やしお

ふつうの会社員の日記です。

カムアウトするかしないかの瞬間は日常の中で無数に発生する

 セクシャルマイノリティであることのカミングアウトは、大々的に公言したりする場合や、家族や友人に切実に打ち明けるような場面、恋心を明かすような場面ばかりが想像されがちかもしれないが(そしてそうしたケースももちろんあるとしても)、実際には日常的なシーンの中でふいに訪れることも多い。日常的な会話の中でごく一瞬「ああ、この人なら/今なら言ってもいいか」という気持ちが生じて言及されることもあれば、会話の流れの中で「え、もしかして」「うん、そう、実は」と続くこともあれば、自分から何となく言い出してみることもある。


 先日、以下のツイートをしたところ、その引用リツイートで下記の言及があった。

@OjohmbonX
同性愛者と言っても、「別にセックスをしたいわけではない人」も「結婚したいわけでもパートナーを作りたいわけでもない人」も異性愛者と同じようにいるけど、「同性愛者だ」と知った瞬間に当然「同性とセックスをしたい人」「同性でパートナーが欲しい人」だと見なすという態度は偏見です
23:32 - 2018年5月28日

https://twitter.com/OjohmbonX/status/1001108901419352070

@Maikee
偏見だ!って言うのは勝手だけど、それがわかっていて「私は同性愛者ですが、偏見で見ないで」っていうのはどうなんだろう?
別にわざわざ「同性愛者です」を言わなくたって同性愛者でいることは出来るだろうに。
薄々感じていても、それを理由に差別する人はそんなにいないと思うが。
21:37 - 2018年5月29日

https://twitter.com/Maikee/status/1001442496088428546


 『わざわざ「同性愛者だ」と言う』という書き方を見た時に、「わざわざ明かす」ことだと考えている人が一定数いるのだろうと思った。「映画を見るのが好きなんです」とか「甥っ子が2人いるんです」とか言うことと同じようにごく単純に、話題や感情を共有したいと思った特定の相手にその前提となる情報を伝えるために「同性愛者だ」と伝えるような、無数に存在するシーンは想像されていない。想像すればただちに了解されるところだと思うが、想像しようとしなければ一生分からないのかもしれない。

一瞬の判断

 実にわずかな瞬間に「言おうかな」と「やめておこうかな」の判断が下され、そしてその判断は合理性に基づくというより偶然と言えるものかもしれない。本当に「ただ何となく、その時言ってみただけ」としか言いようがないことも多い。カミングアウトという行為が常に「悩みに悩んだ末に打ち明ける」「与える影響を考えに考え抜いた上で公言する」ものだとは限らない。
 付き合いの長い友人であっても「実は右目の視力がほとんどないんだよね」とか「実は親が離婚してるんだよね」とふと何かの会話の中で言われて「え、そうだったんだ」と初めて知ることとさして変わりがない。「あえて言う必要を感じなかったから言わなかった」ことをどのタイミングで言及するかは、その言及する当人にとってさえも突然に訪れることがある。これは実にありふれた、他者と会話をすればいつでも不断に起こっていることの一つでしかない。

判断を支える雰囲気

 例えばみんなで鍋の話で盛り上がっているとする。実は自分は鍋料理が全般的に嫌いだとする。「じゃあお前はどんな鍋が好きなの?」と話を振られる。「いやあ実は鍋が食べられないんだよね」と正直に言うか、「普通の……海鮮鍋とか?」と嘘を吐くか、「特に好きっていうのは無いけど、そういや最近はオシャレなのとか結構あるよね」と一般論にすり替えるのか、どうするか一瞬の判断が訪れる。
 その一瞬の中で、「もし自分がそう言ったら、この人達はどう反応するだろうか」「この人達から他の人にまで話が伝わった時、面倒なことにならないだろうか」といったあれこれが浮かびながら意思決定がされる。
 「鍋が嫌いなんて日本人としておかしい」「そうは言っても何か好きな鍋はあるんじゃないの?」「今度試してみたら意外といけるんじゃない?」と言われそうな人達であれば面倒くさいから嘘を吐くかもしれない。もし正直に「食材がびしょびしょになるのがなんか苦手で」と言って「ああ、それはちょっとわかる」と言ってくれそうな人達なら正直に言えるかもしれない。


 こうした場面が日常的に、自分ではコントロールできない形で発生する。カミングアウトは「わざわざ自分から明かす」というようなシーンだけではなく日常的な場面でふいに発生する。「結婚しないの?」「彼氏/彼女いないの?」「好きな異性のタイプは?」といったカジュアルな質問が不可避的に浴びせられ、その瞬間に「言うかどうか」の一瞬の判断が発生する。
 「みんな鍋料理が好きに決まっている」という前提で会話が弾む中で、空気を壊したくないとか、勝手な想像をされたくないとか、嫌な思いをしたくないとかいった諸々の不都合を勘案して嘘を吐いたり断言を回避したりする、そんな煩わしさや苦痛を想像できない人が「わざわざ言わなくてもいいことでしょう」と簡単に言えるのかもしれない。

判断を支える過去の経験

 ある個人が「言う/言わない」の一瞬の判断でどちらに傾くかは、相手が誰か・場の雰囲気がどうかといった先述の条件に加えて、その個人の過去の体験の積み重ねにもよる。
 まあ言ってもいいかと思って言ってみた相手に、「えっ俺のこともしかして狙ってんの?」、「まあそういうの自分は気にしないけどね」などと答えられて(ああ、言わなければ良かったな)という後悔や失敗した経験の記憶が、その判断の瞬間に蘇って(いや、やっぱり言わないでおこう)という方向へ傾かせる。もっとつらい目に合えばより強く働くだろう。一方で「別に言ってみても平気だった」という経験が重なれば「言う」という判断への閾値が下がっていく。


 「実は私、裸眼じゃなくてコンタクトなんですよ」と言っても「へえー」としか言われない。そのレベルで相手の反応への安心があれば、「言う」という判断への閾値ははるかに下がるだろうし、「言うかどうか」が問題になることさえなくなるだろう。

判断の一貫性について

 「言うべきだ」あるいは「言わないべきだ」といった「べき論」は極めて限定的な環境を想定した場合にのみ成立する。理想的ではない現実の中で、理想的な態度を一方的に要求することはできない。
 「あの時は言ったのだから今回も言うべきだ」、「今まで黙っていたのを今さら言うのはおかしい」といった一貫性を要求するのは単純に間違っている。そしてこれは、他人にそうした圧力をかけられるというばかりではなく、自分自身が自分にそうした圧力をかけて苦しんでしまうこともある。


 学生の時は特に隠すこともなく同級生や友人に言っていたが、会社員になってからはどれだけ仲の良い同期にも言わなくなるといったこともある。子供の頃は言えなかったが大人になってから言えるようになる人もいる。ツイッターで公言しているアカウントとしていないアカウントを使い分けている人もいる。これはその時点・その側面での本人が考えて態度決定すれば良いことであって、そこに一貫性を突き付けようとすること、「お前は矛盾している」と責めることは何ら建設的なものではなく正当でもない。

当事者

 ところでこの記事の中で私は、私がこうしたカミングアウト(する/された側)の当事者であるとは一言も書いていない。
 以前、アウティングをされた一橋大生が自殺した事件に関して以下の記事を書いた後、「当事者だったかどうかを言え、そうでなければあなたの論は無意味だ」と要求されたことがあった。
 他人に秘密を背負わせざるを得なかったこと - やしお
 確かに「私は当事者である」と明言してしまえば、読者に対するある種の説得力の増加を期待できるのかもしれない。(それは映画の冒頭に「based on a true story」という但し書きを付ける効果と似ている。)ある論が無意味かどうかを、その論の内的な整合性(無謬性)と外的な整合性(妥当性)から判断することを放棄して、当事者が書いているかどうか、「a true story」かどうかのみによって判断するというのは読者・観客の怠惰だろうと思う。


 「こうした話を書く以上は書き手が当事者かどうかを明らかにしなければならない」という命題が当然成立するというのは単に誤解で、これも徹頭徹尾、本人の勝手に属する事項でしかない。「そうでなければ私は納得しない」と言われるのなら「あなたが納得したいという気持ちをなぜ私に担保させようとするのか」としか言いようがない。
 その時、「なぜ明らかにしないのか」とも言われたものの、その理由を合理的に説明する義理も責務もない以上は、単に「私はそれをあなたには言わない」と伝えるだけだった。他ならないあなたに私がそれを言うかどうかは、私がその時・その一瞬にどう考えるかの問題だ。