やしお

ふつうの会社員の日記です。

差別語の三相を見つめて適切に距離を取る

 小説を商業出版することになり、これまで自分で書いて見直すだけだったのが、編集者・校正者による校正・校閲のプロセスを初めて体験した。その過程で差別語・差別表現に関しての指摘を受けて、改めて自分の中での判断について少し整理しておきたいと思った。
 ある言葉が持つニュートラル、ネガティブ、ポジティブの三相を同時に見ないと、「その言葉をここで使うのが適切か」は判断ができないけれど、三相のうち一面しか見なかったり知らなかったりすると正確に判断ができなかったり、話が噛み合わなくなったりする。


指摘を受けた点1

 「発狂」や「狂人」に指摘が入った。
 江戸時代に実在したという届出「発狂扱ひ」に言及した箇所に指摘が入った時はどうしようかとも考えて、「精神状態の異常による行動という届け出」と言い換えた。
 明治時代に精神障害者が「狂病者」と呼称され、「狂」に否定的・差別的な意味あいが付与されてきた。1970年代に「きちがい」という言葉が、精神障害者家族会の一部から抗議を受けテレビ・ラジオでの使用が自粛され、その過程で「気が狂う」などの表現も使われなくなっていったという。


指摘を受けた点2

 「オネエ」や「オネエ言葉」に指摘が入った。
 「オネエ言葉」も、実際にはオネエ言葉なのにそのまま別のネーミングを勝手に割り当てれば、一種の文化的な簒奪というか、それでサバイブしてきた人たちの過去をなかったことにするみたいで、かえってその方が差別的な態度だとも思い、別の口調に差し替えたり、そもそも特殊な口調だとは言及しないようにした。
 戦後から「オカマ」は蔑称として使用されていたが、1980年代からメディアでの使用も拡大した。2001年に雑誌での「オカマ」という語の使用に当事者団体が抗議し、さらに他の当事者らから使用を容認するカウンター意見が出された。2000年代中頃からメディアでオカマに代わりオネエの使用が広がったが、本来のオネエの範囲を超えてゲイやトランス女性全体にまで使用されるケースがあり、不快感や被差別感情を持つ当事者も多くなっている。


指摘を受けた点3

 短編集のうち2作が、主要人物が差別的な意識を内包しており、一種の罰なりしっぺ返しを食らうといった要素があった。その差別的な人物の認識を書いた箇所について、差別表現として指摘を受けた。
 一つが「単純作業労働者の愚鈍な男と推断して軽蔑した」という表現で、「単純作業労働者=愚鈍」とも受け止められかねないという指摘だった。作中人物が他者の容姿だけから、職業や知性を一方的に判断して軽んじるという、差別そのものの振る舞いを描いている箇所だった。これは「愚鈍な」を削除し「単純作業労働者の男」とした。
 もう一つが、「スラムの連中は結局頭が悪いから」という表現で、これも「スラムの住人=頭が悪い」と受け止められかねないという指摘だった。その文は削除したが、その人物が「スラム」と呼んで自覚なく見下している様子をもう少し強調し、別の作中人物がその認識の間違いを明確に否定するような箇所を入れるような調整をした。


指摘の位置付け

 編集者・校正者からの指摘は、あくまで「ここはこれで大丈夫か?」というリマインドで、「絶対にこう直せ」「この語の使用は絶対に不可」ということではなかった。書籍ごとの性格や文脈なども踏まえた上でどこまで提案するかは変わるため絶対的なコードがあるわけではないという。仮に「このまま」であれば補足や注釈を入れてその語を使用した意図を伝えることになる。
 ちなみに「放送禁止用語」(現在は「放送注意用語」「放送自粛用語」と呼ばれるそう)なども厳密に禁じられた言葉ではなく、使用時には注意が必要な(必然性がなければ使用しない)言葉で、各社で対応も違うという。


差別語の三相

 同じ言葉でも、使われる文脈が違えば生じる効果は変わる。言葉の社会的な文脈の中でのより適した運用を上手く考えるには、一つの言葉が持つ異なる側面を、ある程度整理して/分けて見てみるのが良さそうだと感じた。
 差別語の持つ複層的な意味あいについて、ここでは仮に三つの層に分けて考える。

  • 本義(ニュートラル):その語の持つ本来の意味(「盲」→目が見えないこと/人 等)
  • 賤称(ネガティブ):当事者を貶める意味での使用(自嘲も含む)
  • 尊称(ポジティブ):差別語であることを認識した上であえて当事者がプライドを見出して自称として使用する(「部落民」「ニガ」「クィア」等)

※「尊称」は他者の呼称を指し基本的に自称ではないが、「差別語が自称に転化する」点も含めて一旦ここではこの語を充てている。


 おおよそ本義→賤称→尊称と生じて重なっていく。
 ただし必ずしも一方通行ではなく、ドミナントな用法は遷移する。例えば(差別語ではないが)「貴様」「お前」は尊称→賤称・卑称に転化した。あるいは差別意識を正当化させるために見出された差異が、もはや差異として機能しなくなれば、本義としての用法に収斂し得る。ただしその場合でも歴史的経緯として差別語だった過去は残る。


一側面のみの重視

 差別語の三面のうち、意識的か無意識かは問わず特定の面を見落としたり、特定の面だけを見たりすると、正確に差別語を捉えられなくなる。

  • 本義だけを見る→それが差別語であること自体を否定する。
  • 賤称だけを見る→一切が差別的だからと語の使用そのものを否定する。
  • 尊称だけを見る→当事者にしか使用を許さない。もしくは肯定的な側面のみを強調し、その語によって傷つく者を顧みない。

 

言葉狩り」の拡大解釈

 「言葉狩り」にも広義(拡大解釈)と狭義があり、これを混同すると話が合わなくなっていくのではないかと思う。


 拡大解釈された言葉狩りは、「全て好き勝手に言葉を使わせろ」というもので、本義だけを見る、あるいは賤称の側面を見ない態度に相当する。
 狭義の言葉狩りは、「使用が不適切でないケースまで単純な置き換えをするのはおかしい」というカウンターで、これは賤称のみを見る態度に対して、三つの側面を同時に見るべきだという態度から来る。


 ただ本人が狭義の言葉狩りだと考えていても、実はその言葉が持つ歴史的な背景などを知らないだけで、拡大解釈された言葉狩りになっている場合もある。


狭義の言葉狩り

 以下のようなケースは狭義の言葉狩りに該当し、語の置き換えがむしろ不適切な場合にあたる。

  • 本義の側面を見ない1:歴史や実情を正確に記述する必要がある場合に置き換える。(例えば差別そのものや歴史的事実を論じる文章の中で使用を禁じるような場合)
  • 本義の側面を見ない2:差別的な意味を持たない語を置き換える。(例えば「予定が狂う」や「熱狂的」の「狂う/狂」を制限するような場合)
  • 尊称の側面を見ない:当事者が自称として使用している言葉を制限する。(ただそれが自嘲で公言が差別的イメージの再生産に寄与している場合は、賤称に該当し得る。)

 

表現の自由」の拡大解釈

 こうした拡大解釈は「表現の自由」でもよく見かける。本来の意味は「公権力によってみだりに制約を受けない」であっても、「全て好き勝手に表現させろ」と歪曲される。
 言論が公表されれば権利の衝突は生じ得る。そうした権利の衝突を「表現の自由」だけを言い立てたり、「言葉狩り」と反発したりすることだけで正当化はできない。説明可能性や合理性の高い状態を極力保ち、あるいは権利の衝突が生じたとしても、自分にとってどうしようもなくこう表現するほかなかったと言うしかない。


差別語の使用による差別的常識の定着

 差別語が差別的な認識を内包した文脈で(とりわけ公的なメディアで)使用されれば、その差別を「常識」として世間に定着させる役割を負う。
 仕草や言葉遣いが柔らかいキャラクター「保毛尾田保毛男」がテレビのバラエティ番組で登場し、そうした人を「ホモ」とレッテルを貼って面白おかしくいじって良いというメッセージになった。あるいは「アスペ」という語がカジュアルに使われ、「空気の読めない人」を貶めて嘲笑して良いという「常識」を生む。ゲイや自閉スペクトラムの当事者にとっては、「自分たちは嘲笑される対象なのだ」という恐怖にさらされる。


 部落差別に関して、1871年明治4年)に太政官布告いわゆる「賤民解放令」が出された後も、差別は解消されず、約50年後の1922年(大正11年)に全国水平社が差別解消を求めて立ち上げられた。その創立大会決議の冒頭に「吾々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糺弾を為す」と掲げられた。
 言葉の糺弾にこだわったのも、差別語の使用によって差別的常識が再生産される現実があるという認識と通底している。


「発狂扱ひ」の扱い

 「使用が不適切でないケースまで単純な置き換えをするのはおかしい」という意味での「言葉狩り」からすると、江戸時代に実在したという届出「発狂扱ひ」に言及した箇所を、「精神状態の異常による行動という届け出」と言い換えたことは「言葉狩り」に該当し得るのだろうか。
 表現が冗長になる点に難があるとも感じたが、いくつかの理由で書き替える方が適切で、「言葉狩り」ではないと考えた。

  • 時代小説/歴史小説ではない現代を舞台にして、会話文ではなく地の文で補足的・説明的に書いている箇所で言い換えにさほど違和感がない。
  • 話のコアでない箇所で、その説明全体を削除しても成立させられる箇所でもあり、元の語に拘泥することで保たれる価値が低い。
  • 江戸時代に「発狂願ひ」という届けが存在したことの延長上に、明治時代に「狂病」と呼称され精神障害が否定的・差別的に扱われていった経緯があると考えられる。

 

指摘への反発

 指摘を受けると、「あなたには差別意識がある/反差別の認識が足りない」と言われているような気持ちになり、恥ずかしさや反発を覚える。少し時間を置いて冷静になって、なるべく「この言葉が作品内でどういう働きをしているか/作品外でどういう働きをし得るか」を考えてみるのが大切だと感じた。
 そうして考え直してみると、指摘に妥当性がある(修正した方がより適切だ)というものが多かった。


 本義しか見ていない、蔑称の理解が曖昧だと「不当な言葉狩りだ」と感じられても、蔑称の歴史を知れば「あえて使うだけの合理性も正当性もない」と自然と感じられる言葉も多い。
 言葉が制限されている、不自由だと最初に感じたとしても、ほとんどのケースは理解不足(特に僭称の側面について)から来るもので、その言葉が担わされた経緯を知ってみると、自然に置き換えようという気になってくる。「考えなしに」の意味で「脳死」、「尊重されない」の意味で「人権がない」といったスラング的な使用も、その言葉の持つ意味を知っていれば抵抗感が生じて簡単に使えないのと同じ。
 あるいは三相それぞれを正しく知れば、機械的な置き換え(不適切でないケースでの置き換え=狭義の言葉狩り)がかえって差別意識への認識を曇らせる結果になって不適当だとも思えるようになる。


常識の置き換え

 よく差別的言行を指摘された人が「差別の意図はなかったのだから差別ではない」と強弁するのを見かける。差別は「常識」として存在するため、差別者が「差別じゃない(常識を言ったまでだ)」と感じるのは自然なことだとしても、本人にその意図があるかどうかはあまり関係がなく、その言行がどういう働き方をするかが問題になるため「意図がないこと」は弁解にはならない。
 旧来の差別的な常識が、非差別的な常識へと置き換わる過程で、旧来の常識を是とした人の言行が、新しい常識から見たズレとして認識されて指弾される。


 差別の解消が進められ常識が置き換わる過程で、旧来の常識と、新しい常識のどちらがドミナントかの割合によって、生じる光景に差が生じるという話を以前に書いた。
  差別が解消されるプロセス - やしお
 

発信者と受信者の相互関係

 その言葉が差別語だから使用が禁じられるのではなく、他者を不当に貶めるために使用される/その蔑視を通念として固定化するように働くために使用が許されない。しかし往々にして文脈を適切に読めず「差別語だから」と指摘する人もいる。
 ただこれを単純に「文脈を読めない方が悪い」とも言い切れない。意図の伝達には発信と受信の両者が必要になる。誤解(受信エラー)が生じるのは、発信者の説明が不十分かもしれないし、受信者の読解能力の不足やバイアスかもしれないし、その双方かもしれない。


 例えば「台湾の原住民」と書かれていて、「原住民は差別じゃないか、先住民と言うべきじゃないか」と指摘されたとする。確かに日本では「原住民」に差別的ニュアンスがあるとして「先住民」と書き換えることがある。一方で台湾では「先住民」は「すでに滅んだ民族」の意味合いがあり、「原住民」という呼称が憲法でも使用されているという。この場合「原住民」の使用がより適切だと考えられる。
 想定読者が台湾の専門家であれば説明なしでも通り得るし、一般読者が想定されるなら説明が不足しているとも言い得る。どこまで書けば十分かは発信側/受信側の相互関係によるところが大きい。


差別的な人物や意識を描く

「指摘を受けた点3」で書いたような「差別的な意識のある作中人物を描く」箇所も、その作品の想定読者との相互関係を考慮しながら現実的なバランスを決めることになるのだろうと考えている。
「きちんと相対化されているのだからこれでいい、説明的にもしないし削除もしない」という受信側負担に振る判断もあり得る。ただ個別具体的に言えば今回の本は、「エンタメ小説として幅広く読んでもらいたい」が書籍化にあたって当初から出版社側より伝えられていたところで、かつこの著者(私)の商業出版が初めてで著者としての信用がほとんどない以上、発信側負担になるべく振る(文脈で見てもらえなくても/そこのみを切り取っても誤解されにくい状態にしておく+より明確に相対化する)判断をした。






 こうしたあれこれを考えるのに、具体的にどういった差別語があるのか全体像を知りたいと思って、小林健二『最新 差別語・不快語』を読んだ。様々な分野の差別語・差別表現について、過去にどういった経緯や指摘がされてきたのか網羅的に書かれていて非常に参考になった。


 これらは別に商業出版とは関係なく、SNSでも何でも言論を公表する際には考える必要がある。ただより広く伝わり得るメディアであればその分丁寧にやる必要がある。それでも抜けや漏れ、認識不足もあるだろうし、また時間経過によってある言葉が持つ意味も変わってくる。怖いとも感じる。それでもその時点で全力でやって、間違えたなら訂正して何が間違っていたのかをはっきりさせて再発防止を取るほかない。



 「商業出版することになった短編集」は↓
八潮久道『生命活動として極めて正常』



 ↓投げ銭代わりの設置。お礼しか書いてない。

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