やしお

ふつうの会社員の日記です。

敵対的ソクラテスの上司

 相手に「どうしてそうしたのか」を答えさせた上で、「しかしそれは間違っている」と論理的に説明し、さらに「それなのにどうしてそうしたのか」を答えさせる、というプロセスを繰り返して相手の逃げ道をどんどん奪っていく作業のことを、敵対的ソクラテスと呼んでいる。ソクラテスは相手との対話を繰り返し、「あなたはなぜそう言うのか」という問いを問い続けて最後に無知の知の地点にまで至らしめる。同じ行為がここでは相手を追い詰める方向へと作用する。
 この敵対的ソクラテスを仕掛けられた相手は最終的に、泣くか、逆ギレするか、真っ白な顔で「はい。はい。」しか言わなくなる。


 相手を追い詰めるためや、自分の身を守るためにこうした攻撃は使用される。ヤクザや取り立て屋といった職業上の必要性(?)からそうされたり、嗜虐的な嗜好を満足するために実行されたり、あるいは他人から自尊心を攻撃されて仕方なく正当防衛的に使用されたりする。
 しかし中には、ほとんど敵対的/攻撃的な意図も目的もないまま、結果的に敵対的ソクラテスを実行している人がいる。「論理的であること」への忠誠心の強い人がそうだ。ソクラテスは自身を聡明だという認識を持たなかった。ソクラテスは、もし自身が他の人々より聡明であり得るとすればそれは、自身が聡明ではないということを知っているという点だけだと言う。一方で攻撃の意思なく敵対的ソクラテスを常に仕掛けてくる人は、自分は聡明だし相手も聡明であり得るし、そうあるべきと根本で信じている。


 かつて上司でひとりだけ、敵対的ソクラテスを日常的に実行してくる人がいた。まったく悪気なく、しかし苛烈に仕掛けてくる。人は聡明であるべきだと根本で信じているから、悪気もないし、手加減もない。
 目撃した中でいちばん驚いたのは、朝一番で先輩が電話をして切り際に「すいませんが」と、ただの挨拶として言った一言をはたから聞き咎めて、「今どうして『すいません』と言ったのか」と問い質し、そこから「謝罪すべき要素もないのに謝罪の言葉を使うのは間違っている」という説教の2時間コースへ突入したことだった。見ないふりでパソコンに向かいながら、(うおー。これでアウトなのかよー。こっえー)と思った。


 自分の行動の一つ一つに、常に正確に「こう理由があって私はこうした」のストーリーを用意しておかないとすみやかに炎上するから、毎日ずっと緊張していた。しかし防御していても穴というのは当然あって、(うっかり開いているというだけでなく、原理的に必ず穴を「生じさせることができる」ので)どうしても敵対的ソクラテスにさらされることがある。
 そんなときは、自分でも軽く驚いたといった態度で、「あっ、そうか。そうですね。確かにそこを押さえておかないとダメですね」、「見落としてましたが、それだとここがこうなっちゃうからまずいですね」と言わなければならない。とにかく素早く「自分の見落としである」、「今指摘されたことで見落としに気付いた」、「その指摘によって自分は正確に問題点を把握できた」という点を示さなければいけない。それで「そりゃそうだよ。当たり前じゃんか」、「それくらいわかんなきゃだめだよ」くらいの小言は食らっても、延焼はひとまず防げる。
 実は最初から気付いていたけれどめんどくさいとか必要ないと思って放っておいた、といった場合(よくある)でも、「言われなくてもわかってる」みたいなことを少しでも匂わせたら即死だ。「わかっていたのにやらなかったのは、どういうことだ?」で詰んでしまう。あくまで、「あなたの指摘によって私の落ち度に気づけて良かった」というストーリーにしないといけない。


 そして延焼を防いだら、次は鎮火だ。続けざまに対策と再発防止策を示す。「今どうするか」という話と、「もし次に同じことが起こった場合はこうする」という話をする。そこまで言えれば、運が良ければ「そうそう。わかってんじゃん」とお褒めの言葉さえいただけるかもしれない。もしそこまでは無理でも、「じゃあどうすればいいのでしょうか?」と手ぶらで聞くのは極めて危険だ。自分で何も考えようとせずに人に聞けばいいと思っている、と捉えられてしまうと「どうしてお前は自分で考えようとしないのか」という答えるのがほぼ不可能な質問で逃げ道をふさがれる。だから、「この場合誰/どこの部署に話を持っていくのがいいでしょうか」とか、「この判断を下すにはあとどの情報を揃えればいいでしょうか」とか、ある程度的を絞った質問をしていかないと危ない。
 「次にどうアクションすべきか」という未来の話になるべく早く持っていくことだ。過去の行動について話をすると、どうしても敵対的ソクラテスに突入しやすい。未来の話なら「自分の落ち度で発生した穴」というものがそもそも存在しないから比較的安全だ。


 相手が知らない情報(前提)があって、その前提を付け加えることで自分の行動が整合的に説明がつき、その前提自体にも妥当性があるような場合なら、その前提を伝えればいい。「ああそうか。それならわかった」であっさり済む。ところがそうでなくて本当に穴があいているのなら、このように適切に認めて収束させないといけない。
 偉そうに書いているけれど、当時は上手くいかずにやっぱり炎上することもときどきあった。5〜7年前、まだ私が22〜24の頃のことだ。私はそれほどでもなかったけれど(課でずっと最年少だったし手加減してもらっていたのかもしれない)、本当に炎上率の高い人というのはいて、割と共通の特徴があった。


 炎上しやすい特徴というか、根本的にその上司の内的な論理を理解していないようだった。「あの人は『ロジック』が好きだから」とみんな言う。それはその通りだけど、それじゃ認識が足りない。好き嫌いのレベルじゃない、信仰しているというレベルなんだってことを感覚的に理解してないから炎上しちゃう。
 敵対的ソクラテスをしかけられると、どうしてもつい逃げたくなってしまう。早く終わってほしいと願ってしまう。それが抑えきれずに漏れ出してしまう人は炎上してしまう。「どうにかしてやり過ごしたい」という気持ちから、微妙に理解できていないポイントがあるのにわかったふりをして炎上しちゃうんだ。
 相手を攻撃することが彼にとっての目的ではないということを正しく理解していなければならない。彼にとっての満足は、人がきちんとロジックを組み立て、それに従って行動すること、そう努力することにしかない。相手が申し訳なさそうな態度を見せるとかそんなところに満足のポイントはないんだということを十分に理解していないと炎上してしまう。
 「俺は本当にあんたの理屈を理解したいんだ」という態度を見せなければダメなのだ。もしわからないところがあれば、怖かろうが何だろうが、「自分は今ここが理解できていない」、「それはこういう理解で合っているのか」と聞き続けないといけない。その間「どうしてそんなこともわからないんだ」と相手はイライラしてつらいかもしれないが、結局はそれが早道なのだ。肉を切らせて骨を断つではないけれど、逃れたい、逃れたいと思うとかえって引きずり込まれてしまうのだから、逆にしっかり入り込むことでしか早く終わらせる道はない。


 炎上してしまう人は愚かだったというより、思考様式の相性の問題だったと思う。論理性に対する信奉の度合いが違って、そこで齟齬が出てしまったんだろう。その齟齬が敵対的ソクラテスによって露わになるというのはお互いにとって不幸なことだったろうと思う。
 論理に対する信奉の程度が小さい=そういうトレーニングを積んでいない人にとっては、上司が言うことはわかる、確かに自分の過去の行動が不十分だったということはわかる、だけど「なぜそうした?」と言われてもそれは答えようがない、なのに答えろと迫られるのは責められているように感じる、それで、わけもわからず謝るけれど余計に責められる、どうして自分は謝っているのに責められるのか、それで逆ギレみたいになるか、真っ白な顔で「はい。はい。」しか言わなくなる。一方でその上司にとっては、単に「どうしてそうしたのか?」を聞いているだけなのに、どんどん答えがあやふやになって、わけのわからないことを言い出すから、イライラする、語調が険しくなる。何に謝罪しているのか本人もわかってないような謝罪をされて、ますます腹が立つ。
 それで2時間コース、3時間コースになる。まったくお互いにとって不幸なことだ。


 2年弱の長くない付き合いだったけれど、その上司のことはずっとすごく印象に残っている。これまで8年で合計5人の課長の下で働いてきたけれど、あそこまでロジックに対する信奉心の強い人は他にいなかった。好き嫌いで言えば、割と好きだった。この行為は合目的的かという検証を徹底的にする人というのは、会社の中で、仕事をするというゲームにはとても貴重だ。
 だからと言って敵対的ソクラテスをしかけられると超しんどいし、職場の雰囲気が最悪になるのだから、また課長になってほしいってことはない。(1年くらいのポイントリリーフなら耐えられるかもしれない。)それに「穴をふさぐ」というのはコスト(時間や手間)がかかってしまうので、「怒られないためになるべく穴をふさぐ」という行動にみんなを走らせてしまうと生産性が落ちる。敵対的ソクラテスを仕掛けて完遂してしまうと、相手の自尊心を確実に損ねることになる。


 じゃあ自分は他人とどう接しているだろうかと考えると、わざと逃走経路を用意しているような気がする。(あ、これ追い詰めちゃいそうだな)と気づくと、なにかこわくなって、別の面に逃げ道を用意してる。「たしかに一週間しかなかったから十分検討する余裕がなかったんだろうね」とか、「そうは言っても正直めんどくさいなってのはすごくよくわかるんだよな」とか言って、「いやあ、実はそうなんですよ」と相手に言わせようとしている。「それならしょうがないよね」とお互いに言える道を提示する。
 親切からそうしているというより、恐怖みたいだ。人を完全に追い詰めてしまうと、とんでもないことになる。窮鼠猫を噛むみたいなことになるし、その場で噛まれなくても後で恐ろしいことになる。そんな恐怖感からそうしているみたいだ。それに後になって、相手を追い詰めるほど自制できなかった自分に嫌気がさす。
 論理性に対する信奉心が強くない。強くないというより、根本的には主観性に行き着くはずだという信奉があるせいで論理性が相対化されている。
 逃げ道をふさぐことと、逃げ道を作ってあげることとは、技術的に同じなのだから、あのときの上司にだって人に逃げ道を作ることはできたはずだけど、論理への確信の強さがそれを許さなかったのかなと思うとかなしい。