縛りはなくなった。自分も3月第3週(3/23の週)に2日間やってみた。3/27(金)に翌週は原則在宅勤務との指示が出される。ただ「業務に影響がある場合は出社してもOK」というもので、部署にもよるかもしれないけれど全体で半分くらいは出社している。自分の部署は3分の2くらいは出ている。


 日曜の時点で「緊急事態宣言が出される見込み」の報道が出て、もし在宅勤務を完全にやれ(新製品立ち上げ・既存製品製造はリスケ)という話になったら、うちの部署だとやることなくなっちゃうかもと思って、月曜に課長に「自己啓発みたいのも在宅業務に入れていい?」と相談したら「さすがにそれは難しい」という話だったので、通常業務に直結する作業から、順に遠くなって業務改善の検討とか、教育資料・引き継ぎ資料の作成から最後は自己啓発になるみたいな、優先順位をつけた業務のカテゴリリストを作って、自分のグループのメンバーにこの方針で具体的に自分で進められそうなことのリストアップを初めてみてほしい、と依頼を出したり、一部のメンバーとは「この際こんな教育資料を作ってみるのはどうでしょうか」と相談してみたりした。自分は係長ぐらいの立場なので「完全に外出するなって話になるかも」と耳にしたら、せめてそれくらいの準備行動をしておくべきかしらと思ってそうした。
 火曜になって、今日の夕方には緊急事態宣言がされるって話だったから、何か指示が出るかな、今手掛けている新製品立ち上げの中断のための準備をするのかな、と思っていたけれど、午前が終わっても、15時になっても、16時になっても、結局19時になっても何も出なかった。課長には外出先から「今日は事業部門から指示が出そうですか」と聞いても「何もないので明日も予定通りに進めてください」とのことで心底がっかりした。これは課長が悪いわけではなくて、そのレベル(新製品の延期)の意思決定ができるのは事業部門の長かそれ以上でしか難しいからしょうがない。ただ課長から課員に向けても特に何のアナウンスもなかったので、せめてと思ってグループのメンバーには「指示は何も出されていない。課長からは予定通り進めろとのこと」とせめて状況だけは共有した。
 これって自分の立場だともっと強力に「我々を殺す気か!」と上司に突き上げるべきなのだろうか、ともちょっと思った。それをせずに「ちゃんと決めてくれない」と恨むのは結局、自分の役目を果たして無いってことなんだろうか。ただこの辺をあんまり突き詰めて考えたり、他者とむやみに衝突を発生させていると、自分の精神衛生を危うくすることにもなりかねない。(「命あっての物種」の原則は精神衛生にも適用される。)もっとマイルドな形で上司を通して製造部門の長が「製造部門としてはリリース延期を提案したい」と他部門に言えるようにじわじわ圧力をかける、何か素案を提示していく、くらいのやり方がいいのかも、でもそれって「緊急事態」にのんびりやることか? とかあれこれ考えてしまう。自分にやれそうなことを、みんなが納得がいってハッピーになれることをやっていこうと思う。


 今日(4/7)のクローズアップ現代では、雇い止めにあっている人の特集がされていた。いきなり収入が絶たれる人が現にいて、そうした現実と比べると自分の悩みというか憤りは結局、クビになりっこない・休業になっても(減額されたなりの)給与は貰える、という安心がベースになってるんじゃないか、結局安全なところから怒ってるだけなんじゃないか、って気持ちにもなってくる。でもそれとこれとは別問題というか、この影響で生活が脅かされる人は救うって話も、感染拡大防止のためにきちんと事業を止められるようにするって話も「どっちも両方」なんだよな、って思い直す。相対的に恵まれた立場にいるとしても、それは相対的に苦しい立場に置かれた人と比較して「だから我慢しろ」って話ではなくて、どっちも課題は解決するって話になっている。


 新型コロナウイルスのあれこれで、感染したわけでもないし、大きな意思決定する立場にいたわけでもない一般人が、その当時どういう気持ちでいたかってことも記録に残しておけば10年後、20年後には(まず本人にとって)いい資料になるかもしれないと思って日記を書いている。