やしお

ふつうの会社員の日記です。

Go Toも目的と手段を分けて断絶に向かわないようにする

 Go To トラベルキャンペーン批判で、

  • 感染拡大防止にむしろ注力すべき
  • その予算を他(医療機関や生活困窮者)に回すべき
  • 富裕層や大企業への再分配になっている
  • 自民党(二階幹事長)の利権になっている

などはよく見かけるし「その通りだなあ」と思って「Go To死すべし」みたいな気持ちになってくる。


 一方で日本の観光業は、労働者全体の8%くらい、GDP全体の2%くらいというボリュームだという。「労働者の1割弱でダメージを受けます」と言われると「ヤバい」って感じする。


観光庁の2019年3月発行資料中に「観光はGDPの2%を占める」「従事者は648万人」の記述があり、日本の生産年齢人口(15歳~64歳)は7500万人なので8%程度。あと内閣府の産業別名目GDPの2018年データで「宿泊・飲食サービス業」が3%。ちなみにアジアだとタイがGDP比で観光業が1割を占めていて「観光に依存している(新型コロナで大打撃)」とニュースになったので、日本の2~3%は「依存度としては低いけど、無視できる影響じゃない」って感じなのだろうと思う。
  https://www.mlit.go.jp/common/001299888.pdf
  2018年度国民経済計算(2011年基準・2008SNA) - 内閣府


 じゃあ全部を公的資金でダイレクトに補助できるかというと、宿泊・交通以外の観光業をどこまでカバーするかとか、観光業だけ手厚く救われてズルいとか、財源をどうするのかとかいう話になってくる。じゃあ死ぬのに任せておくかというと、「全体の1割」に近い労働者を他分野で吸収できる余地がないし、一度死ぬと将来立て直しもすぐできないといった話になってくるのかもしれない。
 そうして公助と自助のどちらか極端を取るのが現実的に無理なら、その間のどこかでバランスを取ることになる。極端に言えば「2020年はなかったことにしましょう」と言って、観光に限らず最低限の活動以外を止めて生きられるだけのお金を政府が出してみんなで引きこもって暮らせれば一番いいのかもしれないけれど、産業資本主義はそれを許してくれるシステムじゃない、というつらさが根本的にあるという話かもしれない。そんな文脈で「公的資金で補助するので、余裕のある人は観光業に金を使ってね」とインセンティブを与えるのはそんなに変な話じゃなさそうだ。コロナの外出自粛で消費が減ったのが一因で個人の現金・預金額が過去最高の1031兆円、というニュースも見ると確かにそこを消費に回させたいと考えるのは割と自然なことだと思える。


 Go Toの否定と肯定がどちらも「そうだ」と思えてきてわけがわからなくなる。とぼんやり考えていたけれど、シンプルに「目的(方針)は分かる、でも手段(方策・仕組み)はおかしい」という話として見ればすっきり理解できるのかと思い直した。

  • キャンペーン開始・中止の判断やタイミングの意思決定が合理性を欠いている。
  • 高級宿泊施設や大手旅行代理店へ恩恵が偏っている。

と「合理性・合目的性の面で手段がおかしい」という話を「一部がダメなので全部を否定する」「手段の不備をもって目的を否定する」にまで拡大して混同すると変なことになる。


 あと「富裕層への再分配」という批判は、
「生活困窮者は遊興費を捻出する余裕がない。従ってキャンペーンの利用者にはなり得ない。利用者として恩恵を受けるのは富裕層なので、これは富裕層への再分配であり、逆進的である。」
というロジックだと理解しているけれど、これも0か1の話じゃなくてバランスなんだろうと思う。
 「金持ちはGo To関係なく一定の遊興費を観光業で消費している」という前提が成り立つ場合、観光業にとってはGo Toがあってもなくても関係なく、純粋に金持ち(利用者)だけが受益者になるため、「富裕層への再分配」が完全に成り立つ。ただ実際は全部がそうってことはあり得なくてやっぱり「キャンペーンがあったから旅行することにした」人もいるわけで、現実にデータとしてそれがどのくらいの割合かを見ないと「本当にそうか?」を言うのは難しい。「どうして我々が富裕層の遊興費を負担しないといけないんだ」という批判が(心情的には理解できるとしても)現実に妥当性があるかどうかは、結局そこを見ない限り分からない。
 つい最近「富裕層への再分配」の批判で盛り上がったブログ記事を見かけたのだけど、「利用者は普段から海外・国内旅行をしてる人の方が多そう」という個人のツイートだけが論拠のようで、それで「富裕層への再分配」と断罪するのはまだ早いのではという気にはなった。


 「富裕層への再分配だ」と言われると、一方で「利用者は自分でお金を払ってるのに、それは再分配と呼べるのか?」とか「お金に余裕のある人が厳しい業界にお金を払って、全部公的資金で賄うよりは財政負担が抑えられてるのなら、いいことじゃないのか?」といった素朴な疑問も湧き上がる。これもバランスの話で、利用者への還流になっている側面と、観光業従事者の救済になっている側面とは、両者が同時に存在している。どちらがどの程度強いかは結局、実際のデータを見てみないことには何とも言えないのだと思う。
 「富裕層への再分配」論が成り立つには「貧困層が損している」が成り立たないといけない。利用者の側面で言えば、貧困層(非利用者)はGo Toがあってもなくても旅行(消費)しないという話なので、直接的には損も得もしていない。一方で福祉なり貧困層への再分配として渡るべき財源がそちらに流れてしまうといった間接的な意味での「損」で言うと、これも「Go Toキャンペーンで経済的に苦しい労働者(観光業従事者)にお金が回っているのかどうか」をチェックしないことには何とも言えない。安価な民宿やビジネスホテルは恩恵をあまり受けていない、というのはある程度実績として出てきているようで、その意味では「そう」と言える余地があるかもしれない。ただそれも「大手旅行代理店や高級旅館の労働者は余裕がある」が本当に成り立つのか? などもクリアしないと結局はよくわからないところで、あまりに間接的なので、現時点で「Go Toは富裕層への再分配!」と断罪するのは勇み足で「そういう懸念があり得るのでは?」くらいのトーンがいいところなんじゃないかと思っている。


 「データ」と言っても数値データ以外を「データじゃない」と否定するのも間違いで、例えば周囲で見聞きした事実などもデータではあり得るし、当事者やその周囲の人が「ここが苦しい」と声を挙げるのも重要だけど、そうした(立法事実みたいな)ものがはっきりしない状態で語るなら、もっと明確にある仮定の上での話だというのを意識して語らないと、語っている本人自身もわけわからなくなってしまって、攻撃的な物言いや感情に振り回されてしまったりする。


 例えば非利用者(貧困層でなくても、感染拡大防止のためとか東京都民だからとか)からは利用者が「ズルい」と見えてしまって、そうした損得勘定も断罪したくなる気持ちに影響している可能性もあるんだろうか。どちらでも解釈可能な場合に、自分の立場によってどちらの解釈を取ろうとするかが左右されるのは自然と言えば自然なことだとも思う。
 あと「国内の近郊でちょっといい宿に泊まって旅行すること」ができる程度に金銭的な余裕のある人たちは旧来は「中間層」だったはずが、今は「富裕層」と呼んでさして誰も違和感を覚えないとしたら、「一億総中流」の時代からするとやっぱり(格差拡大というよりこの場合は)「衰退」の時代を自分たちは生きてるんだろうなと改めて感じて切ない気持ちにはなった。


 目的と手段を分離せずに「目的の正しさで手段も正当化する」という一種の詭弁は、どちらかというと権力者の側が利用してきた経緯があった。例えば2017年の共謀罪でも「テロ等準備罪」と名前を変えて、批判者に対して「テロ対策への反対者」とレッテルを張ったのは政権側やその擁護者だったりした。それに対して「目的はわかるが、手段がおかしい」という反対の仕方は「肯定と否定を同時に含む」という複雑さもあり、どうしてもパワーが弱かったりキャッチーじゃなかったりしてリーチしづらかったりする。それだからといって「手段の誤りをもって目的も否定する」というやり方をすると結局は「目的で全肯定派」と「手段で全否定派」の両者が「何もわかっていない愚かな連中だ」とお互いを罵り合うことになって断絶が深まっていく。
 これは当人が意図的に混同しているとも限らない。どこは肯定できてどこは否定すべきなのかを具体的に見るような作業を諦めて分かりやすさや単純さに流されてしまうと、どうしたって分断に向かってしまう。それを避けるためのファーストステップとして、目的と手段を分離して眺めてみるというのは、やっぱり有効なんじゃないかみたいなことを、Go Toトラベルキャンペーンに限った話じゃないけどたまたまその否定が盛り上がっているのを見かけて、ちょっと思ったのだった。