やしお

ふつうの会社員の日記です。

介護、会社、監禁事件

 睡眠・食事・排泄といった生理的欲求を、自分でコントロールできているという感覚を通じて人は「自分の主人は自分だ」という自信を確保している。もちろん他にも様々な要素で自信は支えられているけれど、なかでも生理的欲求のコントロール権というのはかなり大きな要素で、ここが奪われるだけで想像よりもずっとあっけなく人は、一気に自分の全てが掌握されたような錯覚に陥ってしまうという。自分の主人は自分ではなく相手であるように思われて服従してしまう。日常生活で体験する機会がないからわからないだけで、人の精神は案外もろい。
 そうした知見が、例えばスタンフォード監獄実験などから得られている。絶対視するつもりはないけれど、この面でいろんな風景を切り取ってみればすっきり見えてくるかもしれない。


 監禁事件があるたびに、逃げればいいのにどうして逃げないのかといった指摘がある。確かにいくつも被害者が逃げられる隙はあったのに、それでも逃げなかったのはなぜかという疑問を、被害者も加害者に好意を抱いていたからじゃないのかとか、もともと同意の上で一緒にいたんじゃないのかとかいった浅はかな回答で埋めて、かえって被害者を責めるような見解が出てきたりする。
 けれどスタンフォード監獄実験の詳細を見てしまうともう、とてもそんな風には言えなくなる。もともと大学での心理学の実験として、囚人「役」として集められただけの学生が、わずか数日の(一週間にも満たない)うちに完全に囚人として振る舞ってしまう。ここから早く解放されたいと思いながらも、ここに監禁されていることが当然だと思い込んでしまう。出たいと言いながら、戻れと言われるとそんな義務もないのに自ら戻ってしまう。一切暴力による強制はなくとも、睡眠・食事・排泄、それから衣服の自由が奪われるだけでも、その奪った相手から逃れられなくなる。


 眠くても眠らせてもらえない、食事は相手の好き勝手なタイミングで出されたり出されなかったりする、トイレも決められた時間にしかいけなかったり目の前でさせられたりする。そうして生理的欲求の自己決定権が奪われると、一気に相手と対立したり反抗したりする気力や発想が奪われてしまう。それで逃げられる場面でも逃げられなくなる。(もちろんそこには、家族や友人との繋がりを絶たれたり、絶たれていると思い込ませられたり、あるいは自分の意思でここにいるという形式にさせたりといった加害者側の「工夫」が様々にあって心理的な障壁が築かれている。)
 もともと人間は幼児のとき、そうした生理的な欲求(特に排泄)を自分でコントロールできるようになることを通して自我を確立させていくという。それだから逆にそこを奪われると自我が揺らいでしまうのかもしれない。


 そう考えると、睡眠・食事・排泄の自己決定権が奪われるタイプの職場に入ってしまうと、どれだけ他人からは「早くそんな会社辞めればいいのに」と見えても、本人からは辞めるという発想や感覚自体が奪われているせいで辞められなかったりするのかもしれない。ソフトな形で監禁事件の被害者に近い状態に陥ってしまう。
 会社に泊まったり、食事や間食が厳しく制限されていたり、トイレも好きな時間に行けない、という職場はある。明示的に強制されていない場合でも「みんながそうしている」という文化があると、自分一人だけ従わないのは申し訳ないからとそれに倣わざるを得ない。かえって強制されるより、自分の意思でやっているのだと思ってしまう方が抜けられなくなる。本当は環境の力で選択せざるを得ないのに、自分の選択だと思い込まされて、その上でそこに囚われて抜け出せなくなる。
 トイレの時間を管理するというのは飲食店のバイトなどで時々聞かれたりするけれど、この面から見ると想像以上に危険な処置だということになる。一般的なイメージよりもはるかに心理的な拘束力が強く、ピコピコハンマーで叩いてるくらいのつもりでショベルカーで殴っているような感じだ。管理者や会社の側がここを理解していないと、自分ではピコピコハンマーくらいのつもりだから悪気なんて全然ないから直そうとしないし、ピコピコハンマーで叩いたくらいでダメになる方が悪い、などとむしろ従業員の方を責めたりする。
 監獄や拷問の手法のように自覚的に仕掛けるのも良いことではないとしても、こうした仕掛ける側が無自覚だというのは止め方や加減を知らない分ずっとタチが悪い。監禁事件の加害者でなくても、ずっとソフトなやり方でこうした原理を利用した他人の支配というのは、職場や家庭などであり得るのだろうと想像できる。支配する側もされる側も無自覚なまま発現してしまう。


 睡眠・食事・排泄の支配といえば、介護もそうだ。ところが介護でよく聞かれるのは、介護される側が暴力的だったり横柄になったりして、介護する側をいじめたり嫌がらせをしたりするという話で、今までとは立場が逆のように見える。しかし生理的欲求のコントロール権が他人に奪われるということが、人にとって耐えがたい苦痛だとすれば、その苦痛への抵抗として見ることで理解できる。
 監禁されたり、就職したり、そういう家庭に生まれたりする場合は、そうした抵抗が奪われている。監禁の場合は暴力などの危険にさらされる恐怖があるだろうし、就職した場合は形式的には「自分の意思で入った」となっているせいでその否定は過去の自分の否定に繋がってしまうし、支配者がいるような家庭に生まれる場合は「最初からそういうもの」と考えてしまうし、抵抗の契機が奪われている。一方で介護はそうした抑圧が少ないのかもしれない。
 自分の子供や業者の介護者に対して、自分の方が立場が上や対等だという意識の中で、自分の睡眠・食事・排泄が支配されるのは耐えがたい。その奪われたコントロール権の分を補完してバランスを取るために、居丈高に命令したり悪口雑言を浴びせたり暴力を振るったりして、相手に対して自分もコントロール権を保持していることを誇示せざるを得なくなる。
 こうした抵抗にあったときに介護をする側が耐えかねて、暴力や激しい睡眠・食事・排泄の制限を通して相手の支配に乗り出すこともあるだろう。老人ホームや自宅介護の中で老人が虐待されるというのも、こうした過程が進んだ末のことだと理解できるかもしれない。もはやこうなると、ほとんど監禁事件と構造的に同じになってしまう。


 それではもはや、老人の側が抵抗をせずに速やかに服従を受け入れることが最も平和だということになってしまうのだろうか。
 以前見たテレビ番組で、老人ホームでの介護士のスキル評価というものが紹介されていた。ケアをする際に相手の体に触れて、相手の目線まで下がって目をしっかり見て、名前を呼んで、世間話もして、その上で必要な作業をするというのがスキルの高い介護士だと言われていた。時間を惜しんで食事などの作業をあからさまに優先させると、相手の抵抗を生んでかえって作業がスムーズにいかずに時間がかかるという。
 そのテレビ番組を見ていたときは「そういうものか」としか思わなかったけれど、今あらためてこの文脈で眺めてみるとよりよく理解できる。もともと睡眠・排泄・食事のコントロール権を相手から奪うというのは、かなり大きく相手の自尊心を損なっている。だから、通常の人間関係よりもかなり過剰に、「私はあなたを対等な相手と見なしている」というメッセージを発することで、その損なった分を補ってバランスを取っている。それで相手は、暴言や暴力といった手段を用いて自ら補完する必要がなくなる。これは服従を甘受しているのとは違う、とてもハッピーな手段だ。
 しかしこれが家族の場合、これまでの連続的な人間関係があるせいで、今までと同じような接し方から切り替えられなくてバランスが崩れてしまう。


 人の睡眠・食事・排泄の制御権を奪うというのは、これほど大変なことなんだということをきちんと認識していないと、知らず知らずのうちに大きな心理的な制約を受けたり課したりしてしまう。自由であるためには、まずはこの人間の条件を理解しておく必要がある。