やしお

ふつうの会社員の日記です。

「そうなれたかもしれない自分」を体現する他人から目をそらす

 他人に嫉妬を覚えて、嫉妬している自分自身も嫌になる、という体験はそれなりにありふれている。
 ある程度は、嫉妬している機序を丁寧に追うことで、妬ましさを羨ましさに転換できたりする。自分がその人の何を妬ましく思っているのか特定して、嫉妬を羨望に変えられれば、苦しさからある程度は免れられる。
 それでも時々、羨望に変えることもできずに、その人を見るとどうしようもなく自分が嫌になって耐えられない、というような他人がいたりする。
 先日テレビ番組で、指原莉乃氏とフワちゃん氏が、「誰とは絶対に言わないが、自分にもそういう人がいる」と言っていた。救済と絶望が同時にあるような話だと思った。


 「さしフワご相談ナイト」(3/1放送)という番組名で、指原・フワ両氏でお喋りするというコンセプトだった(フワちゃん自身が企画した)。「ご相談」とある通り、二人への相談を募り、相談者も実際にリモートで登場しながら二人がその相談に乗って進行していた。
 相談の一つが「フワちゃんが妬ましい」というものだった。
 相談者は、就職してから「若手だから」と色々と我慢させられてきたし、してきたという。しかし、年上にもため口で、言いたいことややりたいことを好きにしている(ように見える)フワちゃんが登場したことで「我慢しなくていい」「好きにやればいい」という風潮が生じた。今まで「我慢しろ」と抑圧してきた側の人達まで「いいじゃん」「最近はそうだよね」と肯定しているのが許せない。
 長い列に並んで順番を待っていたら、突然「もう並ばなくていいですよ」と列がなくなってしまった。今まで待っていた時間は何だったのか。そんなフワちゃんを見ると、妬ましさが生じてしまう、といった話だったと記憶している。
 それに対してフワ氏は「私自身いきなり出てきたわけではなく長い下積み時代があった」と断りつつ、「そういう気持ちになる誰か」は自分にもいる、と語り、指原氏も「自分にもいる」と同調する。なるべく見ないようにしているという。


 両氏はともに、自己をよく客観視・相対化でき、それを言語化する能力もあり、自己を高い水準で確立できているように見える。世間的な尺度では芸能人として大きな成功を収めている。それほどの人達であっても、この種の苦痛を抱えている。どれだけ経済的に成功しても、どれだけ高い声望を集めても、恐らく本人の中では「私は普通の人間だ」という感覚が残っていて、この種の嫉妬からは免れないのかもしれない。
 「彼女らほどの人でもそう」は、「それなら自分もそうなのは仕方がない」という救いでもあるし、同時に「そこまで行っても苦しみから免れない」という救いのなさでもある。


 「そういう人を見ないようにする」が現実的で正しい対処法だとしても、実践できている人は案外多くないのかもしれない。この選択は、両氏の自己を客観視する能力の高さから来ている。
 そうした人を見て嫉妬を覚えて、しかし「自分が自分を苦しくしている」と正しく認識できずに、「こいつが悪いから自分は苦しい」と逆恨みしてしまったりする。かゆい時にかいて、余計に肌を悪化させると分かっているのに、その瞬間は気持ちよくなるからかいてしまうのと同じで、見ないようにすればいいのにわざわざ見てしまう。わざわざ見て、恨みを積み重ねていく。
 そんな苦痛と怨恨の循環にはまり込んでしまう人にならないためには、両氏の「見ないようにする」対処が必要になる。


 私自身も有名人でも何でもない一般会社員でしかなくても、DMなどでちょっと、粘着っぽいメッセージを受け取った経験があったりする。ブログでもSNSでも他人を煽るような振る舞いは慎んで、「自分が自分のために書いている」立場を堅持しているつもりでも、そうした目に合うことはあり得る。
 その逆の立場で、妬ましさというか、見かけると自分が嫌になって苦痛を覚える人も自分にはいる。
 番組のトークを聞いた時に、その嫉妬する側/される側の両者で自分にも覚えがあって、とても印象に残ったのだった。


 お金持ちの人や高い名声を得た人をただ見ても、羨ましい、すごい、と思うばかりで、嫉妬に苦しんだりはしない。自分とは関係ない、自分には無理なことだ、あの人が単にすごいだけだ、別世界だ、と思えれば妬ましさは生じない。
 しかし「自分だってそうなれたはずだ」「本当はそうなりたかった」と思えてしまうと、嫉妬になって苦痛が生じる。人生は一回きりしかないという前提が、「しかしそうではない現実の自分」の取り戻せなさを強調してくる。
 歳を取るにつれて、可能性の束が収束していくのを受け入れて、「そうではなかった自分」を穏やかに肯定できるようになってきても、「そうだったかもしれない自分」をあたかも体現しているような人物を見てしまうと、その肯定が揺さぶられて苦痛を覚える。


 そうした嫉妬を感じたこともなく、想像も難しいという人もいるかもしれない。ただそれが必ずしも幸福だと断言できるかは分からない。両氏が「成功」を収めた要因には、「こうした嫉妬を覚えるタイプの人だったから」という側面があるのかもしれない。
 「こうありたい」とイメージを具体的に描けたり、他者が何を実現できているかを正確に捉えたりする能力は、「正しく努力する」ために必要になる。その能力は一方で、「そうできたはずなのに、そうしなかった自分」を正確に突きつけてくる。
 嫉妬から無縁でいることと、正しく努力する能力を持つこととが、同時に成り立つのは難しいのかもしれない。
 また嫉妬から無縁でいられた人が、ふいに嫉妬に駆られれば、何の免疫も持たず、感情の対処の仕方が分からずに振り回されてしまうかもしれない。その意味でも「無縁でいられること」が必ずしも幸福で安全かは分からない。


 この「そうではなかった現実の自分」の苦痛に耐えかねて、「いやまだ自分の方がすごい、こいつはすごくない」という逃げ道に進もうとすると、相手に粘着することになる。その人の「すごくないところ」を執拗に探し出して相手にぶつけて、相手に「私はすごくない」と認めさせようとしてしまう。けれど現実に存在する「その人の方がすごい」が(自分の中で)解消するはずはないから、どれだけ粘着しても嫉妬からくる苦痛は取り除かれはしない。


 そうして「見ないようにする」態度が自分の身を守るためにも重要になる。その人を目にすると苦痛だけど、「自分は頑張れなかったんだ、あの人はすごい」と苦々しさを噛み締めながら、そっと見過ごす。
 「そうなれたかもしれない自分」を体現するような人物、という存在について、はっきりと考えたことはこれまでなかったけれど、指原莉乃とフワちゃんの二人がテレビの中で「自分にもいる」と語っているのを見て、何か形を伴って「共通した現象」として立ち現れてくるような感覚がして、面白かったのでメモを残しておこうと思って。