やしお

ふつうの会社員の日記です。

民主党政権を今さら振り返る

 安倍首相の辞任表明とは無関係に、そういえば民主党政権ってどうだったっけと思って今月本を読んでみたのだった。


 民主党が2012年末に下野した後、大学教授や弁護士らのプロジェクトメンバーが現役議員らにアンケートやヒアリングして、経済や外交など各分野ごとに民主党政権の来し方をまとめて2013年に出版されている。タイトルも「失敗の検証」だし、下野直後にまとめられていることもあって、どちらかというと成果より「どうして3年で崩壊してしまったのか」という内容になっている。

 

反面教師としての民主党政権

 改めて見てみると、民主党政権の面々って誠実というか正直な人が多かったんだなと思う。稚拙、無邪気、ピュア過ぎるとも言い得るのかもしれない。マニフェストに縛られ、ルールを守り、理想論を口走り、その結果として迷走・混乱した印象を国民に与えて支持率を低下させて崩壊する。(実際に迷走・混乱している。)政権末期は政権党らしく機能していくけれど、それは旧来の自民党スタイルへの回帰になっている。


 その後の自民党の第二次安倍政権はこの民主党政権をしっかり反面教師にして安定させたんだなとも思う。「外交の安倍」「アベノミクス」を発足当初からアピールしたのも、民主党政権が外交的に混乱して、経済成長も積極的に提示しなかったことで支持率を落としたのを踏まえている。外交と経済は、やってるアピールができてないと(実際の効果や成果とは関係なく)支持率を落としてしまう、というのを民主党政権が身をもって教えてくれた。
 正直にやろうとすれば叩かれるのだから、答えない、はぐらかす、嘘をつく、記録を取らない方がマシだってことも、民主党政権は教えてくれた。もともと加点方式じゃなく減点方式で見られてしまう以上、こうなるのも必然かもしれない。


 以前、菅首相東日本大震災で被災者に怒られて謝る場面のニュース映像を見たことを思い出した。避難所で被災者の話を聞き終えて菅首相が立ち去ろうとしたところ、まだ話をしていなかった町民から「もう帰るんですか?」と声をかけられて避難所の奥へ戻る。「私達だって総理が来るというから待っていたんですよ、無視するんですか」と詰られて「ごめんなさい」「すいません」「お話聞かせて下さい」と謝る映像がテレビのニュースで流された。
 これは菅首相が悪いというより段取りの問題だと思うけれど、責任者としては素朴な/普通の対応だろうと思う。ただもし同じ場面が安倍首相の身に起こったとして、戻って謝る姿をテレビに見せるところをイメージするのは少し難しい気もする。安倍首相は街頭演説でも警察も導入して批判的な聴衆を排除するくらい念入りだから、仮に避難所に行ったとしてもそういう「弱味」を見せないように「ちゃんと」しただろうなと思う。謝れば「悪いことをした」という印象になってしまうのなら、謝らない方がマシ、という方針は現に有効に機能してしまっている。
 安倍首相個人の性格の問題というより、首相周辺も含めて自民・民主政権を含めた第1次安倍政権~野田政権までの「印象の作られ方」の恐ろしさを身に染みて分かっているから、徹底して避けているのだろうと思う。


 官僚の掌握の仕方も、民主党政権(前半)では脱官僚・政治主導を掲げたものの、システムとして十分に構築できずに属人的になってしまった。上手く官僚と関係を構築して動かせたか、あるいは官僚を過度に排除して対立してしまったかが政務三役(特に大臣)の資質で左右されたし、官邸による官僚機構全体のコントロール事務次官会議を廃止した結果として十分に機能しなくなった。
 第2次以降の安倍政権の場合は、各省庁の主流派から外れた官僚を「官邸官僚」として登用し、従来の官僚機構とは別の層を形成することで全体をコントロールし安定化した。(その辺は↓で以前に整理している。)
  安倍政権での「第二官僚」のメンバー - やしお


 民主党政権の失敗を踏まえているとしても、合理的・意識的に全部コントロールしてそうしているわけではないんだろうとも思う。もともと安倍首相の個人の資質として、たぶん物事を(自分自身含めて)相対化する能力があまり高くなくて(高かったらこの振る舞いに耐えられない)、それで価値判断としては「自分を支えてくれる人を裏切らない、周りの人のために頑張る」になっている。為政者としての倫理より、私人としての道徳に価値判断が支えられている。
 官邸官僚などの周囲も自分を取り立ててくれた首相を支えようとする。そうした共依存のような関係によって、政権維持そのものが自己目的化していってるんじゃないかと想像している。黒幕がいて全部そいつのせい、と考えるより、個々人は誠実にやってるつもりだけど状況がその方向を決定させてしまう、と考えた方が現実に近いんだろうなと思っている。
 安倍政権がどちらかというと政権維持を自己目的化した結果として、立憲主義の原則(権力の分立・抑制・均衡)をないがしろにする「程度」で済んでいるけれど、この形で安定できるという実績を見てしまった以上、本気でシステムのハックを利用して何かを成し遂げようとする人が出てきたとしても、止めるのは難しくなるのかもしれない。


民主党の来歴(政権獲得まで)

 96年に誕生してから国民民主・立憲民主に分かれた(もうすぐ一部合併する)現在までの離合集散の流れは、前提知識として必要なので整理しておく。


 以前に別の記事で作った90年代の政党の離合集散の図もあるので、こちらも載せておく。

  公明党が自民党と連立を組んでいく経緯 - やしお
※この図は、野党だった公明党自民党と連立を組んでいく過程を整理する、という目的でその前提として必要だったので描いたものだけど、この時の公明党は、小沢一郎新進党に参加したり、その後自民党からめちゃくちゃ攻撃されたりしていた歴史もあって、その自民党(というか野中広務)の攻撃方法もすごくて面白い。


 ↓は選挙の結果一覧。数値は全議席数に対する選挙後のその党の議席数の率。一応第3党まで入れて、第2党と第3党の議席率の差も入れてみたのは、差が大きければ二大政党に近い状態での野党第1党だし、差が小さければ相対的に第2党なだけなのかが見えてくるかなと思って。


 自民党の一党支配(55年体制)が93年に終わるけれど、この時自民党から離脱して、経世会竹下派)から分離した小沢一郎羽田孜らが新生党を、派閥横断の若手・中堅議員を集めた武村正義鳩山由紀夫らが新党さきがけを結成する。自民党共産党を除いた8党連立で細川内閣が成立して、その後に新党さきがけ社会党が抜けて羽田内閣、その抜けたさきがけと社会党自民党と一緒になって自社さ連立の村山内閣、次の橋本内閣で社民とさきがけが抜けて自民単独政権になる、という流れになっている。


 村山内閣で自社さ連立政権だった時に、野党になっていた新生党公明党などが一緒になって新進党ができる(94年12月)。この後、橋本内閣でさきがけと社会党社民党)が連立を抜けて野党になる。最大野党である新進党に対して、勢力が小さく埋没する危機を感じた鳩山がさきがけ+社民の新党を模索して、さきがけのほぼ全員+社民の半分の議員が集まって民主党ができる(96年9月)。(ちなみにこの民主党の結党で25億円の費用がかかっていて、15億を鳩山家が、10億を連合(日本労働組合総連合会)が貸し出している。)
 その後の民主党政権での主要メンバーとしては

が結党時に参加している。あと社会党出身で93年に落選していた仙谷由人(法相・官房長官)も96年衆院選民主党議員として復活している。
 民主党ができた時点では、最大野党は新進党で、自民・新進に次ぐ第三勢力、という位置付けだった。


 小沢が代表になった新進党は、最大野党として政権交代を目指すが96年総選挙で負けて、羽田・細川の首相経験者が離党したり、自民党が引き抜き工作を仕掛けてきたりして弱体化する。小沢は自民党との大連立構想を模索するが、党内の反小沢グループが反発して97年12月に6党に分裂する。分裂したうち、小沢派は自由党に、元公明党の議員たちは公明党に、反小沢派は98年4月に民主党に合流する。この結果、民主党野党第一党になる。
 この時民主党に加わったのが

など。00年衆院選では、96年に落選していた野田佳彦(財相・首相)が民主党議員として復活し、その他に細野豪志環境相)や長妻昭厚労相)が初当選している。


 98年8月の参院選自民党が負けて(この責任を取って首相が橋本→小渕に変わる)ねじれ国会解消のために自民党自由党と自自連立政権を組む。その後に公明党も参加して自自公連立になると、自由党の影響力が低下したのを嫌った小沢が連立離脱を進めた結果、自由党内で離脱反対派が保守党をつくって分裂する(自公保連立政権)。(ちなみに現在、自民党幹事長の二階俊博や、東京都知事小池百合子はこの保守党のメンバーだった。)
 03年の小泉政権下で、政権に残った保守党は自民党に合流し、野党になった自由党民主党に合流する(民由合併)。この民由合併で小沢一郎藤井裕久(財相)が入る。


 ここまでが政権獲得前までの流れ。まとめると以下の3段階で野党がバラバラになってから10年かけて最大野党としてまとまっていく。

  • 第1段階:さきがけと社民で合流して民主党を結党(96年)
  • 第2段階:新進が分裂して反小沢グループが合流する(98年)
  • 第3段階:自由(小沢グループ)と合流する(03年)

 

民主党の来歴(与党時代)

 05年の小泉政権郵政選挙で大敗し、偽メール問題で前原代表辞任・永田議員辞職に追い込まれる。
 06年に小沢代表・菅代表代行鳩山幹事長の「トロイカ体制」。
 07年参院選で大勝してねじれ国会で自民党を追い込むが、09年5月に小沢は政治資金問題で代表辞任する。
 09年8月衆院選で大勝し鳩山政権発足、小沢は幹事長に返り咲く。


 普天間基地問題の迷走と鳩山・小沢の政治資金問題で支持率が低下し、10年6月に鳩山が首相辞任・小沢が幹事長辞任する。
 菅内閣が発足し、反小沢の仙谷を官房長官、枝野を幹事長に据える。(この2名は民由合併に強硬に反対していた。)発足当初は支持率が回復していたが、参院選前に菅首相が突然「消費税10%」を言い出して迷走、惨敗しねじれ国会になる。ねじれ国会で重要法案が通らなくなったり大臣の問責決議案が参院で可決されるなど国会運営が厳しくなる。党内では小沢派と反小沢派の対立が深まっていく。


 11年3月に東日本大震災福島第一原発事故が発生。自民党などが6月に菅首相の不信任案を提出する。民主党内の小沢グループが同調する動きを見せるが、鳩山が菅に「震災対応に目処がついたら辞任する」旨の言質を取り、菅首相本人も採決前の民主党代議士会でも明言したことで不信任案は否決される。9月に菅が辞任し、野田政権発足。
 国会運営が難航する。社会保障・税一体改革(消費増税)法案を通すために自民・公明と三党合意を取り付け可決させる(12年8月)が、その過程で野田首相は解散を約束させられ、小沢グループは離党し新党「国民の生活が第一」を結成する。9月には大阪維新の会を母体にした新党「日本維新の会」が結成され、民主3名、自民1名、みんな3名が離党して参加している。
 12年12月に解散総選挙で大敗し民主党政権が終わる。13年7月の参院選でも大敗する。


民主党の来歴(政権を手放した後)

 14年12月の総選挙では、代表だった海江田が落選(小選挙区で敗北し比例でも復活できなかった)し代表辞任する。
 15年11月に維新が党内対立で大阪系の国会議員が離脱し「おおさか維新の会」(その後「日本維新の会」に党名変更)を結成する。残った維新は16年3月に民主党に合流し、民進党に党名を変更する。
 17年10月の衆院選直前に前原代表が小池都知事希望の党に合流する方針を出し、両院議員総会で全会一致で採択されるが、小池が「希望の党で選別して安保・憲法感が異なる議員は入党させない」としたため、排除されたリベラル系議員は枝野を代表として立憲民主党を結党し、野党第1党になる。
 希望の党民進出身の玉木雄一郎が代表になり、希望の一部と民進が合併して18年4月に国民民主党が結成される。19年4月に小沢の自由党国民の生活が第一未来の党→生活の党→生活の党と山本太郎となかまたち自由党、と党名変更をしている)が国民民主党に合流。
 立憲は当初、旧民進勢力との再結集に否定的だったが、その後の選挙でも伸び悩んだことから方針転換し、19年秋から立憲・国民の合流協議が始まる。途中一旦棚上げにされた後、20年8月に国民が分派し一部が立憲に合流することで合意し、9月に立憲を母体とした合流新党が結成される予定。


 というところまでが、96年からの民主党14年間の歴史になっている。
 分かれたりまたくっついたりしてるけど、小選挙区比例代表制で選挙をやってる以上、党に逆風が吹いている時は離脱した方が得だし、でも野党がバラバラだと票が割れて選挙で勝てないのでまた集まった方が得なので、弱まるとバラける、時間が立つと一つにまとまる、のサイクルを繰り返すことになる。実際『民主党政権 失敗の検証』でも、民主党が惨敗して野党転落した12年衆院選で、民主党から離党した方が残留するより再選率が高かった、というデータが紹介されている。
 あと自民党に比べると民主党は地方組織が弱くて、それもバラバラになりやすさの一因だったりするのかもしれない。離党するかどうかという状況で、地方組織と自分自身が紐付いていたら、それなりに離党のハードルも上がってバラけにくさに繋がっているのではないか。


 外から見ていると、離合集散を繰り返して理念も政策もバラバラの選挙のための「烏合の衆」みたいな印象を与えるより、一旦党勢が衰えても二大政党をきちんと維持した方がかえって将来的な政権獲得のためには遠回りなようで近道なのでは? と思えたとしても、自分自身が落選するかどうかの立場にいる国会議員当人にとってはどうしようもない。部分最適全体最適が一致しない事例かもしれない。


矛盾するアイデンティティ

 もともと、民主党が政治改革を掲げて都市部・浮動層の支持を集めて、自民党が地方の既得権や利益団体を中心に支持を集める、という構図だった。これが小泉政権構造改革を打ち出したことで逆になる。(郵政選挙で浮動票を取り込んで大勝する。)与党が改革政党・新自由主義を打ち出してきた以上、野党はそれを格差拡大・地方疲弊と批判して社会保障充実に傾いていく。


 さらに03年(小泉政権時)の民由合併で小沢一郎自由党と一緒になる。小沢は小泉政権が都市部浮動票取り込みに向かったのを見て、自民党の支持基盤を切り崩して選挙で勝つ、という戦略を取っていく。小沢が代表就任した06年4月以降、農協や建設業界への利益誘導的な政策を提示して揺さぶりをかけて、民主党が苦手だった地方支持を増加させていく。民主党議員へもそれまでの風頼みではなく地方での徹底した支持基盤固め(川上戦略)をさせていく。
 参議院衆議院より「一票の格差」が大きく、有権者の数に対して地方で選出される議員の数が多くなっているので、有権者の少ない地方の一人区を狙い撃ちするのが選挙で勝つのに有効になっている。この特性を生かして参院選で勝ってねじれ国会にすれば重要法案を通せなくして与党の支持率を落とせる。07年参院選ではこうした戦略で民主党は勝っている。


 こうして民主党の内部で「業界団体ではなく生活者のための党」というアイデンティティと、その逆が同居することになってしまって、このことも党内対立や政権末期の党の分裂などの一因になっているという。


党内ガバナンスの脆弱性

 民主党政権では政府と党の関係を上手く構築できなかった。先に書いた通りアイデンティティが二分していたとか、民主党の従来のグループと小沢グループとの間での方針の違いがもともと内在されていたのだとしても、それが与党になってから決定的に悪化していく。
 09年衆院選で大勝して初当選した新人議員たちは小沢に世話になっていることもあって、多くが小沢グループに参加したことも党内ガバナンスに影響を与えている。


 鳩山首相小沢幹事長民主党政権がスタートする。
 民主党はもともと自民党政権に対して、派閥や族議員が政策を決めて政府の責任が曖昧だと批判してきた。それで「政府与党一元化」を掲げて、イギリスを参考に党幹部を入閣させる方針だったが、小沢幹事長の政治資金問題もあったためか幹事長の入閣が立ち消えになる。政府入りを反故にされた警戒感からか、小沢は党の政策調査会を廃止し、副総理・国家戦略担当相で党の政調会長も兼任する予定だった菅の党内の足場をなくしてしまう。結局、党幹部と政権幹部を兼任しているのが首相だけ、という構造は自民党と同じになってしまった。こうして与党と政府が分離してしまう。
 ちなみに自民党政権で年末恒例だった予算陳情は、民主党政権小沢幹事長が取り仕切るようになっている。政府が政策を決めるはずが、党から予算要求が来るようになって、さらに野田政権では自民党の予算編成に近くなっていく。


 鳩山・小沢が政治資金問題でそれぞれ首相と幹事長を辞任すると、次の菅政権は脱小沢を鮮明にする。反小沢の仙谷を官房長官に、枝野を幹事長に据える。さらに菅政権・野田政権で消費増税を進めていくと、(もともと消費税論者だったが)小沢は09年マニフェスト違反だとして猛反発し、小沢グループは政権末期に「国民の生活が第一」を結党して民主党を出て行ってしまう。


 それから脱官僚・政治主導で政府入りする議員を増やしたものの、政府入りせず党に残った議員の処遇が明確でなく、党内に不満をためる結果になってしまったことも分裂に寄与している。政府入りした議員がメディアへの出演を慎重に控える中で、党に残った議員たちがテレビで政府批判を繰り返して党内対立を晒してしまう。(旧来の自民党のやり方は、政府の責任が曖昧だという批判はあっても、党内に仕事を残すことで政府入りしないメンバーのモチベーションやインセンティブの管理ができていたのかもしれない。)


 民主党内にはもともと自由に議論ができる一方で決めたら従う人が少ない、という文化があったという。自民党では総務会で反対していた議員が決める時になると何故かいなくなるが、民主党では最後まで反対する人だけが残るという。そもそも合理的に解決できる話なら政治の場に持ち込まれる前に解決されているはずなのに、政治的な案件も議論で答えが出ると考える人が若手だけでなく幹部にも多かったという。
 みんながリーダーになろうとしてフォロワーが少ないとも指摘されている。閣僚でさえ首相のリーダーシップを発揮させるためにフォロワーになろうとする人が少なかった。(閣僚間の対立もメディアで報じられたりした。)辻元清美は「自社さ政権時の野中広務のように政権維持に徹する覚悟や政治技術を持った政治家が不在だった」と振り返っているし、野田も「ずっと政権にいて党内の空気感の把握が弱かった。政権より党のマネジメントの方が結局困難だった」と振り返っている。


 リーダーを支えたり決定に従う文化が希薄で、政府と与党の役割分担が不明瞭で、党内ガバナンスが十分機能していなかった。


参院での不安定

 鳩山政権が普天間基地問題で迷走して退陣に追い込まれていったけど、単純に鳩山首相の資質の問題だけというより、参議院での基盤が脆弱だったという背景がある。


 普天間基地の返還は、96年に橋本・クリントン会談で合意がされてから10年以上かけて辺野古移設案がまとめられていった。民主党は与党自民党を批判する立場から「見直しの方向で臨む」と09年マニフェストに書いていたものの、党内でも細野や長島らが「見直しは難しい」と考えていたため、マニフェストでは「方向」「臨む」と曖昧な文言に留めていた。しかし09年7月から鳩山首相が「最低でも県外」発言を繰り返してしまう。
 岡田外相・北澤防衛相が、外務省・防衛省で引き取るから首相は距離を取るよう進言するが、鳩山は県外移設の発言をやめない。検討を進めるものの、辺野古案以外に現実的な解が見出せない。09年11月の日米首脳会談でオバマ大統領から普天間問題を進展させるよう促されて鳩山首相は「トラストミー」と発言。それもあって、12月の時点では辺野古案回帰を表明して年内決着の段取りまでつけていたが、鳩山首相は撤回して翌年5月まで先送りの方針にする。
 その結果、米政権は日本政府に不信感を抱く(クリントン国務長官も駐米大使を呼び出したりした)し、今度は外務省・防衛省を外して平野官房長官が移設検討チームを率いる体制に変わって10年1月以降に様々な案や憶測が報道され、沖縄県内でも辺野古移設へ尽力していた個人や団体の影響力も削いで、県内の対立を深めてしまう。日米の交渉ラインも外務省・防衛省が外されたため、官邸・党・首相の私的アドバイザーまで入って混乱した。
 10年5月に鳩山首相は仲井眞沖縄県知事に県内移設断念を伝える。この時鳩山首相は記者団に「学べば学ぶにつけ(在沖米軍が)すべて連携し、抑止力が維持できるという思いに至った」と語っている。そして6月に退陣する。


 この経緯だけ見ると10年1~5月の混乱がなく、09年12月の時点で予定通り結論を出していればここまでのダメージにはならなかったのに、と思えてくる。ただ鳩山首相が12月ではなく5月に延ばしたのは、単に自分のメンツや思いのためというより、参院での議席数が関係している。
 県外断念が伝わると社民党が連立離脱を示唆した。社民が抜けると参院での過半数が維持できずに予算関連法案を通せなくなるため、5月までは社民党を引き留めておく必要があったし、県外移設の努力をし続ける必要があった、という事情があった。(そう考えると鳩山首相が急に「最低でも県外」を言い出したのも「本人が愚かな理想主義者だったから」で片付く話かどうかもよく分からなくなってくる。)
 参院での基盤が安定していないことが外交・安保の足も引っ張って、結果的には退陣にまで追い込まれている。


 その後の菅政権では10年参院選で惨敗してねじれ国会になってしまう。07年参院選で勝ってねじれ国会で自民党を苦しめていたのと反対に、今度は与党の立場で重要法案を通せなくなって国会対策が厳しくなる。最後は社会保障と税の一体改革(消費増税を含む)の成立と引き換えに、野田政権が退陣、解散総選挙民主党政権が終わる。
※10年参院選の敗北は、菅政権の成立直後は支持率が高くて油断したのか突然菅首相が「消費税10%」発言をして、その後のフォローも迷走して支持率を急落させたことが主因になっている。それから菅政権で脱小沢をしていたため、07年の選挙戦略が取られなかった(小沢は全選挙区の詳細なデータを秘書のカバンに常備して党内で共有しなかったと言われる)ことも要因の一つだという。


マニフェストの呪縛

 昔は単に「選挙公約」としか言ってなかったのが「マニフェスト」と言い出したのが03年から。後から検証できるように具体的な数値目標や工程表を入れることになっているのが政権与党になってからアダになってしまう。現実に合わせてマニフェストから外れると「嘘つき」と言われるし、かといってマニフェスト通りにやろうとすると実現できなくてやっぱり「嘘つき」と言われてしまうジレンマに陥っていた。
 もともと財源に無理がある内容になっていたのが悪いのと、一方でどれだけ精緻にやろうとしても災害や金融危機社会保障費増大など不確定要因もあるのでもともと「全部数値化する」ことに無理があったという。


 12年の民主党自身の振り返りでも、09年マニフェストのうち完全に実施できたのは全体の3分の1、という結果になっている。ガソリン税暫定税率廃止、高速道路無償化、子ども手当(一部実施)、八ツ場ダム中止などは目玉政策だったけれど失敗した。
 選挙のたびに党内議論を経ずに代表が目玉政策を追加していってしまうという悪癖があった。(小沢代表の子ども手当て増額や、菅代表の高速道路無料化など。)一度入れてしまうと、党内外でその政策の支持者ができてしまうので修正・撤回が難しくなってしまう。


 党内では岡田克也マニフェストの非現実的な財源を修正しようとしていたという。05年マニフェスト岡田代表)はまだ現実的だったが、09年マニフェスト(小沢代表)は「20兆円くらい財源が捻出できる」という内容になっていた。小沢が違法献金事件で代表辞任後、小沢支援の鳩山が代表選を制して岡田は僅差で敗れるが幹事長に就任する。岡田は10兆円程度への引き下げと、政策に優先順位を付ける修正案を出している。この岡田修正案で09年マニフェストは一定程度は修正できたものの小沢・鳩山の反対で押し切られてしまう。
 従来、自民党に比べて民主党の方が財政健全化に熱心だった。03年マニフェストで財政健全化を方針に掲げ、05年マニフェストで数値目標を出していた。それが小沢代表の07年マニフェストで数値目標が消え、09年マニフェストで方針からも消える。岡田は修正案で財政健全化を盛り込むよう主張したがこれも通らなかったという。ここには、「民主党は対案・財源を示さない」というのが自民党のお約束の攻撃だったこともあって、民主党マニフェストで財源を示さざるを得なくなっていった経緯もある。


 この流れだけを見ると「岡田は現実的な財源に拘り、小沢は無頓着だった」という構図のようにも見えるが、そんなに単純でもなくて、鳩山政権下で小沢は党幹事長として、政府が財源確保に苦しむ中で、ガソリン税暫定税率廃止を諦めて、党内とトラック協会に折り合いを付けるなどして財源確保のために調整もしている。政策は優先順位をつけてやれば良い、といった発言もしていたという。


 消費増税は、まず09年12月に仙谷行政刷新相が口火を切り、さらに10年2月のG7で日本財政への危機感を聞かされた菅財務相が積極的に推し進めるようになる。10年参院選マニフェストでも明記され、この時は小沢も幹事長として(消極的ながら)同意している。しかし10年6月に鳩山が辞任し菅首相が消費増税を前面に押し出した内容へマニフェストを書き換えたことで小沢グループの反発が深まる。
 また菅内閣の閣僚の間でも09年マニフェストを「小沢が作ったものだから」と政策の実現に積極的でなかったこともあり、小沢グループは「09年マニフェストを順守しろ」と主張して党内対立が深まって分裂することになる。


 マニフェストでガチガチに固めると自分の首を締めてしまう結果になってしまった。守るも地獄、守らぬも地獄、みたいな感じ。


政治主導

 民主党政権脱官僚・政治主導を掲げたけどきちんと官僚機構を使えずに上手く行かなかった、という印象だったけれど、きちんと振り返ってみると、局所的には成功していたり、後半では官僚依存に戻ったりしていた。


 90年代後半の橋本行革で通産官僚として関わっていた松井孝治参院議員が、民主党脱官僚政策に大きく寄与していた(というか党が松井個人に依存していた)という。01年頃から検討が始まって、03年マニフェストでは脱官僚が前面に掲げられている。
 ただ実際に政権を獲得してみると、仕組みではなく人に依存したものになってしまった。上手くいった例としては、前原国交相が政務三役それぞれに担当局を割り振り、省内に若手官僚を中心にした政策立案チームを立てて、事業費カットに対する省の抵抗を上手く押さえ込むことに成功したりした。一方で上手くいかなかった例として原口総務相は、自民党時代の割り振りを踏襲した結果、副大臣政務官の担当局に重複が出て無駄な労力が割かれたり責任の所在が曖昧になったという。副大臣は「複数の局からの報告を受けるだけで1日が過ぎてしまった」と述懐し、上手く政治主導が発揮できなかった。また長妻厚労相は官僚を信用しない姿勢を示して官僚と衝突、官僚サイドからの不信感を招いた。成功例を共有すれば良さそうだが、「うちはいいよ」と受け入れられなかったり、忙しすぎて他省に気を回す余裕がなかったりして水平展開はされず、属人的なままになってしまったという。


 また脱官僚の象徴として事務次官会議を廃止した。従来は次官会議に向けて各省が膨大な労力を割いて事前調整を重ねていく中で、それを官邸(事務担当の官房副長官)がウォッチして要所要所で介入することで、官邸は情報収集をして官僚を束ねていた。しかし次官会議が廃止されたことで官邸の情報収集能力が阻害され、むしろ政治主導から遠ざかってしまったという。


 国家戦略局内閣人事局の設置も政治主導を実現するために法案が提出されていたが、他の有権者にアピールしやすい政策を優先して後回しにされた結果、結局は廃案になった。
 国家戦略局は法制化の前に国家戦略室として大臣も置いたものの、省庁間調整機能としては内閣官房が既に担っていて、その役割分担が上手く進まなかった。第2次安倍政権になって経済財政諮問会議が復活し、国家戦略室は廃止されている。
 内閣人事局は第2次安倍政権で成立して、官邸が官僚の人事権を握って「機能」している。民主党政権では政治主導の官僚人事をしようにも、官僚の人材を十分に把握していなかったので結局は官僚に丸投げになっていたという。


 事業仕分けも官僚依存からの脱却+財源確保の手段としてアピールされ、09年11月時点では世論調査で9割の支持を得ていた。しかしその後、削減額が減って財源確保の限界が指摘されるようになり、さらに10年10月の仕分けは民主党政権での予算案が対象になったため「そもそも政治主導が上手くいっていないから、自分で立てた予算に無駄が出ているのでは」という批判を招くことになり、国民の評価が下がっていった。
 事業仕分けという仕組み自体は、もともと地方自治体で発展したもので、財源確保というより透明性の向上や市民参加を目的としている。しかし民主党政権では財源確保が目的となってしまったので「成果が上がっていない」という見方をされて批判材料になってしまった。
※予算案へのこの批判に対して、11年から各省庁が自分で概算要求前に事業仕分けをして結果を公開する「行政事業レビュー」がスタートし現在まで続いていて一つの民主党政権の成果になっている。東日本大震災で全然関係ない事業に復興予算が使われていることが分かって問題になったことがあるが、それも行政事業レビューの記録が公開されていたことが発端になっていて、透明性向上に寄与している。


 菅政権で官僚との関係修復が打ち出され、野田政権では次官会議も復活し、政務三役で何かを決定することもなくなっていったという。政治主導を引っ込めて以前の自民党スタイルに戻っている。参院選敗北によるねじれ国会対応で、官僚と対峙するのに力が割けない状態だった。


対中関係の悪化

 民主党政権下で、10年9月に尖閣沖の漁船衝突事件が起こり、12年9月には尖閣諸島国有化で対中関係がかなり悪化している。


 尖閣沖で中国漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりしたことで、船長を逮捕し船員を拘束する。この時、前原国交相も岡田外相も逮捕相当と判断して官邸に伝えている。逮捕はしたものの事後処理のマニュアルがなく、中国は対抗措置として日本人のゼネコン社員を勾留、日本向けレアアースの輸出差し止めをする。中国の対抗措置の3日後に、那覇地方検察庁が船長を処分保留のまま釈放し、国外退去処分で幕引きが図られた。その後、海上保安庁職員(sengoku38)が衝突の映像をYouTubeに公開してさらに騒動が広がる。
 この時、民主党政権に中国側との間に有力なパイプがなかったという。唯一パイプを有していそうだった小沢は政治資金問題で鳩山と一緒に幹事長を退いて党・政府と距離を置いていた時期で機能しなかった。


 この尖閣沖での漁船衝突事件を機に、地権者が島の売却を示唆し、12年4月に石原都知事が「都が尖閣諸島を購入する」と宣言する。石原は「港湾施設などを建設して実効支配を強める」と発言していたため、「都が購入するより国有化した方が現状維持に近い」というストーリーで日本政府は進めたが中国側は猛反発する。しかし野田首相は9月に購入・国有化する。その結果、中国メディアで連日報道され、中国各地で反日デモや日本人への暴行、日系企業の工場やスーパーの破壊・略奪などが発生し、中国の監視船が尖閣付近の活動を活発化させる。アメリカの国務次官補(東アジア・太平洋担当)だったキャンベルは、「日本は中国側の理解を得たと思っていたが、日本が思うほどそれは成功していなかった」と述懐している。日中間でのミスコミュニケーションによって日本が国有化を先送りするという誤解を中国側に持たせた可能性も指摘されているという。


 融和的な路線に見える民主党政権下で対中関係が極めて悪化し、対中強硬・タカ派のイメージを見せていた安倍政権でむしろ対中関係が安定している。必ずしも民主党政権自民党政権の問題ではなくて、中国側の戦略のフェーズが変わっていることにも起因しているのかもしれないけれど、民主党政権が十分なコミュニケーションラインを中国との間に持っていなくて、一連の尖閣問題などでもダメージコントロールが上手くいっていなかったようだ、というのが『民主党政権 失敗の検証』での見立てになっている。


経済成長政策の弱さ

 民主党内では経済成長に対する姿勢が弱かったという。
 「生活基盤を安定させて社会保障を充実すれば雇用が創出されて経済成長につながる」というストーリーを打ち出していたし、菅財務相は「社会保障が最大の成長分野」と発言もしていた。野田政権で経産相を打診された枝野が「人口減少社会での経済成長は難しい」と語って一度断ってもいるように、そもそも経済成長に対して懐疑的な議員がそれなりにいたという。海江田も「社会保障整備をうたって支持率が高まったので、経済成長の話が後回しになってしまっていた」と語っている。


 金融と財政の協調という点でも民主党政権は弱かったとされる。自民党の福田政権時に日銀総裁候補を「財務省OBであり財政と金融の分離原則に反する」と野党民主党が拒否した結果、白川副総裁が昇格して総裁になっていた。「政府と日銀で協力して脱デフレ」は掲げてはいたものの、そういう経緯なので日銀・白川総裁にあまり介入せず、財政と金融の独立性を尊重しようとした。


 第二次安倍政権が「アベノミクス」を掲げて、次の黒田日銀総裁と「異次元の金融緩和政策」を進めたことと対照的になっている。


民主党政権の成果

 一方で成果が何もなかったということもあり得なくて、『民主党政権 失敗の検証』でもいくつか挙げられている。
 社会保障などの分野では以下のような成果が挙げられている。

 

 それから外交・安全保障分野では、鳩山政権で混乱したものの、菅・野田政権では安定していったとして、

  • 10年12月の防衛大綱の見直し
  • 11年12月の武器輸出三原則の緩和
  • 12年のASEAN海洋フォーラム拡大会合(EAMF)開催

などがアジア太平洋地域の安全保障体制への積極的な成果として挙げられている。


小沢一郎

 こうして振り返ってみると、小沢一郎の名前が至るところで出てくる。
 小沢は、55年体制下の自民党で田中→竹下派経世会七奉行に数えられ、その後に自民を出て非自民政権の成立にも大きな影響力を発揮し、今度は自由党の党首として自民党と連立を組み、さらに民主党に合流して選挙を勝たせて政権交代に寄与した。
 民主党政権の後も、15年の維新の分裂でも生活の党の代表だった小沢は、野党再編に積極的な維新議員を代表に当選させるようと維新や生活の小沢グループの議員に働きかけたりして、橋下が党を割るきっかけを作ったという。現在の国民と立憲の合流でも積極的に立ち回っている。
 27歳で初当選して78歳の現在まで、50年間ずっと政局のキーパーソンであり続けるってどういう感じなんだろう、みたいな気持ちになる。


 そうして自民、新生、自由、民主で政権与党を経験して、そのいずれもずっとキーパーソンだったのに、一度も首相にはなっていないし、大臣経験も中曽根内閣での自治大臣(85-86年)の一度きりというキャリアになっている。与党の党内から政府に影響力を発揮し、野党でも再編などで影響力を発揮しているけれど、政府の中にダイレクトに入って仕事をした経験自体は長くない。そうした自分の来し方を小沢一郎本人はどんな風に思ってるんだろう、みたいな気持ちになる。
 93年に『日本改造計画』という本を出しているけれど、そこでの主張を基本的にはずっと保持しているのかもしれない。日本に政権交代可能な二大政党制を作りたい、だから野党再編を主導する。でも目指す政策が実現できないなら意味がない、だから党を割っていく。選挙が全ての政局屋だと思われがちだけど、そんな割とピュアな原理でずっと来ているのかもしれないと勝手に想像している。






 長いこと野党第一党のポジションにいた後で政権与党になるのはやっぱり難しい。かつての社会党も政権入りして党のイデオロギーを変えざるを得なくなってその結果支持を失い、野党第一党だったのに今では社民党はもう衆参あわせて4人しか議員がいない。民主党も「対自民党」という野党の姿勢を引きずったまま政権与党になると、そのしがらみが至るところで足を引っ張っている。
 93-94年の8党→7党連立政権、09-12年の民主党政権と、たまに非自民党政権が生まれて、でも安定せずに終わってまた自民党政権が長く続く、そういうサイクルを15年おきくらいで繰り返していくんだろうか。改めて民主党政権がどうだったかを振り返ってみると「野党が長く続いた政党による政権では地に足のついた政権運営ができない」という「実績」になってしまっていて、しかも「一度失敗したがそこから学んで現実的な政権運営ができます」と復活せずに、構造的に離合集散を繰り返して弱体化してしまって、政権交代可能な安定的な二大政党制にはたどり着けなくなっている。
 小選挙区制では党内派閥の力は弱まるので党内での圧力が働かない以上、政権党に対する規律は政権交代の可能性(恐れ)によってしか生まれないわけだけど、民主党政権が崩壊した後にその規律が働かない過程を見せられてしまったのは、国民にとっては不幸だったんだろうなとは思っている。


 「悪夢の民主党政権」という言われ方もされる一方で、自民党(安倍)政権に対して民主党政権を評価し直そうみたいな言説も見かける。ただ自分ももう8年前がどうだったか、印象は残っていても記憶としては曖昧になっていたので、具体的にどうだったのか一旦振り返ってみた方が、地に足もついてちょっとは建設的かなとも思って。