やしお

ふつうの会社員の日記です。

本気でハマっていた何かを、「やめてない」という気持ちでやめていく

 ネットで漫画やイラスト、小説やブログを書いてた人が、ふっとやめてしまってさみしい、というのはよくある。外側から見ると急にやめちゃったようにしか見えないけど、内側から見るとむしろ「別にやめたわけじゃない」という認識なことが多いんじゃないかと思っている。
 はっきり「やめる!」と決意してやめた人は少数派で、「まだやってる」の気持ちは持ち続けたまま、実績としてはやめた状態がずっと続いていく。


 自分自身のケースだけど、以前はてなダイアリー/ブログで創作(お話)をせっせと書いていて、その後カクヨムに移った。2005年5月くらいから始めて、2019年3月に終わっている。まる2年以上更新してなければ、外側からは「やめちゃったんだな」としか見えない。でも本人は「別にやめたってわけじゃないけど……」と曖昧に思っている。
 このズレが、熱心にやっていたことを急にやめてしまうケースに割と共通しているんじゃないかと想像している。


 07年にTwitterが流行って、当時はてなダイアリーを書いていた人たちも軒並み始めていた。その後みんな、はてなダイアリーを書かなくなっていった。自分だけ取り残されたみたいで悲しかった。「ちょっと待ってよあなた百傑だったじゃん!」みたいな気持ち今もある。これも同じような感じだったのかもしれない。
 はっきり「やめる」と宣言してやめる人もたまにいる。自分が追ってた人だと一人、「もはや匿名ダイアリーの方がリーチする時代になったのだからやめる」と言ってはてなダイアリーをやめた。14年8月のことなので、もう7年近く前のことだった。
 しかし明確にやめると言ってやめた人は少ない。特にやめる気があったわけでもなく、何となく足が遠のいていった結果なんだろう。


 自分自身を振り返ると、小学生の時は模型にハマり、中学生の時はパソコンにハマり、高専生(1~3年くらい)の時は絵画にハマって、高専(4年~専攻科)と社会人初期に純文学にハマっていた。どれも時間と熱意をかなり傾けてやっていたのに、最後は曖昧に離れていった。どれも離れた当初は「別にやめたわけじゃない」と思っていた。同じことをずっと繰り返している。


 この(創作じゃない方のサブアカの)はてなブログも、そんな感じでそのうちやめていくのかもしれない。先月は何も書いていなくて、仕事が忙しいと単に余暇の時間が減るだけでなくて、その減った余暇の時間も疲れた頭をゲームみたいな単純作業で労るくらいしかできなくなったりする。


 どうしてやめちゃったんだろうかと考えると、
技術や知識のレベルが上がって楽しい
→だんだん難しいことにチャレンジしていく
→徐々に「楽しい」を得るための「大変」のコストが上がっていく
→別の新しいことに興味が出てくる
→そっちの方が「技術・知識の獲得初期」で楽しいので流れていく
→時間が空くと技術・知識レベルが低下してさらに足が遠のく(取り掛かる心理的ハードルが上がる)
→完全に離れてしまう
みたいなサイクルを繰り返しているようだった。(やめる時に「やめたわけでは必ずしもない」と当人が思ってる、というのはそこそこ一般的な話なんじゃないかと思っているけれど、このやめる機序・サイクルが一般的に共通している、とまでは思ってない。)


 小学生の時の模型も、最初はガンプラを組みなりに組んで、パーツを好きに他のと交換したりして、かっこいい、楽しい、それだけだったのに、塗装を始めるようになり、ジオラマを作り始めて、そこそこでかい鉄道模型ジオラマに取り掛かったところでふっとやめてしまった。
 絵は、高専の美術部(部員が2人)で油彩の人物画をずっとやり続けて、県や市の美術展で賞をもらえるくらいにはなって、水彩もやるようになって(やり直しが効かないので水彩の方が難しかった)、さらにキャンバスのサイズも大きくして単なる肖像じゃないものを、と進んだところで途中まで描いてやめてしまった。絵そのものはあげたり捨てたりして何も残ってないけど写真があった。祖母を描いた油彩画(16歳のとき)と、同級生を描いた水彩画(17歳のとき)↓ 懐かしい。今道具が目の前で揃っててももうできない。



 やめてしまっても全部無駄ってこともなかった。
 パソコンにはまった後に高専の情報系の学科に入って今メーカーで働いてるのもそこきっかけだった。絵も描くのはやめたけど当時それなりに過去の画家を知ったおかげで今も美術館や博物館を上手に楽しめるようになれた。純文学は小説を読むのに批評やエッセイもそこそこ読んだおかげで、ものを考えるベースが今も役立っていてありがたい。
 ただ、「何かしらの役には立っている」と「それそのものを辞めてしまった」は全然別の話でしかない。


 改めて「やめてしまう」機序を眺めてみると、楽しいを得るコストが上がっていく中で、そこを耐えられる、そこでやり続けられる人はやっぱりすごいし、つくづく尊敬する。大人になると、(スポーツのトッププロ選手などでない限り)その分野に対する生得的な才能の有無というより、努力を継続できる才能の有無の方が、よほど重要だと感じるようになってくる。
 生計を立てる手段=仕事にする、(偏執狂的に?)自己のアイデンティティとして規定している、あるいは本当に好きでたまらない/そうせざるを得ない切実さがある、など上がっていくコストやハードルを超えて継続するインセンティブの与え方はいくつか考えられる。しかしそれらは自身でコントロールするのは難しい種類のものだ。


 動機を強化する=大きくなったハードルを超える方向でのコントロールが難しいのなら、ハードルをほどほどの大きさに抑えて、楽しみを感じやすい状態にすれば良い、という話になってくる。
 だんだん難しいこと、大きなことをやりたくなってきて、でもそうするとハードルが上がって、中途半端に着手したまま放置して離れてしまう。それなら放置しないぎりぎりの難易度とサイズに意識的に抑えて、さらに自分にとって「やっていて楽しい」が何かをはっきりさせて、そこを失わないようにやっていけば、「やめちゃう気はないのに/できれば続けたいのに、なんとなくやめちゃう」にならずに済むかもしれない。あとは仕事が忙しくならないようにする、ワークライフバランスを整えるのは前提になってくる。


 と、ここまで書いたところで、「ほんならあんたがやりゃあええがね」と自分に言われたので、とても久しぶりにお話を書いてカクヨムにアップした↓
  RTAごんぎつね - RTAごんぎつね(OjohmbonX) - カクヨム


 別に「やらなきゃいけない」ってこともないけれど、他の人に「あの人がやめてしまうのは悲しい」と思うんだったら、まず自分でそれを回避する方法があるものか試すのが先か、と思って。