やしお

ふつうの会社員の日記です。

経験は「実体験の量」というより「考えた時間」

 先日、外科手術を終えた後、体を動かせないので病室のベッドで4時間ほど天井を眺めていた。こんなに時間が過ぎるのを遅く感じるのかと思った。それで何となく考えていたことのメモ。


 医者からは手術に伴うリスクのあれこれを事前に説明されていた。そうしたリスクの最良と最悪の振れ幅のあいだで言えば、手術の結果はかなり良かった。とてもうれしい。本当にお医者さんに感謝している。
 もし事前に「難しいこと」が伝えられていなければ、良い結果だったとしても当たり前だとしか思わなかったかもしれない。依頼を受けたプロが、素人に「どういう難しさがあるか」をある程度説明しておけば、うまくできた時には正しく感謝されるし、残念な結果になっても正しく受け入れてもらえる。
 たまにネットで、プログラマやデザイナーや絵描きがクライアントから理不尽な要求を受ける話を見かける。こうした場面でも必要なことかもしれない。(そもそも依頼する側が相手の困難を理解したり慮る気がなければどうしようもない、という前提はあるかもしれない。)


 入院の1週間ほど前に、妻も同伴してくれて、医師から手術の説明を受けた。この時には挙げられていなかったリスクが、入院した後で伝えられた。
(1)処置Aをやった結果、悪いことa、bが起き得ます。
(2)悪いことbが起きた場合は、追加で処置Bをします。
(3)処置Bの結果、悪いことcが起き得ます。
のような話だとして、(1)〜(2)は事前に説明があったが、(3)は入院後に新たに話が出てきた。
 コロナの影響で面会は制限されていたものの、手術当日は面会OKとのことで妻が来てくれて、その話をしていたら「早くに教えてくれればいいのに」と言っていて、患者側の立場からしたらその通りだと思った。
 それから、悪いことaとcは現象が似ていた。入院前の事前説明で、悪いことaの説明を受けた時に、妻が「他の箇所への似たような影響はないのか」と聞いてくれていて、その時の医師の回答は「ない」だった。「だからあの時聞いてたのに」と言っていて、確かに結果的には嘘になっているなと思った。


 一方で、逆の立場だと案外難しいのかもしれないとも思った。aとcは現象としては似ているけれど、階層が違う。(1)を考えた時点でaを思いつくことはできるが、cを思いつくにはさらに(1)→(2)→(3)と順を踏まないと思い至らない。
 あるいは妻が聞いてくれたように「他の箇所への似た影響」といった疑問をトリガーにして逆方向から思い至ることもできるかもしれない。
 患者側からすればリスクが(それもよりその後の人生への影響が大きいリスクが)、小出しの後出しで追加されると不安になる。最初にまとめて説明してほしい。でもそれを「できる」というのは、医者・専門家だからと言って当たり前にできるわけじゃないのかもしれない。


 担当は若い先生(20代後半くらい?)だった。40代半ばくらいの先生が補助しているという感じでついていた。(3)の話も、若い先生からの説明の後、中年の先生からの追加説明で出てきたものだった。
 リスクの洗い出しをどれだけ早く、幅広くできるのかは、かなり経験の総量に左右されるのかもしれない。
 なんだか自分の仕事と置き換えて、何事か(製品の品質問題とか)があった時に、どれだけ幅広く必要なアクションを洗い出せてるだろうか、といった話にも似ているなと思った。


 それで自分自身が20代半ばだった頃の、会社でのある打合せのことをふと思い出した。同席していた他の部署の先輩が「こういう点も考えなきゃいけない」と指摘をして、その場の流れが大きく変わったのを見た。別にその先輩にとっての担当や専門分野というわけでもなかった。全く同じ情報、考える材料は自分だって持っていたのに、むしろ自分はそこが関係する部署だったのに、思い至らなかった。ものすごく悔しい気持ちになって、じゃあどうやったらああ考えられるんだろうと考えた。
 ロジックを組む能力だろうか。「地頭がいい」みたいなことは確かに存在していて、若くても本当に「一を聞いて十を知る」みたいな人はいる。でも「あの人は頭がいいからしょうがないですね」で終わってもしょうがない。そういう頭の良さ、聡明さが無いなら無いなりにやれることをしないといけない。
 経験だろうか。確かに一度似たような体験をしていれば類推は働きやすいだろう。でもその先輩は、その場に同席していた人達の中でもまだ若かった。


 その時点ではっきり何かの結論に到達して、自分の意識や価値観が劇的に変わって優秀になりました、みたいなことはない。ただ悔しさと憬れがあって、あとはロジックの構築能力も、経験も、両方必要なんだろうと思っただけだった。
 何かがあった時に、自分の担当の外側がどうかを考えてみる、自分がその立場だったらどう判断するかを考えてみる、もっと楽にやれる方法がないか考えてみる、といった「考えてみる」トレーニングをその都度積み重ねていくしかない。経験とロジックの組み合わせを積み重ねるほかない。
 それで実際、5年、10年が経ってみると、あの先輩と同じレベルかは分からないけれど、昔の自分に比べればずっと幅広く、素早く考えられるようになっていた。それなりに裁量のある立場に置いてもらえるようにもなった。何かが起こっても、自分の手でしっかりつかめているような、そんな自由な感覚があってかなり快適になっている。ちゃんと続けていけば、もっと自由になれるんだろうか。
 別にマネジメントなどの判断に限ったことでもなく、専門的な知識・技能でも同じで、もう一段外側、もう一段深くを考えたり調べたりする習慣がどうしても必要になってくる。
 ちなみにその別の部署の先輩はその後若くして課長になって(ほーらやっぱりね)と思った。


 そう考えると、「リスクの洗い出しを素早く・幅広くできるかは経験に左右されるのかも」と思ったその「経験」は、単純に「どれだけ体験してきたか」「その仕事をどれだけ続けてきたか」だけで成り立つものじゃないんだと改めて思う。体験の量じゃなくて、そこに伴う思考の量や幅の積み重ねを指して「経験」と呼んでいる。
 実に当たり前のことだけど、漠然と「経験を積む」という言葉だと、何かその業界・仕事・部署に在籍している長さだけを考えがちだけど、本当はそうじゃない、それだけでは「経験」が成立しないんだと時々思い返しておかないと、危ないなと思った。


 先生が若くて、自分の会社の同じくらいの年齢の後輩が手術を担当している、みたいなことを思うと、なんか不思議な気持ちになって、そんなことを考えていた。もちろんその若い先生だって、そんなこと他人から言われなくたって(直接言いはしないけど)毎日考えながら頑張ってるのだろうし、余計なお世話に違いない。
 ただなんか、ちゃんと考えるのを繰り返していれば10年、20年経ってすごく自由になれるよな、頑張っておくれ、みんな頑張ろうぜ、自分も頑張る、みたいな気持ちになっただけ。


 あとは天井を見ながらハワイと台湾のことなどを考えていた。また行けるようになるといいよね。